はじめに
9月22日(火)、大阪オンヌリキリスト教会の早天礼拝で、歴代誌第一13章1〜8節からのメッセージが語られました。井上先生は青年グループの合宿に出かけておられたため、この朝は別の説教者がメッセージを担当しました。
この箇所が語るのは、王となったダビデの最初の大きなプロジェクト、神の箱をエルサレムに運び上げることです。国を挙げての計画で、民も賛成し、喜びにあふれています。それでも、翌日の聖書箇所にはウザの死が記されています。このメッセージは、その直前で止まり、失敗の下地になったものに目を向けます。
ポイントはタイトルにある一つだけ、「よい目的、しかし間違った方法」です。あなたも、神様のために何かしたいという思いを持っているのではないでしょうか。この箇所は、とてもシンプルな問いを投げかけます。あなたのやり方は、神様に喜ばれるものでしょうか。
メッセージの流れ
1. 王となったダビデの最初のプロジェクト
- 10章にはサウルの死が記されています。続く11章には、ダビデが王として油を注がれたことと、彼の勇士たちの話があります。ダビデの王権は彼一人に支えられたのではなく、多くの人が彼を支えたのです。
- 12章を見ると、まだ王になる前、逃亡していたころから、多くの人々がダビデのもとに集まり、彼を支えていたことがわかります。
- 13章には、油を注がれたダビデが最初に行ったことが記されています。神の箱を首都エルサレムに運ぶことです。ウザが神に打たれるのは、この大きなプロジェクトの途中のことで、よく知られたこの出来事は翌日に読まれます。
- この箇所は二つの部分に分かれます。1〜6節はダビデの提案と運搬の準備、7〜8節は神の箱の運搬と民の喜びを描いています。
2. 神の箱はどこにあったのか
- ダビデは千人隊長や百人隊長たちに相談し、神の箱を連れ戻すことを提案します。この話を理解する鍵は二つの問いです。神の箱はそれまでどこにあったのか。そして、なぜダビデはそれを連れ戻したかったのか。
- 5節に示されているとおり、神の箱はキリアテ・ヤリムにありました。話はサウルが王になる前にさかのぼります。サムエル記第一4章で、戦いの中でペリシテ人が神の箱を奪い、自分たちの偶像の神殿に置きます。
- そこで神の手がペリシテ人に多くの災いをもたらします。彼らはもう箱を欲しがらず、イスラエルに送り返しました(サムエル記第一6章21節〜7章1節)。キリアテ・ヤリムの人々が箱を引き取りに来て、丘の上のアビナダブの家に運び入れます。
- キリアテ・ヤリムはエルサレムの西およそ13キロにありました。サウルの時代の間ずっと、神の箱はそこに置かれたまま、顧みられませんでした。
3. なぜダビデはエルサレムに連れ戻したかったのか
- 3節でダビデは、私たちの神の箱を私たちのところに連れ戻そう、サウルの時代には顧みなかったからだ、と言います。ダビデはサウルの治世を反面教師としています。
- ダビデは、貴重な物を移すことだけを考えていたのではありません。神ご自身、その臨在を、イスラエルの首都エルサレムの中心にお迎えしたいと願ったのです。
- 王になったばかりの人には、国の内にも外にもやるべきことが山ほどあります。それでも彼の最初の行動は、政治的なものではありませんでした。サウルの時代から学び、神を中心とする民、神を礼拝する民としてイスラエルをもう一度集めたいと願ったのです。そのために、神の箱をエルサレムに迎えることほど必要だと思えることはありませんでした。
- 提案はすばらしく、反対する人はいません。4節で、会衆全体が同意します。そのことが民全体の目にかなったからです。
- 5節で、ダビデはエジプトのシホルからハマテの入り口まで、イスラエル全体を集めます。つまり、領土の南の端から北の端までです。あらゆる地方の代表者がそこにいました。まさに国を挙げた大きなプロジェクトです。
4. 新しい車、あふれる喜び、律法にはない方法
- 7〜8節で、神の箱はアビナダブの家から新しい車に載せられます。アビナダブの二人の息子、ウザとアヒオが車を御します。ダビデとイスラエルの全家は、歌と竪琴、琴、タンバリン、シンバル、ラッパに合わせ、力の限り神の前で踊ります。
- けれども、その車は牛に引かせていました。これは律法が定めた方法ではなく、ペリシテ人が箱を送り返したときのやり方です。サムエル記第一6章7〜8節で、彼らは新しい車を用意し、くびきをつけたことのない乳を飲ませている雌牛二頭をつなぎ、その上に箱を載せました。
- モーセの律法は別のことを定めていました。説教者は、神の箱には担ぎ棒がついていて、レビ人の一族であるケハテの子らが肩に担ぐことになっていたと指摘します。民数記4章15節を読みます。ケハテの子らは聖所とその器具を運ぶために来るが、聖なるものに触れてはならず、触れれば死ぬ、という内容です。
- レビ人のケハテの一族でさえ、箱に触れれば死ぬ。神はそのことを前もって告げておられました。
- ダビデは心を尽くしてこの国家的プロジェクトを進めています。けれども、それは神が定められた方法ではありませんでした。「目的も動機も素晴らしかった。しかし方法が間違っていた。」説教者は、いやな予感がすると率直に語ります。その予感は、翌日の聖書箇所で裏づけられることになります。
5. 二つの条件、確かめられたのは一つだけ
- 2節でダビデは、もしあなたがたがよいと思い、それが私たちの神、主から出たことであるなら、と語ります。ここには二つの条件があります。民が同意していること、そしてそれが神のみこころにかなっていることです。
- 一つ目は満たされています。4節で、みんなが賛成しました。しかし二つ目については、神ご自身が同意されたのかどうか、聖書ははっきり記していません。ここでも、説教者は危うさを感じ取ります。
- 神の箱をエルサレムに戻すことは、おそらく神のみこころにかなっていたのでしょう。ただ、民の同意を得たあと、ダビデは神のお考えを求めてさらに祈ることを怠った、あるいは忘れたように見えます。
- それが翌日の大きな失敗につながっていきます。もしダビデがもう一度神を求めていたなら、神は何らかの方法で、どうすればよいかを示してくださったはずだと思われます。
- エルサレムを礼拝の中心とし、神を礼拝する民を立て直すこと。ダビデの目的はすばらしいものでした。情熱があり、心を尽くしていました。けれども、方法を間違えたのです。
6. 神のために何かをしたいと思うとき
- 「神のために何かをしたい、神の栄光を現したい」。私たちはみなこの情熱を持っています。けれども、神のために何かをしたいからといって、どんな方法でもよいわけではありません。その方法が神に喜ばれるかどうかも、問う必要があります。
- 説教者は、あえて極端な例を挙げます。教会が、まだ神を知らない多くの人を招くためにクリスマス会を企画します。目的は正しく、何も非の打ちどころはありません。
- けれども、手段はどれも同じではありません。もしみんなが10万円ほどずつ出し合って有名な歌手や俳優を呼べば、何百人、いや何千人もの人が来るかもしれません。だからといって、誰でも招いてよいということにはなりません。
- むしろ、有名でなくても、聖書的な信仰に立つクリスチャンの歌手を招くでしょう。それが神に喜ばれる方法です。
7. 焼肉屋の網
- 説教者は、神学校で自分を教えてくれた一人の牧師の証しを語ります。この方は、牧会の道に進む前に、日本式の焼肉店を開こうと決めていました。
- お店のためにすべてを準備していました。考えていたのは、たくさん稼いで、教会に惜しみなく献金し、経済的に支えることです。その人にとって、それが神に仕える自分なりの方法でした。
- 準備の最中、神様はその人の心に、もっと自分の人生を神にささげたいという思いを与えられます。そこで祈ります。「神様、もっと私の人生をあなたにおささげしたいのです。ペテロはイエスの弟子になる前に、漁の網を捨てました(マタイの福音書4章18〜20節)。神様、では私は何を捨てるべきでしょうか。」
- 神様の答えはこうでした。「あなたが捨てるべきものは、焼肉の網だ。」日本語では、漁師の「網」と焼肉の「網」が同じ言葉(あみ)です。それを聞いて、その人は焼肉店をあきらめ、神学校に入り、牧師になりました。
- クリスマス会や伝道の活動を行うことは、それ自体はよいことです。けれども、目的が正しいからといって、方法まで正しいとは限りません。私たちもまた、方法を間違えることがあります。「自分は、正しいことを間違った道でやっていないだろうか。」それがこの箇所のメッセージです。
8. 立ち止まり、祈り、聖書は何と言っているかを問う
- ダビデは、新しい車のほうが神を敬うことになる、牛のほうが丁寧に箱を運べる、人の肩で担ぐよりも効率的で楽だ、と考えたのかもしれません。
- しかし問題は、その方法が人の目によいかどうかではありませんでした。問われていたのは、それが神の命じた方法、神に喜ばれる方法かどうかです。
- 同じことは、教会の行事や礼拝でも、職場でも、家庭でも起こります。「昔からこうしてきた、みんなこうしている、これが一番効率的で、みんなも喜ぶ。」そのとき、少し立ち止まってください。少しでもいいので祈り、神のみこころを求めます。「ちょっと待って、聖書は何と言っているだろう。」
- 時間がかかるかもしれません。効率が悪く、多くの労力が必要になるかもしれません。「しかし、神に喜ばれる方法が最善です。」よい結果がすぐに出なくても、神様は必ず祝福してくださいます。
- ダビデでさえ、祈ることを少し忘れたために失敗しました。ましてや私たちは、祈りの中で、最善のやり方を熱心に求めなければなりません。
- あなたの神への仕え方、神の栄光の現し方は、いつの間にか自分流のやり方になっていないでしょうか。一日を始める前に、祈りの中で神様に尋ねてみてください。たとえ遠回りでも、すぐには誰にもほめられなくても、神様があなたを御栄光のために用い、豊かに祝福してくださると信じましょう。
心に留めたいポイント
- 王となったダビデの最初のプロジェクトは政治的なものではありません。神の臨在をエルサレムの中心にお迎えし、礼拝する民を集めようとしたのです。
- 牛に引かせた新しい車はペリシテ人の方法であって、律法の方法ではありません。目的がよくても、どんな方法でも正しくなるわけではありません。
- ダビデは民の同意は得ましたが、神の同意を求めたとは聖書に書かれていません。人の賛成は、祈りの代わりにはなりません。
- 「昔からこうしてきた」「そのほうが効率的だ」は、十分な基準ではありません。問うべきは、聖書は何と言っているか、です。
- 神に喜ばれる方法は、時間も費用もかかるかもしれません。しかしそれが最善であり、神様はふさわしい時にそれを祝福してくださいます。
私たちへの適用
- 今、あなたが「神のために」取り組んでいることは何ですか。教会での奉仕、働きかけ、コミットメントなどです。神様がそれを望んでおられるかだけでなく、どのようにすべきかも神様に尋ねましたか。
- 教会、職場、家庭のどの場面で、「昔からこうしてきた」や「そのほうが効率的だ」で済ませてしまっていますか。
- 祈って神のお考えを求める時間を取らないまま、周りの人の同意だけで満足してしまうことはありませんか。
- 焼肉店を開こうとしていたこの牧師のように、神様が、もっとあなたの人生をささげるために手放すよう求めておられる「網」はありませんか。
- それが神の認められる方法なら、より遅く、効率が悪く、あまり称賛されない方法でも、受け入れる備えはありますか。
引用された聖書箇所
よくある質問
なぜダビデは神の箱をエルサレムに連れ戻したかったのですか。
サウルの時代、神の箱はキリアテ・ヤリムのアビナダブの家に、顧みられないまま置かれていました。王となったダビデは、政治から始めたのではありません。神ご自身をエルサレムの中心にお迎えし、主を礼拝する民としてイスラエルを一つに集めたいと願ったのです。
神の箱の運び方の、何が間違っていたのですか。
ダビデは神の箱を、牛に引かせる新しい車に載せました。これはサムエル記第一6章でペリシテ人が用いた方法です。モーセの律法は、ケハテの子らが聖なるものに触れずに担ぐよう求めていました(民数記4章15節)。目的はよいものでしたが、方法がよくなかったのです。
自分の神への仕え方が神に喜ばれているかどうか、どうすればわかりますか。
説教者は、行動する前に少し立ち止まり、祈って、「ちょっと待って、聖書は何と言っているだろう」と問うように勧めています。神に喜ばれる方法は、時間がかかり、効率が悪く見えるかもしれません。それでもそれが最善であり、神様は最後には必ず祝福してくださいます。
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