マタイ3章:イエスのバプテスマが現す三位一体なる神

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はじめに

2026年5月10日の日曜日、純福音東京教会の主任牧師が、「三位一体なる神様」と題してマタイによる福音書3章13~17節から説教しました。この箇所は、イエスがヨルダン川で受けたバプテスマ、つまりイエスの公の働きの最初の出来事を伝えています。

説教者はまず弟子たちの話から始めます。弟子たちは三年半のあいだイエスと共に暮らし、数々の奇跡を見て、毎日神の国のみ言葉を聞いていました。それでも十字架を理解していませんでした。復活したイエスに出会い、昇天を見届けた後でさえ、信仰に確信を持てずにいました。ところが十日後、屋上の間で聖霊が彼らに降ると、すべてが変わります。弟子たちは大胆な信仰をもって出て行き、イエス・キリストの証人となりました。ここから説教者は確信をもって語ります。「私たちの人生のキーワードは聖霊です。人生の成功も、人生の答えも、すべて聖霊の中にあります。」

そこから説教者は、悔い改めの必要がなかったイエスがなぜバプテスマを受けようとされたのか、バプテスマのヨハネの姿勢がへりくだりと従順について何を教えているのか、そしてイエスが水から上がられたときに何が起こるのかを語ります。天が開かれ、御霊が降り、父なる神が語られます。三位一体なる神が、一瞬のうちにご自身を現されるのです。

メッセージの流れ

1. 三十歳:公の働きの時

  • イエスの公の働きが始まります。イエスは三十年にわたる隠れた生活に別れを告げ、大胆に神の国を宣べ伝え始めます。そのときイエスは三十歳ぐらいでした(ルカ3:23)。
  • イスラエルでは、三十歳で一人前の大人と認められました。幕屋に仕えるレビ人も、この年齢になって初めて正式に務めに就きました(民数記4:3)。
  • ヨセフは、十三年にわたる奴隷生活と苦しみを経て、三十歳でエジプトの王に次ぐ第一の人物となりました。ただの雇い人でも、小さな役人でもなく、不幸のどん底から一気に頂点へと上ったのです。
  • イスラエルで最も愛された王ダビデは、十七歳のころから注目されていましたが、正式に王位に就いたのは三十歳のときでした(サムエル記下5:4)。
  • イエスもまた三十年を終え、公の働きを始められます。その働きの最初の出来事が、ヨルダン川でのバプテスマでした。

2. なぜイエスはバプテスマを受けようとされたのか

  • ヨハネが授けていたのは悔い改めのバプテスマでした。罪人が悔い改めて神に立ち返るためのバプテスマです。
  • しかしイエスは、聖霊によって宿り、マリアから生まれた、まことの神でありまことの人です。三十年間、一度も罪を犯されませんでした。神として、悔い改める必要はありません。罪のない人の子としても、同じです。ですから、もともとバプテスマを受ける必要はまったくなかったのです。
  • 説教者はギリシア語の「メタノイア」という言葉に注目します。「悔い改めとは、後悔することではなく、変えられることです。」過去の自分から、新しいものへと移ることです。
  • イエスがバプテスマを受けられたのは、その模範となるためでした。人類が変えられるために欠かせない信仰の行いとして、イエス・キリストと共に死に、共に葬られ、共によみがえることを示されたのです。これが、イエスが私たちに示してくださったバプテスマの本当の意味です。
  • 説教者は、バプテスマは救いの絶対条件ではないと明言します。ただ、イエスはこの変化を知らせ、私たちの模範となるために、自ら進んでバプテスマを受けられました。説教者は、教会で7月に予定されているバプテスマに向けて準備している人々に、しっかり学ぶようにと励ましています。
  • 水に入る前は、ユダヤ人か異邦人か、韓国人か中国人か日本人か、良い家柄か貧しい家か、高い学歴があるか教育を受けていないか、男性か女性か、何歳か、さまざまだったかもしれません。しかしイエス・キリストと共に死んだ後は、だれもが等しく「イエスの人」となります。水から上がった人は、もはや国籍や学歴で定義されるのではなく、新しく生まれた者です。

3. バプテスマのヨハネのへりくだり

  • そのころ、ヨハネの人気は絶大で、説教者の言葉を借りれば「どんなアイドルよりも大きなもの」でした。人々は国中からヨルダン川に集まり、悔い改めのバプテスマを受けました。多くの人が彼を預言者、さらにはメシアではないかと考えていました。
  • 人間的に見れば、ヨハネは頂点にいました。何十万人もの人にバプテスマを授けた後なら、高慢になってもおかしくありませんし、少なくとも「これだけのことを成し遂げたのだから、イエスにバプテスマを授けてもよいだろう」と思ってもおかしくありません。しかし、彼はそうしませんでした。へりくだったままでした。
  • 「高慢はクリスチャンにとって最も恐ろしい敵です。」高ぶりは滅びに先立ち、誇る心は倒れに先立ちます(箴言16:18)。
  • 説教者は歴史を例に挙げます。他国を侵略した国で、長く続いた国はありません。他の民族を苦しめて一時は栄えても、決して長続きしませんでした。侵略することそのものが高慢の行為であり、神の座に取って代われるという幻想なのです。神のようになろうとする文化や文明は、最後には倒れます。
  • 企業も同じです。へりくだって創業した会社は、大きくても小さくても、高慢に陥り、自分の利益だけを追い求めるようになった途端に滅びへの道に入り、驚くほどの速さで崩れ落ちます。
  • 「へりくだりは、非常に大きな力です。」イエスはこう言われました。「わたしは柔和で心のへりくだった者だから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイ11:29)。へりくだった心を持つことが、祝福への道です。
  • 「水がいつも高いところから低いところへ流れるように、神の祝福はいつも低いところへ流れます。」

4. バプテスマのヨハネの従順

  • ヨハネは最初、イエスを思いとどまらせようとします。「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」(マタイ3:14)。ヨハネはいつも、自分は後から来る方のくつのひもを解く値打ちもないこと(ヨハネ1:27)、ただその道を備えるために遣わされたこと、そして自分は衰えなければならないこと(ヨハネ3:30)を告白していました。
  • イエスはこう答えられます。「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」(マタイ3:15)。説教者はこれを言い換えて説明します。イエスはこのバプテスマを受けることで、私たちがイエスと共に死に、葬られ、よみがえることの明確なしるしとされたのです。イエスは人類の模範となられます。
  • そしてヨハネは従います。それ以上言い張ることは、結局のところ高慢になってしまいます。「イエスが命じられたなら、私たちはもう判断する必要はありません。」人間的には不合理に思えることであっても、神のみ言葉と戒めは、私たちの判断にゆだねるべきものではありません。
  • 罪人が、正しい方を批判したり、解釈し直したりできるでしょうか。目の見えない人が目の見える人を導いて、こっちへ行け、あっちへ行けと言えば、二人とも倒れます(マタイ15:14参照)。まして、闇の中にいる者が、光の中におられる方に命令することなどできません。
  • 「従順とは、神のみ言葉をそのまま受け取ることです。納得したからするのではありません。神のみ言葉だから従うのです。」
  • ペテロが、呪われたいちじくの木が枯れているのに気づいたとき、イエスは「神を信じなさい」と答えられました(マルコ11:22)。説教者はこのギリシア語の表現を、神の判断をそのまま受け入れ、自分の考えではなく神の思いを持ちなさいという招きだと理解します。この信仰によって、山に向かって「海に入れ」と言い、疑わない者は、そのとおりになるのを見ることになります(マルコ11:23)。
  • 「絶対的な主権者の前では、自分の主権を主張する者は、ただ追い出されます。絶対的な主権者の前で、私たちは従うだけでよいのです。」
  • 説教者はこれを牧師たちにも当てはめます。なぜ多くの牧師が、リバイバルのただ中で倒れるのでしょうか。初めからそうだったわけではありません。しかし教会が成長し、癒しが増え、信徒が大勢集まるようになると、幻想が入り込みます。神の判断ではなく、自分の判断で教会を導き始めるのです。「そうなったら、もはや牧師とは呼べません。」この危険は小さな教会ではまれですが、大きな教会では現実のものです。

5. 開かれた天

  • 「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天がひらけ」(マタイ3:16)。説教者にとって、これはこの出来事全体で最も大切な部分であり、イエスがバプテスマを受けられた深い理由のひとつです。
  • アダムとエバの罪以来、イエスが来られるまでの四千年のあいだ、天の門は人類に対して閉ざされたままでした。アダムが懐かしさにあふれてエデンに戻りたいと思ったとしても、園の東にはケルビムと、回る炎のつるぎが置かれていました(創世記3:24)。門は閉ざされていたのです。
  • 天が閉ざされているあいだは、祈っても、賛美しても、み言葉を学んでも、神との交わりに入ることはできませんでした。「見よ、主の手は短くて、救えないのではない。その耳は鈍くて、聞えないのではない。ただあなたがたの不義が、あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ」(イザヤ59:1-2)。
  • 初めて、イエスによって天が開かれます。バプテスマで始まったことは、三年後の十字架で完成し、そのとき門は完全に開かれました。
  • 天が開かれているので、神は私たちの祈りを聞いてくださいます。私たちは父の前に出て、「アバ、父よ」と叫ぶことができます(ローマ8:15)。主は私たちの礼拝を喜んで受け入れてくださり、感謝と賛美は主のもとまで上っていきます。
  • それは罪が赦される門、聖霊を受ける門、癒しの門、貧しさと呪いから解放される門、祝福の門です。私たちは取るに足りない存在で、死を前に絶望していました。しかし今は、イエス・キリストを信じる者はだれでも永遠の命を受けます。
  • イエスはご自身が門となられました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。「わたしは門である。だれでも、わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りして牧草にありつくであろう」(ヨハネ10:9)。
  • ただし、たたかなければなりません。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイ7:7)。イエス・キリストの前に出て門をたたく人だけが、この開かれた門から入ることができます。

6. 御霊が鳩のように降る

  • 二つ目の出来事は、神の御霊が鳩のようにイエスの上に降ったことです。鳩は純粋さを表します。聖霊の純粋さが、イエスの純粋さと重なります。
  • 私たちはたとえ罪人であっても、悔い改めた瞬間に聖霊を受けることができ、その御霊が私たちの考え方を変えてくださいます。バプテスマとは変えられることです。外側では、日本人も韓国人も天の市民となり、内側では、その思いが清くなります。
  • 思いが清くなると、荒い言葉を使っていた人が、優しく話すようになります。人を傷つける代わりに、慰め、励ますようになります。思いと言葉が変わり、行いがそれに続きます。「これが、聖霊を受けるということです。」
  • 「聖霊とは、異言を語ることだけではありません。聖霊によって造り変えられることです。」天が開かれることが私たちの人生の答えであるなら、聖霊もまた私たちの人生の答えです。問題の解決であり、望みの実現なのです。
  • 「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示すであろう」(エレミヤ33:3)。なぜ私たちはこのように叫ぶことができるのでしょうか。御霊が私たちのうちに住み、私たちを叫ばせてくださるからです。
  • 「一人で叫ぶだけでは、独り言にすぎません。」しかし御霊が私たちのうちに住んで叫ばれるとき、それは熱いうめきであり(ローマ8:26)、確実に神に届く祈りです。こうして私たちは奇跡を経験します。それを行われるのは聖霊です。

7. 父の声:明らかにされた三位一体なる神

  • 三つ目の出来事は、天から声があって、こう告げられたことです。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3:17)。
  • 天が開かれ、御子イエス・キリストがおられ、御霊がその上に降り、父の声が聞こえます。「三位一体なる神が、一度に現れたのです。」父と子と聖霊が、共に私たちの前に現れる。これがイエスのバプテスマの意味です。
  • 父と子と聖霊は、それぞれ別の三つの位格です。説教者は、人格とは、知識(知恵を伴うもの)と感情と意志が合わさったものだと定義します。感情が多すぎると、人格のバランスが崩れます。知識だけだと、頭でっかちになります。知識のない決断だけだと、失敗を重ねます。
  • 父と子と御霊は、それぞれ「百パーセント」完全な人格を持っておられます。だからこそ、区別されながらも、完全に一つなのです。
  • 人間の理性では、「三位一体」という言葉を受け入れることはできません。聖霊が悟らせてくださって初めて、私たちはそれを理解し、疑うことをやめ、三位一体なる神の力を受けることができます。
  • 三つの位格、三つの力、それでも同じ一つの力です。それぞれに喜びがあり、合わさって完全な喜びとなります。
  • 父は何と言われたでしょうか。「わたしは神である」とは言われませんでした。「これはわたしの愛する子」と言われたのです。こうして、父の本質が愛であることを明らかにされました。愛をもって、父は私たちにイエスを与えてくださいました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。それは、彼を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
  • 御霊の本質も愛であり、イエスの本質も愛です。愛のゆえに、イエスは死に至るまで、十字架の死に至るまで従順であられました(ピリピ2:8)。
  • 説教者はこう結びます。あなたの前に、天はいつも開かれています。五重の福音を受け、聖霊にあなたの魂を祝福していただき、あらゆる面で豊かで健康な人生を歩みましょう(ヨハネの第三の手紙2節)。そして、この喜びと恵みと祝福を、多くの人と分かち合いましょう。

押さえておきたいポイント

  • イエスには告白すべき罪がありませんでした。変えられることの模範となるため、つまり死に、葬られ、共によみがえるために、バプテスマを受けられました。
  • バプテスマのヨハネのへりくだりは、高慢がクリスチャンにとって最も恐ろしい敵であること、そして祝福はいつも低いところへ流れることを思い出させてくれます。
  • 従順とは、納得するのを待つのではなく、神のみ言葉をそのまま受け取ることです。
  • イエスによって、エデン以来閉ざされていた天が開かれました。赦し、聖霊、癒し、永遠の命は、門をたたく人に与えられます。
  • イエスのバプテスマで、父と子と聖霊が共に現れました。そして、まず明らかにされたのは愛です。

あなたへの問いかけ

  1. イエスのものとなってから、あなたの考え方、話し方、行いの中で、本当に変わったことは何ですか。
  2. あなたの生活、仕事、奉仕、成功のうち、どの分野で高慢が静かに根を下ろしそうですか。
  3. 納得するのを待っているために、まだ従っていない神の言葉はありませんか。
  4. 天が開かれている者として生きていますか。父があなたの祈りを聞いてくださるという確信をもって祈っていますか。
  5. 今週、具体的な一人の人と、あなたが受けた恵みと祝福を分かち合うには、どうすればよいでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

罪のないイエスが、なぜバプテスマを受けられたのですか。

ヨハネのバプテスマは悔い改めのバプテスマであり、イエスは一度も罪を犯したことがありませんでした。説教者は、悔い改める(ギリシア語でメタノイア)とは、後悔することではなく、変えられることだと語ります。イエスは、キリストと共に死に、共に葬られ、共によみがえるという、この変化の模範となるためにバプテスマを受けられました。

イエスのバプテスマで天が開かれたとは、どういう意味ですか。

アダムとエバの堕落以来、天の門は人類に対して閉ざされていました。イエスのバプテスマで、天は初めて開かれ、その開放は十字架で完成します。天が開かれているので、神は私たちの祈りを聞き、礼拝を受け入れ、赦し、聖霊、癒し、永遠の命を与えてくださいます。

マタイ3章13~17節のどこに三位一体が表れていますか。

同じ瞬間に、御子が水から上がり、御霊が鳩のようにその上に降り、天から父の声が聞こえます。父と子と聖霊が共に現れました。区別された三つの位格が完全に一つとなっており、その共通の本質は愛です。

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