あなたの周りにも、こう思わせるクリスチャンがいませんか。「どうしてあの人はあんなに揺るがずにいられるのだろう」と。健康のこと、仕事のこと、家庭のこと、世の中の出来事、すべてが揺れ動いていても、その人の葉はいつも青々としています。それは、その人が特別に強いからではありません。ただ、根がより深く伸びているからです。
スペイン王の礼拝堂で語られたある礼拝の中で、招かれた説教者はエレミヤ書17章を開き、シンプルな真理を思い出させてくれました。長く実を結び続けたいなら、あなたの根を神の中に深く下ろす必要がある、ということです。日曜日の朝だけではありません。深く、毎日です。
この記事は、その語られたメッセージを忠実にまとめたものです。じっくり味わい、何度でも読み返し、今週の生活の中で実践していただけたらと思います。
メッセージの構成
1. 水のほとりに植えられた木のイメージ
「主に信頼する者、主を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植わった木のように、その根を流れのほうにのばし、暑さが来ても恐れることなく、その葉は常に青々と茂り、ひでりの年にも憂えることなく、たえず実をむすぶ」(エレミヤ 17:7-8)
南フランスのプロヴァンス地方では、乾燥がどれほど厳しいものか、誰もが知っています。水は貴重で、乾いた年にも生き残る木というのは、地上でいちばん目立つ木ではありません。地中でいちばん深くまで伸びていった木です。それらの木は「たまたま水のほとりに植わっていた」のではありません。掘り、探し、根をわずかな水分にまで届かせてきたのです。これはまさに、クリスチャン生活のイメージです。私たちの力、活力、実りは、キリストにどれだけ深く根を張っているかにかかっています。
この箇所からは、メッセージが順に展開した三つの柱が見えてきます。すなわち、養分を汲み取ること、試練に向き合うこと、実を結ぶことです。
2. 養分を汲み取る:祈りは、あなたの隠れた呼吸です
根は美しいものではありません。植物を鉢から抜いたとき、写真に撮りたいと思うのは根ではないでしょう。それでも、根がなければ木は枯れてしまいます。祈りの生活も同じです。隠れていて、地味で、しばしば骨の折れるものですが、絶対に欠かせないものなのです。
イエス様ははっきりとこう言われました。「あなたは祈るとき、へやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」(マタイ 6:6)。祈りは、まず人前で行う演技ではありません。隠れた場所で織り上げていく親密な関係です。人に見られようと大声で祈ったパリサイ人は義とされず、心の中で叫んだ取税人こそが、赦されて家に帰って行きました(ルカ 18:9-14)。
祈りは、あなたのたましいの呼吸です。日曜の朝にたっぷり息を吸い込んで、「これで来週の日曜まで持つだろう」と思う人がいるでしょうか。あり得ません。祈りも同じで、蓄えておくことはできません。「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ 5:17)とあるとおり、日々続けていくものです。
そして、これは簡単なことではありません。誰もそうは言っていません。ゲツセマネの園では、イエス様にいちばん近くにいた弟子たちでさえ、一時間さえ共に目を覚ましていることができませんでした(マタイ 26:40)。肉には別の望みがあるのです。だからこそ、闘う必要があります。しかし、まさにその闘いの中でこそ、あなたの信仰は成長し、成熟していくのです。
3. 養分を汲み取る:み言葉は、あなたの霊の食べ物です
根は水を吸い上げるだけではありません。養分も探し求めます。私たちの霊の食べ物は、神の言葉です。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」(マタイ 4:4、申命記 8:3の引用)。
息を止めておくことが不自然であるのと同じくらい、食べないでいることも不自然です。断食にも限界があります。水なしでは四日、食べ物なしでは五週間、それを超えると、もう限界です。霊についても、同じ原理が働きます。週に一度、日曜の朝だけ養われて満足するわけにはいきません。一週間の中に、聖書を読み、祈るための本当の時間を確保する必要があります。
それは訓練です。「訓練」という言葉そのものが、簡単ではないことを物語っています。しかし、その代価を払ってこそ、あなたの木は倒れずに立ち続けるのです。
4. 試練に向き合う:ひでりを恐れない木
エレミヤ書のこの箇所は、木がひでりを免れると言っているのではありません。木がひでりを恐れないと言っているのです。暑さは来ます。厳しい年もあります。それでも木はそれにさえ気づきません。なぜなら、根がほかの場所から水を探し当てているからです。
入り江の岩場を歩くと、岩にしがみつくように立ち、傾き、ねじれた木々を見かけます。いったいどこから養分を得ているのだろうと思うほどです。答えはシンプルです。その根は岩の裏側を通り抜けているのです。根は深く潜り込んでいます。だから、その木の身に何が起ころうと、まっすぐに立ち続けられるのです。
その一方で、逆のケースもあります。半世紀もそこに立っていて、丈夫だと思われていた木が、最初の強風で倒れてしまう。大きな木でも小さな木でも、ミストラル(南仏特有の強風)ひとつで十分です。地上では立派に見えていても、根がもう支えきれなくなっていたのです。ここで正直に自分自身に問うてみましょう。あなたの人生に嵐が来たとき、あなたは本当は何に根を下ろしているでしょうか。
5. 深みに漕ぎ出す:献身への招き
ルカ5章で、舟の上から群衆に教え終えたイエス様は、ペテロにこう言われました。「深みに漕ぎ出して行って、網をおろし、漁をしてみなさい」。ペテロは経験豊かな漁師です。彼はちょうど一晩中働いても何も獲れなかったところでした。人間の常識からすれば、イエス様の言葉には筋が通りません。それでも彼は従います。
水の深い所へ行きなさい。まだ行ったことのない所へ行きなさい。このメッセージは献身への招きです。安全な習慣から一歩踏み出して、イエス様とともにさらに先へ進むことです。まだ汲み取っていない霊の資源を求めて出かけて行くこと。奇跡的な大漁が起こるのは、まさにその深い水の中でなのです。
6. 実を結ぶ:出発点ではなく結果として
深く根を張った木は「たえず実をむすぶ」とあります。これは、先ほどの二つの点から自然に導かれる結論です。あなたが実を結ぶのは、まず自分を無理に奮い立たせるからではありません。根を下ろしているからこそ、実を結ぶのです。
あるクリスチャンを見たとき、まず目に入るべきものは、見せかけの敬虔さではありません。神との本当の親密な関係からあふれ出す、変えられた人格と奉仕の姿です。目に見える実は、目に見えない根の量に比例します。ある実験では、一つの植木鉢に生えた植物の根の合計の長さが、なんと1キロメートル近くにも及んだそうです。木の本当の営みは、地上よりも地下でずっと大きく行われています。あなたの人生も、同じなのです。
覚えておきたいポイント
- あなたの霊的な安定は、周りの人にどう見られているかではなく、神の中に隠された根の深さによって決まります。
- 祈りは、あなたのたましいの呼吸です。蓄えることはできません。毎日実践するものです。
- 神の言葉は、あなたの食べ物です。日曜の朝だけで満足すれば、残りの一週間は飢えたままになってしまいます。
- 根を張った木は、試練を避けられるのではなく、試練の中を恐れずに通り抜けていきます。
- 深みに漕ぎ出すとは、すでに知り尽くしていることを超えて進もうとするイエス様の招きに従うことです。
個人的な適用のために
- 今週、隠れた場所での毎日の祈りの時間は、具体的にどのようなものになるでしょうか。
- 私は、体を養うのと同じくらい、たましいをみ言葉で養っているでしょうか。一日のうち、聖書を読むためにどの時間を取り分けられるでしょうか。
- 今、私が通っている「ひでり」とは何でしょうか。そのとき、私の根は本当は何につながっているでしょうか。
- 今、イエス様は私に、ある具体的な事柄について深みに漕ぎ出すよう求めておられないでしょうか。私はまだ何を先延ばしにしているでしょうか。
- 正直に神の前に立つなら、今、私の人生にはどんな実が見えるでしょうか。それは私の根について何を物語っているでしょうか。
引用された聖句
- エレミヤ 17:7-8
- 詩篇 1:1-6
- エゼキエル 36:26
- マタイ 6:6
- マタイ 4:4
- ルカ 5:1-11
- ルカ 18:9-14(パリサイ人と取税人)
- マタイ 26:36-46(ゲツセマネ)
- 第一テサロニケ 5:17
よくある質問
「キリストに根を下ろす」とは、具体的にどういうことですか。
それは、隠れた場所で、祈りと神の言葉を通して、神との継続的な関係を育てていくことを意味します。木の根が水を求めて深く伸びていくように、あなたも神のもとに、ほかでは見つけられない命と知恵と力を求めて出かけて行くのです。それは他の人には見えませんが、嵐が来たときにあなたを立たせ続けてくれるものです。
なぜ日曜の朝だけでは足りないのですか。
クリスチャン生活は、週に一度のガソリン補給ではないからです。それは呼吸です。人は週に一度しか息を吸わない、ということはありません。日曜日の礼拝は貴重なものです。それは大切な時間であり、共に祈ることで力づけられる交わりの場です。けれども、それはイエス様が語られた、自分の部屋で神とひとりで過ごす日々の時間、隠れた場所での時間に取って代わるものではありません。
祈る気持ちになれないとき、どうすれば祈り続けられますか。
まず、それが自然なことだと認めましょう。肉には別の望みがあり、ゲツセマネでは弟子たちでさえ一時間も目を覚ましていられませんでした。次に、それは自然に湧き上がる情熱ではなく、訓練であることを受け入れましょう。時間と場所と、無理のない長さを決めて、忠実に続けてください。その乾いた時間を耐え抜くその粘り強さの中でこそ、あなたの信仰は成長し、成熟していくのです。
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