はじめに
「試練のない人生はありません。問題のない人生はありません。」純福音東京教会の主任牧師、志垣重政牧師は、この日曜日、荒野でのイエスマタイによる福音書4章1-11節から語ります。
牧師は、見過ごしてはならない一点に目を留めます。イエスは悪魔に荒野へ引きずり出されたのではなく、神のご計画の中で、御霊に導かれて荒野へ行かれたのです。ここから、メッセージ全体を貫く確信が語られます。試練は、あなたにとって必ずしも悪いものではありません。試練は人格を形づくり、資格を与え、その向こう側には祝福が待っています。
牧師は、子どものころの思い出、レビ記のある一節、そして会社を倒産寸前にまで追い込んだ出来事の証しを通して、その試験が神から来るものであれ悪魔から来るものであれ、「試験に落ちる」ことなく試練を通り抜ける方法を示します。
メッセージの流れ
1. バプテスマの直後に、御霊に導かれて
- 1節は「それから」で始まります。牧師は問いかけます。それはいつのことでしょうか。ヨルダン川でイエスがバプテスマを受けた直後、天が開け、御霊が鳩のように下り、父なる神の声が「これは わたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と告げたときです(マタイによる福音書3章16-17節)。
- イエスが荒野に連れて行かれたのは、まさにその直後です。悪魔にではなく、御霊に導かれました。四十日の断食のあとで、イエスは誘惑を受けます。
- 「この事実を見過ごしてはいけません」。イエスは、神のご計画の中で悪魔の試みを受けられたのです。
- イエスには罪がなく、何も欠けたところはありませんでした。それでも、人類の救い主となるために、この試練を通る必要がありました。牧師はここから結論を引き出します。神の御子でさえ試みを受けられたのなら、私たちが試みを受けないはずがありません。
2. 試練はあなたの人格を形づくる
- 試練を乗り越えるたびに、私たちの人格はさらに形づくられ、忍耐強い人になっていきます。
- 信仰も同じです。イエス・キリストを受け入れた日から、あなたの信仰は、火の試練と水の試練を通らなければ、成長することも成熟することもありません。
- 牧師は日本のことわざを引きます。悪銭身につかず。簡単に手に入れたお金は、羽が生えたように飛んでいきます。努力も実力もなく上り詰めた人は、必ずどこかで転びます。そして、苦労を知らないまま突然権力を握った人は、その権力に自分が殺され、周りの人まで滅ぼしてしまいます。
- ヤコブの手紙1章2-4節はこう語ります。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされることで忍耐が生み出され、その忍耐を完全に働かせなさい、と。
3. 手伝おうとした蝶
- 小学2年生のとき、学校からの帰り道、野原でアゲハチョウのさなぎが羽化しようとしているところに出会います。さなぎの背中はもう割れているのに、蝶はなかなか出てくることができません。
- 「誰も助けてあげない」と少年は思います。悪気はなく、よかれと思って、出やすいように少しだけ割れ目を広げてあげました。「いいことをした」と満足して帰ります。
- 翌朝、登校前にまた野原へ行きます。そこにはもうアリがたかっていました。蝶は死んでいて、羽はしわくちゃのままでした。少年はアリを追い払い、蝶を両手に乗せて学校まで走り、泣きながら先生に見せます。「昨日助けてあげたのに、どうして死んじゃったの?」
- 先生は、子どものころのあだ名「しげちゃん」で呼びかけて教えてくれます。さなぎが全身の力でからを破ろうともがくとき、体から液が出て、その液が少しずつ羽にしみ込んでいきます。それを経て初めて、蝶は外に出て羽を広げることができるのです。早く開けてしまったために、その液が羽に行き渡る前に出てきてしまい、蝶は落ちるしかなかったのです。
- 「それを聞いても、一日中泣いていたと思います。」教訓は残ります。からを破る苦労は、誕生の一部です。試練は、あなたにとって必ずしも悪いものではありません。
4. 二種類の試練、合格すべき同じ試験
- 試練には二種類あります。神から来るものは、あなたの信仰を強め、あなたを整え、祝福するためのものです。悪魔から来るものは、盗み、殺し、滅ぼそうとするものです(ヨハネによる福音書10章10節)。
- 「どちらの場合も、落ちてはいけません。」「これは悪魔の試練だから仕方がない」と言ってしまえば、行き着く先は破滅だけです。
- 人生で最初の試験は、たいてい入学試験です。合格すれば、生徒という身分が与えられます。会社の入社試験は、つらい準備を必要としますが、入りたかった会社への扉を開いてくれます。
- 中間試験や期末試験にも、資格が伴います。落ちた人は留年し、上の学年には進めません。
- 人生そのものが、試験の連続です。試練は、あなたに資格と新しい力を与えるためにあります。ですから、一つひとつ合格していかなければなりません。
5. 祭壇の上の蜜か、香ばしいかおりのささげ物か
- 聖書は、主の祭壇で蜜を焼くことを禁じています(レビ記2章11節)。蜜は甘く、よい香りがします。けれども焼くと、耐えがたい臭いを放ちます。「信じられないなら、一度やってみてください。その臭いはなかなか消えません。」
- 牧師はこれを、一度も試されたことのない信者に当てはめます。祭壇に上ると、悪い臭いを放ちます。少しの試練でも不平を言い、つぶやき、神をのろい、神を責めるのです。
- 火と水をくぐり抜けたクリスチャンは、違う反応をします。ひざまずいて悔い改めます。みことばを求めます。主により頼み、「力をください」と祈ります。人のせいにはしません。「どこかで間違えたに違いない、本気で祈らずに始めてしまった」と言います。
- そうすることは、自分自身をささげ物として差し出すことです。祭壇で焼かれた動物は、神が受け入れてくださる香ばしいかおりを放ちました。「私たちが通る試練は、神の御前にささげられる香ばしいかおりです。」
- イエスご自身も、三年半だけでなく、生涯を通して苦しみを通られました。ヘロデに命を狙われ、エジプトへ逃れ、ナザレで三十年間貧しい暮らしを送り、そして三年半、反対の中で歩まれました。だからこそ、十字架でのいけにえは香ばしいかおりとなり、人類の過去・現在・未来の罪を赦すほどの力を持ったのです。
- 問題を前につぶやくことは、蜜を焼くことと同じです。神は顔をそむけられます。けれども、祈りと悔い改めをもって自分自身を神にささげるなら、神はあなたを受け入れ、打ち勝つ力を与えてくださいます。そして、それは神の試験なのですから、祝福があなたを待っています。
6. 恵みのあとに試練が来るとき:牧師の証し
- 牧師は気づいています。恵みを受けたばかりのときに限って、不思議なことに、家庭で言い争いが起きたり、職場で試練が降りかかったりします。神がそれを許されるのは、あなたが受けた恵みを守るため、そしてもっと大きな試練にも踏みとどまれるよう訓練するためです。
- 二十代の終わりごろ、牧師は世界宣教に関わり始めます。最初の一年は会社員でしたが、休みを取るのに苦労し、宣教のために年に二千万円から三千万円を自費で負担していました。待遇のとてもよい会社を辞め、自分の会社を興します。
- 人の何倍も働き、さらに努力を重ねます。それでも一年後、会社は倒産寸前になりました。あと数日で月末を越えられないところまで追い込まれます。
- ある金曜日、出張で訪れたソウルで金曜徹夜祈祷会に出席し、そのあとも一人残って、一時間か二時間か、どれほどだったか覚えていないほど祈ります。自分のために泣いたことのなかった牧師が泣き、神に訴えます。「あんなによい会社を辞めて、イエスさまのみわざのために来たのに、どうして私を見捨てるのですか。信じない人たちは笑っています。私が怠け者なら分かります。」
- 祈りというより愚痴に近いこの祈りの最中、マタイによる福音書6章33節を与えます。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」牧師は気づきます。最初は神の国を第一に求めて始めたはずなのに、すべてが自分の会社中心になっていたのです。会社員のころのほうが、教会生活には熱心でした。
- 牧師は決断します。「私はまだ若い。すべてを失うことになっても、神に忠実でありたい。」日本に戻ってからは、どれほど疲れていても忙しくても、水曜礼拝と、自分一人で導く金曜徹夜祈祷会を欠かさず、そのたびに奉仕しました。
- 「特別なことは何もしていません。ただ礼拝を守り、神をほめたたえ、良いときも悪いときも感謝しただけです。」神は思いがけない形で注文を送ってくださり、当時日本で最大の銀行が、小さな事務所にまで足を運んで融資を用意してくれました。年商三千万円に満たなかった会社が、一年で三億円、十倍に達します。
- 牧師にとってこれは、試練を通り抜けたあとには、いつも神からの祝福が待っていることの証拠です。
7. 最初の誘惑:みことばで勝利する
- 最初の誘惑は、欲望に関するものです。四十日の断食のあとは、食べ物のことしか考えられなくなります。「何でも我慢できますが、空腹だけは別です。」兵士は多くのことに耐えますが、空腹には耐えられません。三日間断食しただけでも、食べることしか考えられなくなります。
- 悪魔の罠は巧妙です。「この石をパンに変えればいい。食べれば、すべて解決する。」
- イエスはお答えになります。「『人はパンのみで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある」(マタイによる福音書4章4節、申命記8章3節の引用)。
- 試練に勝つ方法は、精神力でも、どんな力でもありません。みことばです。けれども、みことばが日々あなたの内に住んでいなければ、試練のときにどうして勝てるでしょうか。「ですから、みことばを学びましょう。」
- 牧師は教会の人々を励まします。水曜礼拝と金曜徹夜祈祷会に来るだけでも、聖書の知識がかなり身につきます。
8. 早く受けすぎた賜物と、耐え抜く力
- 十年間、熱心に教会に通っていても、異言を語らない人がいます。一方で、来て間もないのに、すでに語っている人もいます。
- 試練を何も通らないまま異言や癒しの賜物を受けた人は、必ず誘惑に陥ります。人を批判し始めます。「十年も通っていて、まだ異言を語らないのですか。私は来てすぐに受けましたよ。」自分は選ばれた者だと思い込みます。火も水も通っていないので、周りの人を傷つけ、最後には自分自身を失ってしまいます。
- 「もちろん、試練を避けられるなら、それが理想です。けれども、一度も試されたことのない牧師は、必ずどこかで倒れます。」そして牧師が倒れるとき、教会が倒れるのです。
- クリスチャンにとって最も大切なのは、耐え抜く力です。いつまでも残るものは信仰と希望と愛で、その中で最も大いなるものは愛です(コリント人への第一の手紙13章13節)。コリント人への第一の手紙13章4-7節に記された愛の十五の特徴のうち、最初に挙げられているのは忍耐、つまり長く耐えることのできる心です。
- あなたは神を愛しているから、耐えることができます。家族を愛しているから、待つことができます。友人を愛しているから、忍耐をもって迎え入れることができます。その心があれば、あらゆる試練に打ち勝ち、神がこの先に備えてくださった大きな祝福の中を生きることができます。
ポイントのまとめ
- イエスは、神のご計画の中で、御霊に導かれて荒野へ行かれました。神の御子が試みを受けられたのですから、あなたの試練も偶然ではありません。
- 試練は、蝶が羽を広げるためのもがきのように、あなたの人格と信仰を形づくります。
- 試練が神から来るものでも悪魔から来るものでも、大切なのは同じです。試験に合格することです。合格すれば、資格が与えられます。
- つぶやきは、焼けた蜜の臭いがします。悔い改めと祈りと信頼は、あなたを香ばしいかおりのささげ物にします。
- 誘惑に勝つのは意志の力ではなく、みことばです。試練の日の前に、みことばを学んでおく必要があります。
個人の振り返り
- 今、あなたはどんな試練を通っていますか。それを偶然の出来事と見ていますか。それとも、あなたに資格を与えてくれる試験と見ていますか。
- その困難を前にしたあなたの反応は、焼けた蜜(不平、非難)に近いでしょうか。それともささげ物(悔い改め、祈り、信頼)に近いでしょうか。
- 牧師が自分の会社でそうなっていたように、神の国のあるべき場所に、ほかのものを置いてしまっている分野はありませんか。
- 誘惑が来る日にみことばがそこにあるために、神のみことばはあなたの日々の生活の中でどんな位置を占めていますか。
- 愛の第一のしるしであるあの忍耐を、今週、誰に向けて示す必要がありますか。
引用された聖句
- マタイによる福音書4章1-11節
- マタイによる福音書3章16-17節
- ヤコブの手紙1章2-4節
- ヨハネによる福音書10章10節
- レビ記2章11節
- マタイによる福音書6章33節
- 申命記8章3節
- コリント人への第一の手紙13章4-7節
- コリント人への第一の手紙13章13節
よくある質問
なぜ御霊はイエスを荒野に導き、誘惑を受けさせたのですか。
志垣重政牧師によれば、イエスは悪魔に引きずられたのではなく、神のご計画の中で御霊に導かれました。人類の救い主は、この試練を通る必要がありました。そして神の御子ご自身が試みを受けられたのですから、私たちが試練のない人生を期待することはできません。
試練は神から来るのですか、悪魔から来るのですか。
説教者は試練を二種類に分けます。一つは、私たちの信仰を強め、私たちを整え、祝福するために神が許されるもの。もう一つは、盗み、殺し、滅ぼすために来る悪魔のものです。どちらの場合も、落ちてはならず、試験に合格しなければならないと語ります。
イエスはどのように最初の誘惑に打ち勝たれましたか。
四十日の断食のあと、悪魔は石をパンに変えるよう持ちかけます。イエスは聖書の言葉でお答えになります。人はパンのみで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである、と。試練に勝つ方法は精神力ではなくみことばであり、だからこそ今からみことばを学ぶ必要があります。
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