はじめに
「あなたの『たった一つだけ』は何でしょうか?」。これは、2026年10月11日に日本の福岡アガペ教会で語られたこのメッセージで、ルツ牧師が投げかけた問いです。聖書箇所はマルコ10章17〜31節、神の国に入る方法を知りたいと願った金持ちの男とイエスとの出会いです。
イエスは彼に「あなたに足りないことが一つある」と言われます。たった一つです。誠実で、戒めも守ってきたその人は、悲しみながら立ち去りました。牧師はすぐに付け加えます。「いやいや、1つだなんて。2つも、3つも、4つも、山ほどありますよ」と言われる方もいらっしゃるかもしれませんね、と。
この箇所を通して牧師は、あなたがまだ手に握っているもの、神様の代わりに頼っているものを探り、今日それを主にゆだねるように招いています。
メッセージの流れ
1. 子どものように神の国を受け入れる
- この箇所の直前で、子どもたちがイエスのもとに駆け寄り、弟子たちは彼らを追い払おうとします。イエスは「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい」と言われ、幼な子のように神の国を受け入れない者は決してそこに入れない、と付け加えられます(マルコ10章13〜16節)。
- 子どもは、あれこれ理屈を並べません。素晴らしい場所があると聞けば、「そこに入りたい、入れて!」と言います。
- この素直な心は子どもだけのものではありません。大人もこのように信じることができ、神の国はその人たちに開かれています。
2. イエスの前に立った誠実な人
- ひとりの人が走り寄り、ひざまずいて尋ねます。「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。彼はイエスのことをよく耳にしていて、真の師として、もしかするとメシアとして敬っていたのでしょう。
- 彼は、自分の信仰が正しいか、まっすぐ歩めているかを確かめたかったのです。イエスは戒めを思い起こさせます。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、欺き取るな、父と母とを敬え。
- これはモーセが受けた十戒で、教会が2週間前に申命記で学んだばかりのものです(申命記5章)。マルコは彼の年齢に触れていませんが、ほかの福音書では「青年」と書かれています(マタイによる福音書19章20節)。
- 牧師は、ロサンゼルスに住む朴智藝宣教師が祈りの中で主から教えられたことを紹介します。聖書全体をペーパー1枚にまとめるなら、「十戒」と、イエスが教えてくださった「主の祈り」に集約できる。さらにそれを一言にまとめるなら、「イエス・キリスト」だというのです。
3. 今も有効で、さらに深くなった戒め
- 牧師によれば、「十戒は旧約時代の話でしょ?」「守ったら良いという目標ぐらいにして」と言うクリスチャンもいるそうです。「ちょっと、ありえないお話です」。旧約の神様も新約の神様も、そして今私たちが信じている神様も、同じお方です。
- 私たちには、それを完全に守る力はありません。しかしイエス様は聖霊様を送ってくださり、聖霊に従って歩むとき、私たちは守ることができるようになります。つまずいたときには、心から悔い改めて、また歩み出します。
- イエス様が来られて、戒めはさらに深くなりました。兄弟を愚か者と呼び、憎み、赦さないことは、すでに心の中で殺人を犯していることです(マタイによる福音書5章21〜22節)。情欲をもって見ることは、すでに心の中で姦淫を犯していることです(マタイによる福音書5章27〜28節)。これは、アイドルやホストにはまってしまう女性たちにも当てはまります。
- 盗みは、羨みから始まります。「あの人のあれが欲しい」という心です。牧師は、「羨ましい!」という言葉は、実はあまりクリスチャンにとって良い言葉ではない、と指摘します。皆それぞれに与えられた恵みがあって、「ああ、素敵ですね!良いですね!」と言うのは良いのです。少し油断すると、罪はあっと言う間にパン種のように大きく膨らんでいきます。
- 両親を敬うことには、長生きの約束が伴います(出エジプト記20章12節)。牧師は、今はアメリカで牧師をしているある女性の話をします。彼女は韓国で、とても厳しい母親に育てられ、叩かれ、学校にも行かせてもらえず、ほとんど子どものまま路上で暮らすような日々でした。どうしても赦すことができませんでした。そのとき主は彼女に言われました。「あなたを産んでくれたことだけでも十分に感謝する理由があるよ」。彼女は母親を赦し、年老いた母親をアメリカに迎えて、最期まで世話をしました。
4. 「あなたに足りないことが一つある」
- 青年は自信をもって答えます。「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。これは素晴らしいことだと牧師は認めます。このように、誰の目にも明らかに生きている人は、まれではあっても確かに存在します。
- その日に朗読された訳では、イエスは「心から彼に同情して」言われたとあります(口語訳では「いつくしんで」、マルコ10章21節)。牧師はこの節を黙想し、元気よく「はい!」と答える青年の晴れやかな顔を見ながら、過去も未来もご存じのイエスが、この青年がどんな選択をするかをすでに知っておられたと思い描きます。
- イエスは足りないところを指摘するだけではありません。具体的な道を示されます。「帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
- 青年は顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。「たくさんの資産を持っていたからである」。彼の悩みは、そこから始まります。
- 牧師は、この世は訓練の場だと語ります。私たちは神を賛美し、礼拝し、出会い、知るために造られました。人生の早い時期に神に出会うことは祝福です。聖霊の助けによって罪と戦うなかで、私たちは少しずつ変えられていきます。神の心が私たちの心に、神の喜びが私たちの喜びに、神の計画が私たちの計画になっていくのです。
5. 天に宝を持つ
- 天国に入ることは何よりも大切ですが、ここでどう生きるかも大切です。主が求められることに心から従うたびに、それは天に宝として蓄えられます。これは牧師や指導者だけのことではなく、すべての人に当てはまります。
- この宝を説明するために、牧師は天の光景にも触れますが、その多くは「聞いたこと」として語っています。地上でささげた賛美に応じて与えられる衣(イザヤ書61章3節に言及します)、悔い改めや憐れみの涙が宝石に変わること、イエスに近かったり遠かったりする住まい、などです。
- 貧しい人に施すことは、この青年にとって、財産を地上の金庫から「天国銀行」に移すことでした。この世では、自分が死ねばお金はなくなり、他の人の手に渡り、盗まれることもあります。しかし天では、何も失われません。周りの困っている人たちを助けて分けてあげること、それが天に宝を蓄えるということです。「これは本当に譬話ではなくて、実際にこういう原理なんです。こういう仕組みなんです」。
- この青年は、ただの金持ちではなく、大金持ちでした。その財産はおそらく家系から来たもので、すべてが自分のものというわけではなく、手放せば周囲の見る目が変わり、親族の反対も招いたでしょう。彼は迷いのなかで立ち止まり、決断することができませんでした。
6. 神様の代わりに握っているもの
- 「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしいのです(マルコ10章24〜25節)。当時は、金持ちこそ神に祝福された人だと考えられていたので、弟子たちは驚きました。
- この会衆の中に大金持ちはおそらくいないだろう、と牧師は言います。しかし、それは「自分には関係ない」という意味ではありません。誰もが、手放せず、神に喜ばれない「たった一つ」を握っていることがあります。
- それは、生きがいや老後の備えにしている子どもかもしれません。すべてを解決してくれると頼っている親かもしれません。お金、評判、知識、人脈かもしれません。「神を信じています」と言いながら、神以外のものに頼っているなら、神の国の扉は閉ざされます。
- 簡単なテストがあります。急に困ったことが起きたとき、まず主の前に出て祈りますか。それとも、「あ、私の貯金、いくらあったかな?」とか、「あ、誰々さんに連絡をして相談しよう」と考えますか。何か見つかったなら、今日それを手放し、主があなたに望んでおられる決断を主に尋ねてください。
- 牧師はジェシカ・ユン先生の話をします。先生は一人娘を置いて、ご主人と一緒に主の働きのためにアフリカへ行くことになり、娘のことが心配で心配で、泣いて泣いていました。すると主は言われました。「あなたの心から彼女を掘り起こして、抜いてしまいなさい。そして私に預けなさい」。先生は、娘が自分の心の中で主よりも大事なものになっていたことに気づき、娘を心から抉り出して、主に完全にお任せする決断をしました。思い出すとまた涙が出る時期もありましたが、神様はちゃんと理解してくださいます。そのたびに先生は自分に言い聞かせました。「主にお任せしました。主が彼女の父であり、夫です」。
- イエスは弟子たちを見つめて言われます。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10章27節)。私たちの努力でできないことを、神は、私たちが神に頼るときになさってくださいます。
7. イエスへの愛のために、すべてを捨てる
- ペテロが言い出します。「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。牧師はこの場面を楽しそうに語ります。「これも捨てましたよ、あれも捨てましたよ。船も捨てましたよ」。イエスは何もコメントされません。
- 当時の価値観では、この青年は、牧師によればおそらくパリサイ派かサドカイ派で、尊敬される人でした。一方、荒っぽい気性の漁師たちは、昼も夜も律法を思い巡らす人たちではありませんでした。それでも、すべてを捨ててイエスに従ったのは、その漁師たちです。
- この世で私たちが持っているものは、いつかなくなります。火事、盗難、そして私たちの死によって、他の人の手に渡ります。イエスに従うとき、イエスは歩みの一歩一歩で必要なものを与えてくださり、与えられたものによって、私たちは天に宝を蓄えることができます。
- 鍵になるのは29節です。「わたしのため、また福音のために」捨てるということです。ただ手放すのではなく、イエスへの愛のためにそうするのです。あなたの家族や持ち物は大切なままです。けれども、身近な人が「神様か私か」と迫るなら、あなたは神を選びます。
- そのときは痛みます。しかし神はあなたの愛と従順をご覧になり、あなたが愛する人たちを、変えられた姿で返してくださいます。あなたと共に神を賛美するためです。イエスは、今この時代に「迫害と共に」百倍を受けること、そして来たるべき世で永遠の生命を受けることを約束されます。この世はサタンの影響の下にあるからです。
- 「しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」(マルコ10章31節)。当時尊敬されていた人たちは小さな者として数えられ、すべてを捨てた漁師たちは主と共に治めるのです。
ポイント
- 神の国は、子どものような素直な心で受け入れる人に開かれています。
- 十戒は今も神のみこころです。イエスはそれを心の奥まで深め、聖霊は私たちが守れるようにしてくださいます。
- 神様の代わりに握っている「たった一つ」が、あなたの歩みを止めます。お金、子ども、親、評判、人脈などです。
- イエスへの愛のために与え、従ったものは、誰にも奪われない天の宝になります。
- 人にはできないことも、神にはできます。神に頼るとき、あなたは手放すことができます。
個人の適用
- 今日、あなたの「たった一つ」、神様よりも強く握っているものは何ですか。
- 最近、問題が起きたとき、あなたが最初に頼ったのは誰、あるいは何でしたか。
- 怒りや羨み、執着など、今週悔い改めるべきものが心にありますか。
- 主は、あなたに具体的に何を与え、何をその御手にゆだねるよう求めておられますか。
- 身近な人があなたの従順に反対したら、あなたは誰を選びますか。それはなぜですか。
引用された聖書箇所
- マルコによる福音書10章17〜31節
- マルコによる福音書10章13〜16節
- マタイによる福音書19章20節
- 申命記5章6〜21節
- 出エジプト記20章12節
- マタイによる福音書5章21〜22節
- マタイによる福音書5章27〜28節
- イザヤ書61章3節
よくある質問
マルコ10章の金持ちの青年に足りなかったものは何ですか。
彼は若いときから戒めを守ってきましたが、イエスに従うために大きな財産を手放すことができませんでした。ルツ牧師によれば、彼に足りなかった「たった一つ」は、持ち物よりも神様を信頼することでした。彼は大きな資産を持っていたので、悲しみながら立ち去りました。
十戒は、クリスチャンにとって今も有効ですか。
はい、とルツ牧師は答えます。旧約の神様と新約の神様は同じお方です。イエスは、怒り、情欲、羨みといった心の領域にまで戒めを深められました。私たちは自分の力では守れませんが、聖霊様が助けてくださり、つまずいたときには悔い改めて、また歩み出すことができます。
イエスに従うために「すべてを捨てる」とは、どういう意味ですか。
ただ物を手放すことではなく、イエスと福音のために、イエスへの愛をもって捨てることです。家族や持ち物、人間関係は大切なままですが、それがあなたの従順に反するときには、神を選びます。イエスは、迫害と共に百倍を受けること、そして来たるべき世で永遠の生命を受けることを約束されます。