ヨハネ12章:何もささげない信仰は役に立たない

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はじめに

「何もささげない信仰は、何の役にも立たない信仰です。」これは、Davide Di Domenicoがイタリアのセリアーテにあるペンテコステ派の福音キリスト教会で、ある晩に語ったメッセージの題です。取り上げられた箇所は福音書の中でもよく知られた一つ、ヨハネ12章1-8節、過越の祭りの六日前にベタニヤで開かれた食事の場面です。

食卓には、かつて重い皮膚病を患っていたシモン、イエスが死からよみがえらせたラザロ、給仕をするマルタ、そして弟子たちがいます。誰もがイエスを知っており、誰もがイエスとの物語を持っています。そこへマリヤが、非常に高価な純粋なナルドの香油の入った石膏のつぼを開き、イエスの足に注ぎます。説教者はこの対比に目を留めます。「イエスを知ることと、イエスを礼拝することは同じではありません。」

メッセージ全体は、一人ひとりに向けられた一つの問いを軸に進みます。キリストは私にとってどれほどの価値があるのか、という問いです。

メッセージの流れ

1. イエスを知っているだけでは足りない

  • マルコは、この場面を「らい病人シモン」の家としています。重い皮膚病の人は社会で暮らせなかったため、おそらく彼はいやされた人でしょう(マルコ14章3節)。
  • 光景は穏やかに見えますが、外ではユダヤ人たちがイエスを殺そうとしています。ラザロのよみがえりが大きな評判となり、群衆がイエスについて行っていたからです。説教者によれば、これはユダの心にイエスを裏切る決意が生まれるきっかけとなった出来事でもあります。
  • ラザロには力強い証しがあり、マルタは仕え、主の臨在はあらゆるところに現れていました。それでも、長くイエスを知っていて語るべき体験があることと、その臨在を本当に尊ぶことは別のことです。
  • 「イエスを知ることと、イエスを尊ぶことは同じではありません。イエスを知ることと、イエスに価値を置くことは同じではありません。」

2. 礼拝には、誰もが理解するわけではない代価がある

  • 一デナリは一日分の労賃にあたります。三百デナリは、ほぼ一年分の収入です。説教者は、一日の稼ぎを三百倍して、マリヤが主を敬うために何を投じたのかを測ってみるよう勧めます。
  • この行為は釣り合いがとれていないように見えます。「なんて大げさな。もっと控えめでもよかったのに」と言う人もいるでしょう。
  • 「あなたが本当に主を礼拝すると決める日、それには代価が伴います。そしてその代価は、すべての人に理解されるとは限りません。」「それは本当にそこまでする価値があるのか」と問われるでしょう。
  • イエスがどなたかを本当に理解した人にとって、高すぎる代価はありません。主に従うと決めた人は、たいてい全身全霊でそうするものです。

3. 何もしない人たちからの助言

  • 神のために何かをしようとすると、頼んでもいない助言が飛んできます。マルコは弟子たちのことだと記し、ヨハネはそれがユダだったと明記しています。
  • 説教者は言います。ワールドカップの時期になると、イタリアには六千万人の代表監督がいて、その中にはボールを三回もリフティングできない人もいます。あるいは高速道路の工事現場では、一人が働き、三、四人がそれを眺めながらやり方を教えているものです。
  • 教会でも同じことが起こることがあります。あなたの持ち物や知識、賜物や才能の使い方を教えようとする人がいて、その助言はたいてい、何もしたことのない人から来ます。
  • 説教者が笑顔で「詩篇151篇」と呼ぶイタリアの歌は、「あなたはもっと与えられる」と歌います。マリヤはすべてを与えました。ほかの人々は、彼女が「やりすぎ」だと衝撃を受けました。主の価値を測らないとき、物事は行き過ぎに見えるのです。
  • シリヤの将軍ナアマンは、自分のいやしがどう行われるかを前もって思い描いていました。ところがエリシャが、ヨルダン川で七度身を洗うようにとだけ伝えると、彼は怒りました。しもべたちは、大切なのは結果ではないかと答えます。言われたとおりにしなさい、と(列王記第二5章)。私たちもまず、主が召してくださったことを行うことから始めましょう。
  • モーセは、主が求めておられるのは、心を尽くし、魂を尽くして主を愛することにほかならないとまとめます(申命記10章12節)。イエスは、マリヤの行いは無駄ではないと宣言されました。二千年以上たった今も、その話は語り継がれています。

4. マリヤはキリストのためにお金を失い、ユダはお金のためにキリストを失う

  • ユダはイエスの教えを聞いていました。イエスが弟子たちを宣教に遣わしたとき、おそらく彼も奇跡を行ったのでしょう。弟子たちは、悪霊までが服従したと喜んで帰ってきました(ルカ10章17節)。ユダは、イエスが水の上を歩き、パンを増やし、ラザロをよみがえらせるのも見ていました。
  • 「マリヤは、イエスは私の香油より価値があると言っていました。ユダは、この香油はイエスより価値があると言っていたのです。」これは、造り変えられていない人、新しく生まれていない人の見方です。ユダはキリストを経済的な物差しで評価しているのです。
  • 主に仕えることに代価があるのは確かです。その晩そこにいることにも代価があります。遠くから何キロも旅をして仕えに来た兄弟がいますし、賛美とみことばを備える人々も時間と力を注いでいます。
  • 聖書は教会を支えるようにも呼びかけています。献げ物については、少しだけまく者は少しだけ刈り取る、と語っています(コリント人への手紙第二9章6節)。
  • 「このとき、マリヤはキリストのためにお金を失い、ユダはその少しあと、お金のためにキリストを失います。」それは銀貨三十枚のためでした(マタイ26章15節)。神のみことばは鏡です。キリストは私にとってどれほどの価値があるでしょうか。

5. 真実の愛は手放す

  • パウロは、自分にとって得であったものを、キリストのゆえに損失と思うようになった、と書いています(ピリピ人への手紙3章7節)。
  • ダビデの罪のためにイスラエルに疫病が下ったとき、彼は献げ物のために差し出された打ち場を断ります。「費用をかけないで、わが神、主に燔祭をささげることはしません」(サムエル記下24章24節)。
  • 「人がその友のために自分の命を捨てるという愛よりも大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)。真実の献身には、いつも何かが伴います。私たちの時間、持ち物、快適さ、評判、優先順位、そして力です。
  • マリヤは、もう要らなくなったものをささげたのではありません。説教者によれば、この香油は女性が婚礼の夜のために取っておくのが普通でした。マリヤはおそらくまだ結婚していませんでした。彼女は、将来の夫のためにとっておくはずだった最良のものを、イエスに差し出したのです。
  • 真実の礼拝は、心の内をあらわにします。ユダの反対は、貧しい人に施すためという、霊的なものに聞こえます。しかしヨハネは、彼がそう言ったのは盗人だったからだと記しています。「正しい反論が、正しい動機から生まれるとは限りません。」
  • 夜に一時間の賛美の時を過ごしながら、一週間のあいだ主を思いの一番後ろに置いてしまうことがあります。日々の犠牲が欠け、宗教的な動機だけが残っているのです。

6. 彼女は、できる限りのことをした

  • 主のために何かをするとき、最初にあなたを弁護してくださるのは主ご自身です。マリヤはほかの人々に何も言い返しません。彼女にとって、その部屋にはイエスしかおられなかったのです。
  • イエスは、マリヤがすべてをしたとも、最大限をしたとも言われませんでした。彼女は「できる限りのことをした」と言われたのです(マルコ14章8節)。この言葉は二つの極端を打ち砕きます。「あの人のようには全部できないから、私は何もしない」という考えと、「私にできることなんて少なすぎる」という考えです。
  • 「イエスは、私たちにできる以上のことを決して求められません。」百を出せるなら百を、九十を出せるなら九十を出すべきです。しないことの言い訳に、自分の限界を使うのはやめましょう。

7. 機会は一度しか通り過ぎないことがある

  • マリヤに与えられた機会はたった一度でしたが、彼女はそれを無駄にしませんでした。その晩こそ、主に油を注ぐ晩だと知っていたのです。
  • 「この電車に乗り遅れたら、もう二度と乗れません。」従順には、特定の時と結びついたものがあります。心が和らいでいるうちに誰かに赦しを求めること、罪を続けて心がかたくなになる前に主に赦しを求めること、機会が訪れたときに誰かにキリストのことを語ることです。
  • マルコ16章では、女たちがイエスのからだに油を塗るために香料を買いますが、イエスはもうそこにおられません。よみがえられたのです。マリヤはこの奉仕を、すでに前もって果たしていました。彼女は自分が何をしているのか、すべては分かっていなかったでしょう。それでもその行いは預言的でした。福音が宣べ伝えられるところでは、彼女のこともまた語られるのです(マルコ14章9節)。
  • 神は、思い切ってふみ出す信仰を求めておられ、私たちが限界を取り除くことを教えたいと願っておられます。

8. 香りを放つ人生

  • 「家は香油のかおりでいっぱいになった。」神は、私たちの人生が香りを放つことを望んでおられます。救いの道を歩む人々にとっては命のかおり、滅びていく人々にとっては死のかおりです(コリント人への手紙第二2章15-16節)。
  • この香りは、マリヤがイエスだけに心を向けていたところから生まれました。ユダも、シモンも、ラザロも、マルタも、弟子たちももう目に入りませんでした。イエスが人生のただ一つの目的になるとき、イエスがしてくださったことに報いるのに十分な代価などありません。
  • マリヤは、イエスのからだに高価なものを注ぎました。六日後、イエスは彼女のため、そして私たちすべてのために、高価なものを注がれます。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためなのである」(マルコ10章45節)。
  • キリスト者の犠牲は、神の愛を買おうとするものではありません。イエスが私たちにしてくださった愛に気づくときに生まれるものです。イエスを十字架につなぎとめたのは、英雄的な理想ではなく、あなたと私への愛でした。
  • Davide Di Domenicoは、個人的な願いでメッセージを結びます。いつか主が自分について、できることを、多くも少なくもなく、すべてしたと言ってくださるように、と。功績によるのではありません。すべては恵みだからです。主は、主のためになされたことに報いてくださるからです。「良い忠実なしもべよ、よくやった」(マタイ25章21節)。

心に留めたいこと

  • イエスのそばにいて、その働きを見ていても、イエスを礼拝していないことがあります。イエスを知ることと、イエスに価値を置くことは同じではありません。
  • 真実の礼拝には代価が伴い、その代価は、主の価値を測らない人々からは、しばしば行き過ぎだと見なされます。
  • マリヤはキリストのために香油を失い、ユダはお金のためにキリストを失いました。本当の問いはこれです。キリストは私にとってどれほどの価値があるのか。
  • イエスは私たちにできる以上のことを求められません。しかし、できることをするよう期待しておられ、限界の陰に隠れることを望まれません。
  • 犠牲は神の愛を買うものではありません。十字架ですべてを与えてくださったイエスの愛に応えるものです。

ふり返りと適用

  1. 正直に答えるなら、キリストは今日のあなたにとってどれほどの価値がありますか。時間、持ち物、優先順位の面ではどうでしょうか。
  2. あなたは主に、最良のものをささげていますか。それとも、もう要らなくなったものをささげていますか。
  3. 「できることをする」ことができるのに、しないことの言い訳として、どんな限界を使っていますか。
  4. 今、見過ごしてしまいそうな機会はありませんか。赦しを求めること、キリストのことを語る相手、従順への一歩などです。
  5. ほかの人の意見が、神があなたに召しておられることの妨げになっていませんか。

引用された聖書箇所

よくある質問

ヨハネ12章で、ユダはなぜマリヤの行いに反対するのですか。

ユダは、この香油は三百デナリで売って貧しい人に施せたはずだと言います。この反論は霊的に聞こえますが、ヨハネは、彼がそう言ったのは盗人で、財布に入れられるものを持ち出していたからだと記しています。Davide Di Domenicoによれば、正しい反論が正しい動機から生まれるとは限りません。

「彼女はできる限りのことをした」とはどういう意味ですか。

イエスは、マリヤがすべてをしたとは言わず、自分の手の届くことをしたと言われました。説教者は、ここに二つの言い訳の終わりを見ます。「あの人ほどできないから、何もしない」と、「私にできることは少なすぎる」です。主は、私たちにできる以上のことは求められません。

「何もささげない信仰は、何の役にも立たない」とはどういう意味ですか。

イエスを知ることと、イエスを礼拝することは同じではありません。真実の礼拝には、いつも何かの代価が伴います。時間、持ち物、快適さ、ときには評判です。この犠牲は神の愛を買うためのものではなく、私たちのために命を捨ててくださったイエスの愛への応答です。

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