はじめに
CEP Luganoでは、10月は「聴くこと」の月です。このメッセージは「神に聴く」シリーズの幕開けであり、四つのテーマの最初にあたります。説教者は、誰もが知っている願いから語り始めます。「主よ、あなたの声を聞きたい。あなたの御声を理解したい。あなたがどこへ導いておられるのかを見たい。」
けれども説教者は、一つの危険を指摘します。このテーマを極端に個人主義的に捉えてしまうことです。「私への御言葉は何ですか。私への計画は何ですか。私をどこへ導こうとされるのですか。」こうした問いそのものは間違いではありません。神は人格的な神であり、サムエルや預言者たちを召し、ダマスコへの道でパウロに現れました。しかし「人格的であることは、自動的に個人主義であることを意味しません」。
聖書の歴史の大きな流れの中で、神は一人ひとりを呼ばれますが、それは常に一つの民を築くためです。神は個人に語りかけながら、その人をひとりにはされません。計画の中に、家族の中に、からだの中に置かれるのです。そこでこのメッセージは問いかけます。「主よ、私たちに何を語りたいのですか。」
メッセージの構成
1. 教会を消費するか、教会に属するか
- 私たちは非常に個人主義的で、選択肢の多い社会に生きています。選べること自体は悪くありません。店の質が落ちたり値段が上がったりすれば、隣に別のチェーン店があります。
- 危険なのは、その発想を教会に持ち込み、教会をスーパーマーケットにしてしまうことです。ここは賛美が好き、あそこはあの説教者が好き、また別の場所はもっと心が躍る、というふうに。
- 説教者は、教会を変えてはいけないと言っているのではありません。変えることが正しい場合もあります。ただ、教会との関わり方が消費なのか、所属なのかを問う必要があります。
- 家族には、一緒に向き合う喜びや試練があり、他の人への責任があり、近しい人もいれば、まったく違う人もいます。「兄はまったく違っていて、考え方も別です。」私たちは一つですが、多くの場合それぞれ違います。
- 家族で大切なのは所属です。そこにいること、重荷を担うこと、貢献すること、支えること、赦すこと、共に成長すること、忍耐することです。
2. 神が築かれるのは、ばらばらの信者ではなく一つの民
- 申命記6章4節は、旧約聖書で最も重要な箇所の一つです。「イスラエルよ、聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」神は「モーセよ、聞け」とも「ひとりのイスラエル人よ、聞け」とも言われません。一つの民に語られるのです。
- シナイ山で、神はすでに聴くこととアイデンティティを結びつけておられました。「今もしあなたがたがわたしの言葉に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。[...] あなたがたはわたしに対して、祭司の国となり、聖なる民となるであろう」(出エジプト記19章5-6節)。神は一人ひとりに個別の指示を与えるのではなく、共に御声を聴く共同体を造られるのです。
- 同じ型が旧約聖書全体を貫いています。ヨシュア記8章では、約束の地に入るとき、ヨシュアが男も女も子どもも寄留者も含めた民全体を集め、神の律法をもう一度聞かせます。
- 列王記下23章では、神殿で律法の書が見つかったあと、ヨシア王が民を集め、契約の書を公に読み上げ、民は神への献身を新たにします。
- ネヘミヤ記8章では、捕囚の後、「民はみな一人のように」集まりました。エズラが御言葉を読み、民は理解し、心を動かされ、神に応えます。
- 神は呼び、集め、語り、神の民は聴いて応えます。ですから教会は、「120人か130人」の人が同じ時間に集まり、一時間半のあいだ各自が個人的な霊的体験をする場所ではありません。
3. 同じからだの肢体として
- これに気づくと、礼拝への来かたが変わります。好きな賛美歌や心に響くテーマを期待して来ることもあるでしょう。それ自体は悪くありませんが、こう言うこともできます。「主よ、今日、私はあなたの民と共に集まります。自分のためだけに聴きたくはありません。からだとして、教会として、私たちに何を語られますか。」
- この信仰は個性を消し去りません。神はあなたの物語、傷、過去、名前を知っておられますが、あなたをひとりにはされず、一つのからだに結び合わせてくださいます。
- 「あなたがたはキリストのからだであり、また、ひとりびとりはその肢体である」(コリント人への手紙第一12章27節)。目だけではからだになりませんし、手だけでもなりません。どの肢体も大切ですが、共に新しいアイデンティティを形づくります。
- 聖書の信仰は「イエスと私だけ。あとはすべて任意」ではありません。聖霊は私たちをからだに接ぎ木し、互いに結び合わせてくださいます。
- 「教会における個人主義は、神が歴史の中でなさっていることと矛盾します。」アブラハムはひとりで召され、大いなる国民となります。イスラエルは民として、エジプトから解放されます。イエスは弟子たちを一人ひとり呼ばれ、一つの群れに結び合わせます。ペンテコステに、御霊は教会を生み出します。黙示録では、大群衆、花嫁、一つになった民が描かれています。
- 所属、忠実さ、人間関係、奉仕、互いに重荷を担い合うことは、こうして私たちの信仰のDNAの一部となっています。
4. 御霊は教会に語られる
- 新約聖書では、聖霊は信じるすべての人に与えられます。そこから、すべてが個人的になり、一人ひとりが神との直通回線を持つのだと結論づけたくなるかもしれません。しかしペンテコステの結果は、共同体でした。
- 「彼らは使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」(使徒行伝2章42節)。御霊は、共に生き、祈り、聴き、分かち合う民を生み出します。
- アンテオケには、教師たちと預言者たちのいる教会がありました。「一同が主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が『バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、わたしが招いた仕事に当らせなさい』と告げた」(使徒行伝13章2節)。
- バルナバはある朝突然「神が行けと言われたので、さようなら」とは言いません。バルナバとサウロには確かにそれぞれ個人的な召しがありましたが、それは共同体の中で認められ、確かめられます。共同体は祈り、断食し、手を置き、送り出します。
- 神は、全員の益のために一人に語られることもあれば、一人の中で起きていることを確かめるために、からだ全体に語られることもあります。
5. 共に見分けることが、個人の聴く姿勢を守る
- 「神と私」だけのときには、間違うことがあります。神の声を自分の願望と取り違えたり、好きだからという理由で熱くなったり、恐れを「霊的な慎重さ」と呼んだりすることがあります。誠実な直感を持ちながら、それを誤って解釈することもあります。
- だから新約聖書は、見分けることについても語っています。「預言者の場合は、ふたり、三人が語り、ほかの者はそれを聞きわけるべきである」(コリント人への手紙第一14章29節)。「神が私に語られた。皆、黙りなさい」ではありません。神が語られるとき、対話が始まるのです。
- 「神がこれを示しておられると信じます。」そのとき、共に聖書に照らして吟味し、祈り、互いに耳を傾け、確証を求めることができます。それは個人の聴く姿勢を弱めるものではなく、「むしろそれを守る」ものです。
- 使徒行伝15章で、教会は分裂しかねない問いに直面します。ユダヤ人でない背景からキリストのもとに来た人々は、何を守るべきか、という問いです。誰も「神が私に語られた。これが私たちのすることだ」と言って現れはしません。長老たちが集まり、ペテロ、パウロ、バルナバが現場で見たことを語り、ヤコブが聖書に基づいて語ります。
- 結論は力強いものです。「聖霊とわたしたちとは、[...] 決めた」(使徒行伝15章28節)。聖書、証し、祈り、霊的な知恵が一つに収束して、進むべき方向が示されました。
- 問いは共同体のものになります。「主よ、私たちの間で何をしておられますか。この教会の心に何を置かれていますか。どんな必要を示しておられますか。どんな賜物が現れていますか。繰り返し語っておられることは何ですか。」神は一回の説教では語らず、何週間も何か月もかけて、繰り返し現れるテーマを通して共通の感受性を育てられることもあります。
6. 他の人を通して神に聴く
- 私たちは、神がすでに兄弟姉妹を通して語っておられるのに、語ってくださいと願うことがあります。証し、私たちを正してくれる人、何かに気づかせてくれる人を通してです。
- 「キリストの言葉を、あなたがたの内に豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教え、勧め」なさい(コロサイ人への手紙3章16節)。御言葉は、神と私だけの問題にとどまりません。
- 「神に個人としてだけ聴き、他の人の声を聞かないなら、おそらく私は神を非常に一方的に聞いています。」他の人に耳を傾けるには謙遜が必要です。私たちは天からの直接の言葉、夜中に目を覚まさせる声を望みますが、神はむしろ日曜の朝にメッセージや一つの聖句を通して、はっきり語りたいのかもしれません。
- 消費者は気に入ったものだけを取り、残りは煩わしいと感じます。自分がからだの肢体であると知っている人は、他の人がもたらすものが自分に必要だと知っています。「私にはフルセットが必要です。」
- だからこそ、共に神に聴く場が大切です。日曜日より形式ばらない教会の「立て上げの夕べ」では、賛美と祈りがあり、聖句や思い、証しが分かち合われます。また小グループは、関係を増やすために作られています。
- 「相手の重荷を担いたいなら、相手を知らなければなりません。」日曜に隣に座っている人について何も知らないままでは、重荷を担えません。正され、助けられ、支えられるには、心を開ける場が必要です。そのためには、その場を信じ、時間をかけることが求められます。
7. 聴く教会は、応える教会
- 聴くことは、音が耳に入ることだけではありません。聖書の言う「聴く」は、常に行動と従順へと導きます。シナイ山で「民はみな共に答えて言った、『われわれは主が命じられたことをみな行います』」(出エジプト記19章8節)。
- ネヘミヤ記8章では、民は御言葉を聴き、再建された町での生き方を変えます。使徒行伝13章では、教会は御霊に聴き、サウロとバルナバを送り出します。使徒行伝15章では、具体的な決定を下し、諸教会に手紙を書きます。神の声は、いつも神の民を動かします。
- 問いは「自分のために何かを受け取ったか」だけではありません。「神が私たちに語られたことを、私たちは共に、長く続けて、どうするのか」です。神が必要を示されたなら、誰が名乗り出るでしょうか。神がある方向へ召されたなら、誰が「ここにおります」と言うでしょうか。神が私たちを正されたなら、教会の文化の何を変えられるでしょうか。
- 「千の説教を聴いても、変わらないままでいることはできます。」神が「この人の重荷を担いなさい」と言われると、私たちは無理だと答えます。仕えるよう召されても、今は人生の時期がよくないと言います。赦すよう召されても、距離を置くほうが楽に思えます。「忠実でいなさい」と言われても、よそにはもっと面白いものがあると考えます。
- 「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」(ガラテヤ人への手紙6章2節)。「互いに」は、そこにいること、所属、忠実さがあって初めて可能になります。所属するとは、良いときも困難なときも家族であることです。共に喜び、苦しむ人の重荷を担い、倒れた人を起こし、神が一人に語られるときは共に見分け、神が召した人を共に送り出します。
- 黙示録で、イエスは七つの教会に同じ言葉を繰り返して語られます。「耳のある者は、御霊が諸教会に言っていることを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2章7節)。説教者は、その耳を持ち、こう問う教会を願っています。「主よ、あなたは語られました。私たちに何ができますか。どうすれば共にあなたに応えられますか。」
要点
- 神は一人ひとりを個人的に呼ばれますが、それは常に一つの民を築くためです。人格的であることは、個人主義であることではありません。
- 「イスラエルよ、聞け」。創世記から黙示録まで、神は共に御声を聴く民を形づくられます。
- 教会との関わりは、所属から消費へと滑り落ちることがあります。家族で大切なのは、そこにいて重荷を担い合うことです。
- 聖書に照らし、祈りのうちに共に見分けることは、私たちの願望や恐れから、個人の聴く姿勢を守ります。
- 聖書の言う「聴く」は、常に従順へと導きます。聴く教会は、応える教会です。
個人への適用
- 神に語ってくださいと願うとき、あなたの教会に何を語りたいのかも、神に尋ねているでしょうか。
- あなたと教会との関わりは、消費者のものに近いでしょうか、それとも家族の一員のものに近いでしょうか。
- 神から来たと思う思いや方向性を、他の人と一緒に見分けるために、誰に相談できるでしょうか。
- あなたを正してくれた兄弟姉妹を通して、神が語られたことはありますか。そのとき、あなたはどう受け止めましたか。
- 他の人を知り、担うために、どんな交わりの場(小グループ、分かち合いの夕べ、祈りの時間)に加われるでしょうか。
引用した聖句
- 申命記6章4節
- 出エジプト記19章5-8節
- ヨシュア記8章33-35節
- 列王記下23章1-3節
- ネヘミヤ記8章
- コリント人への手紙第一12章27節
- 使徒行伝2章42節
- 使徒行伝13章1-3節
- コリント人への手紙第一14章29節
- 使徒行伝15章28節
- コロサイ人への手紙3章16節
- ガラテヤ人への手紙6章2節
- ヨハネの黙示録2章7節
よくある質問
なぜ神は、ひとりの人にではなく「イスラエルよ、聞け」と言われたのですか。
申命記6章4節で、神は「モーセよ、聞け」とも「ひとりのイスラエル人よ、聞け」とも言われません。民全体に語りかけておられます。説教者にとって、神の声を聴くことは個人的な体験にとどまりません。神の言葉のもとで共に生きることを学ぶ民の、共同体としての召しなのです。
人格的な信仰と個人主義的な信仰は、どう違うのですか。
神は一人ひとりを名前で呼ばれます。あなたの物語も、傷も、過去も知っておられます。けれども、人格的であることは個人主義であることではありません。神は民を築くために、一人ひとりを呼ばれます。あなたをひとりにはされず、あなた一人よりはるかに大きなからだ、家族、物語の中に置かれるのです。
なぜ神の語られることを、共に見分けるのですか。
神の声を自分の願望と取り違えたり、恐れを「霊的な慎重さ」と呼んだりすることがあります。コリント人への手紙第一14章29節は、ほかの者が聞きわけるようにと求めています。聖書に照らし、祈りのうちに共に見分けることは、個人の聴く姿勢を弱めるのではなく、守るものです。使徒行伝15章で教会が「聖霊とわたしたちとは...決めた」と結論したのは、その例です。