はじめに
「きょう、あなたがたの仕える者を選びなさい。」ダヴィデ・ラウローラ牧師は、数日前からこの思いを心に抱いてきました。これほど強く燃える思いは、胸にしまっておくのが難しいと、素直に語ります。Chiesa ADI Milano Baggio で語るこのメッセージは、ヨシュア記24章14〜17節から始まります。あなたもおそらく何度も読んだことのある、よく知られた箇所です。
ヨシュアはすでに高齢で、人生の夕暮れを迎えています。ここで民に語りかけるのは、いわば告別の説教です。約束の地は征服され、十二部族に分け与えられたばかりで、民は歴史の新しい段階の入り口に立っています。
まさにこのとき、ヨシュアは過去を祝うことをしません。民の前に一本の線を引き、選ぶように求めます。牧師は続いて、「選ぶ」と「きょう」という二つの言葉に目を留めます。
メッセージの流れ
1. シケム、霊的な転換点の場所
- ヨシュアはモーセから使命を引き継ぎ、民を約束の地に導き入れました。この説教は、民がこの人の導きと権威の恵みを受けられる最後の機会の一つです。
- 「ヨシュアはイスラエルのすべての部族をシケムに集め」ました(ヨシュア記24:1)。牧師によれば、シケムは「ほかの場所とは違う場所」です。みことばの中でこの地名に出会ったら、立ち止まって注解書を開くべきだといいます。そこでは重要な霊的転換がいくつも起こったからです。
- ここは、アブラハムがカナンで最初にたどり着いた場所です。神は彼に現れて、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と言われました。アブラハムはそこに最初の祭壇、約束の祭壇を築きました(創世記12:6〜7)。
- ヤコブもここで主のために祭壇を築きました(創世記33:18〜20)。のちには、家の者たちに異なる神々を完全に捨てるよう求めたうえで、それらを樫の木の下に埋めました(創世記35:2〜4)。
- つまりシケムは、約束と礼拝と清めの場所です。ヨシュアがここに民を集めたのは、自分を称えるためでも、ヨルダン川を渡ったことを祝うためでもありません。民をまっすぐに見つめ、一つの呼びかけを告げるためです。
2. ここまで、そして、ここから
- ヨシュアは、のちにサムエルがエベネゼルの石でするであろうことを、先取りしているようです。「主は今に至るまでわれわれを助けられた」(サムエル記上7:12)。ここまで、神はご自身を現し、救い出し、ご自分の民に勝利と征服を与えてこられました。
- しかしシケムは、もはや過去と、すでに経験した大きな出来事だけを語る場所であってはなりません。新しい出発点となるべきです。そこにあるのは単純な呼びかけです。きょう、あなたが仕える者を決めなさい、ということです。
- 牧師は、子どもが自立する年齢になるまで寄り添ってきた親のたとえを用います。ある日、親は線を引いて言います。「ここまで、私はあなたに何かを伝えようとしてきた。」間違いもあったでしょうし、もっとうまくできたかもしれません。「ここから先は、あなたが選ぶ番だ。」牧師はその場にいた十代の若者たちに語りかけます。誰かが選択の責任をあなたに手渡す瞬間が来るのです。
- 礼拝の終わりも同じです。詩篇21篇は、神が最上の祝福をもって、ご自分の民を迎えてくださると語ります(詩篇21:3)。神は食卓を整え、それを民に差し出してくださいます。礼拝が終わるとき、一本の畝(うね)が引かれます。いただいた祝福を、これからあなたはどうしますか。
3. 仕えるとは、どの祭壇で人生を燃やし尽くすかを選ぶこと
- 私たちは「仕える」という言葉を、自分の名前が付いた仕事や働きと結びつけがちです。それも確かに仕えることですが、それだけではありません。牧師によれば、この短い箇所の中に、この言葉は八回出てきます。
- ヨシュアは民に言います。きょう、誰に従い、誰を敬うかを選びなさい。「どの祭壇で自分の人生を燃やし尽くすのか、きょう決めなさい。」アブラハムは祭壇を築き、ヤコブも築き、あなたの先祖たちも築きました。「あなたの番はいつ来るのでしょうか。」
- ヨシュアは、異教の民や神から遠く離れた民に語っているのではありません。主が働かれるのを見た民に語りかけているのです。「この民は、どちら側に立つべきかを知っていました。しかし、どちら側に立つのかを選ばなければなりませんでした。そこには違いがあります。」
- ヨシュアは、選択が必要だと知らせるだけでは終わりません。その選択をするように、立場を明らかにするように、責任を負うようにと求めます。あなたがたはこの地を所有しました。今度は霊的にもそれを所有するときです。これは献身の問題です。
- 22節でヨシュアはさらに言います。「あなたがたは主を選んで、主に仕えると言った。あなたがたみずからその証人である。」民は答えます。「われわれは証人です。」主に仕えることは、重大なことであり、責任であり、選択なのです。
4. 選ばなかった世代
- ダビデとソロモンの後、イスラエルには多くの王が次々に立ちます。教会のある兄弟が、牧師に一つの方法を教えてくれました。それぞれの王の名前の横に、主の目に正しいことをしたか悪いことをしたかによって、プラスかマイナスをつけるのです。マイナスは数多くあります。
- それでも、これらの王たちは自分が何者であるかをよく知っていました。自分たちの歴史も、ダビデの家に与えられた約束も知っていたのです。それなのに、あまりに多くの王について、心を完全に神に向けないまま悪を行ったと記されています。
- ヨシュアが語りかけた世代は、一つの選択をし、ヨシュアが示した道を歩みました。しかしその後、「ほかの時代が起ったが、これは主を知らず、また主がイスラエルのために行われたわざをも知らなかった」のです(士師記2:10)。
- その世代は、自分たちのルーツも、受け継いだものも、ヨシュアの言葉も知っていました。「それは、選ばなかった世代でした。」選択のすぐそばまで来ていながら、一度も立場を明らかにしなかったのです。
5. 選ぶこと:あなたの心には、いくつの愛がありますか
- 人生で決断することほど難しいことはない、とよく言われます。選ぶとは、何かを後ろに置いていくことです。しかし、心が自由でないとき、いくつもの愛や情熱に引き裂かれ、あらゆる方向に引っ張られているとき、選ぶことはこの世で最も難しいことになります。
- 金持ちの青年は、無関心でも気が散っていたわけでもありませんでした。彼の問いは立派なものでした。「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか。」イエスは、持ち物を売って貧しい人に施し、それから自分に従うようにと答えられました。そこで危機が訪れます。「青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである」(マタイによる福音書19:16〜22)。
- 心が主に完全にささげられているなら、選ぶことは難しくないはずです。あなたの問いは「なぜ選ぶのがこんなに難しいのか」であってはなりません。「私の心には、自由に選ぶことを妨げている愛がいくつあるのか」であるべきです。
- これこそがダビデ王を救ったものです。彼には王国も、権威も、富も、成功もありました。しかし人生の分かれ道のたびに、彼は主の御前を選びました。「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」(詩篇16:2)。牧師は、よく知られた賛美歌を思い起こさせます。目をイエスに向けなさい。そうすれば、地上のものは、主の栄光と恵みの光の中で輝きを失っていきます。
- 民には、アモリ人の神々という選択肢がありました。私たちにもあります。自分の情熱、スポーツ、サッカーです。子どものころ、牧師は午後4時30分の礼拝に出るのが重く感じられたそうです。同じ時間にインテルの試合があったからです。「ユベントスとは言いませんでしたよ。言ったら大変ですから。」やがて、子ども、仕事、人間関係、さまざまな務めがやって来ます。
- きょう選ぶとは、鏡の前に立つことです。「選ぶのが難しいなら、主と第一の座を争う愛が多すぎるということです。」
6. きょう:先延ばしにできない呼びかけ
- ヨシュアは民を急き立てることも、感情の波に乗ろうとすることもしません。むしろ、主に仕えることを良しとしないなら、とまで言います。よく考えなさい。ただし選ぶときは、はっきりと、断固として選びなさい。これは後回しにできない選択です。
- 私たちはあまりにもよく、こう言えると思ってしまいます。「主よ、ありがとうございます。いただいたものは、人生の大切なものをしまっておく引き出しにしまいます。」都合のよいときに、次の一歩を踏み出します、と。「主との関係は、そのようには働きません。」
- イエスがペテロとアンデレを呼ばれたとき、「彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った」のです(マタイによる福音書4:18〜20)。取税所に座っていたマタイに「わたしに従ってきなさい」と言われると、彼は立ち上がって従いました(マタイによる福音書9:9)。そこには真剣な選択がありますが、間(ま)はありません。
- 「主の呼びかけへの答えを先延ばしにする民になる権利を、いつ私たちは与えられたのでしょうか。」聖書には、呼びかける神と、それに答える民がいます。感情に従うことが問題なのではありません。「それほど間違っていて、無益なことはないでしょう。」けれども、主がきょう呼ばれるなら、あなたはきょう答えなければなりません。
- アレオパゴスで、ある人々はパウロにこう言いました。「この事については、いずれまた聞くことにする」(使徒行伝17:32)。総督ペリクスも彼に答えます。「きょうはこれで帰るがよい。また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」(使徒行伝24:25)。しかしみことばは違うことを語っています。「今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(コリント人への第二の手紙6:2)。
- 牧師は、約一か月前、9月16日の夜に生まれた娘さんの話をします。午後9時30分ごろ、急いで病院へ向かうことになり、娘さんは午前0時18分に生まれました。彼はずっと奥さんのそばにいました。落ち着いた三分間のあいだに、トイレへ駆け込みました。戻ってみると、破水していて、ベッドの周りには人があふれていました。「その三分間で、すべてを見逃しました。」
- 「人生は、一瞬一瞬でできています。」もしペテロやマタイが時間をくださいと頼んでいたら、イエスとともに過ごしたあの素晴らしい三年間を生きられたかどうか、牧師には分からないといいます。
7. 命を選びなさい
- 出エジプト記23章24〜25節で、神はすでに征服に向けた指示を与えておられました。諸国民の神々の前にひれ伏さないこと、それらを倒し、像を打ち砕くこと、そして主に仕えること。主はパンと水を祝福し、病を遠ざけてくださいます。すべては備えられていて、この説教さえもそうでした。ヨシュアは民に、覚えているかと尋ねているのではありません。選ぶ勇気を求めているのです。
- ダヴィデ・ラウローラ牧師は、神に新しい油注ぎを求めること、神との契約を新たにすること、仕える備えを新たにすることを勧めます。そして、まだイエスを個人的な救い主として受け入れていないなら、「キリストを選びなさい」と語ります。祈りの中で、主にこう願ってください。「主よ、私の心に入ってください。」
- 牧師はセネカの言葉を引用します。「どの港へ向かうのか分からない船乗りには、順風などない。」自分に問いかけてください。神にどんな場所を与えたいのか。どんな信仰者になりたいのか。どんな交わりを持ちたいのか。どれほどの霊的な深みと、神との親しさを求めているのか。
- 「これらのものが、どこからともなく来るのを待たないでください。それは、選ぶ勇気から始まります。きょう、あなたの霊的な生活の質を選びなさい。」
- 牧師は申命記30章15〜20節で結びます。「わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう」。
- 牧師の祈りはこうです。シケムが、アブラハムとヤコブの祭壇の地であるだけでなく、私たちの世代が新たな祭壇を築き、生涯のすべてを神へのささげ物として燃やし尽くす場所となりますように。それは、選ぶ勇気から始まります。
心に留めたいこと
- 神はここまで真実であられました。しかし、その真実を覚えているだけでは足りません。ここから先は、あなたが選ぶ番です。
- 主に仕えることは、一つの働きにとどまりません。どの祭壇で人生を燃やし尽くすかを決めることです。
- 自分の歴史や霊的なルーツを知っていることは、個人的な選択の代わりにはなりません。一つの世代が、選択のすぐそばにいながら、一度も立場を明らかにしないこともあります。
- 選ぶのが難しいとき、本当の問いはこうです。私の心の中で、第一の座を争っている愛はいくつあるのか。
- 神がきょう呼ばれるなら、答えもきょう与えるものです。いつか後でと、引き出しにしまうものではありません。
個人への適用
- 最近いただいた祝福のうち、応えることなく「引き出しに」しまったものは何ですか。
- 今、あなたの心の中で、主と第一の座を争っている愛、情熱、務めは何ですか。
- あなたは選択のすぐそばに立っているだけですか。それとも、主に仕えるために本当に立場を決めましたか。
- あなたの後に続く人たちに、どんな霊的な遺産を残したいですか。
- あなたの霊的な生活の質のために、神はきょう、どんな具体的な一歩を求めておられますか。
引用された聖句
- ヨシュア記24:14〜17
- ヨシュア記24:1
- ヨシュア記24:22
- 創世記12:6〜7
- 創世記33:18〜20
- 創世記35:2〜4
- サムエル記上7:12
- 詩篇21:3
- 士師記2:10
- マタイによる福音書19:16〜22
- 詩篇16:2
- マタイによる福音書4:18〜20
- マタイによる福音書9:9
- 使徒行伝17:32
- 使徒行伝24:25
- コリント人への第二の手紙6:2
- 出エジプト記23:24〜25
- 申命記30:15〜20
よくある質問
ヨシュア記24章の「きょう、あなたがたの仕える者を選びなさい」とはどういう意味ですか。
ダヴィデ・ラウローラ牧師によれば、仕えることは一つの働きにとどまりません。誰に従い、誰を敬い、どの祭壇で人生を燃やし尽くすかを選ぶことです。ヨシュアは神を知らない民に語っているのではありません。神を知っている民に、立場を明らかにし、責任を負うように求めているのです。これは献身の問題です。
なぜヨシュアは民をシケムに集めたのですか。
シケムは、神がアブラハムにこの地を約束された場所であり、アブラハムが最初の祭壇を築いた場所です。ヤコブもそこに祭壇を築き、異なる神々を埋めました。約束と礼拝と清めの場所です。ヨシュアはそこに線を引きます。ここまで神は真実であられた。ここからは、あなたが選ぶ番だ、と。
なぜ神に仕えることを選ぶのは、これほど難しいのですか。
牧師によれば、心が自由でないとき、金持ちの青年のように、いくつもの愛が心を別々の方向へ引っ張るときに、選ぶことは最も難しくなります。大切な問いは「なぜこんなに難しいのか」ではなく、「私の心にある、選ぶことを妨げている愛はいくつあるのか」です。