聖書 — 口語訳 (1955)
詩篇 1
概要
詩篇1篇は、詩篇の書の入り口として置かれています。二つの道が示されます。悪に加わらず、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそれを思う幸いな人の道と、悪しき者の道です。前者は水のほとりに植わった木にたとえられ、季節にかなって実を結びます。後者は風に吹き飛ばされるもみがらのようです。詩は対比で結ばれます。主は正しい者の道を知っておられ、罪人の道は滅びに至ります。
詩篇1篇には表題がなく、作者は不明です。詩篇の書の入り口として置かれ、詩篇全体を読む鍵を与えています。道は二つあり、まことの幸いは神のみことばにある、という鍵です。箴言に近い知恵の詩で、詩篇19篇、詩篇119篇とともに、神のおきてを主題とする詩の一つです。この詩は「さいわい」という言葉で始まり、詩篇2篇も同じ言葉で終わるため、二つの詩をひと続きの序文として読む人が多くいます。おきてと訳された語は、ヘブライ語のトーラーで、規則というより教えを意味します。今日、信仰者は、聖書を読む時間の始めに、黙想を学ぶために、また人生の選択の前に、この詩を用います。
この章の3つの区分
1悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
2このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
3このような人は流れのほとりに植えられた木の 時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
4悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
5それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
6主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
詩篇1篇を節ごとに読む
1節歩く、立ち止まる、座る:妥協へと下る坂道
詩は「さいわい」という言葉で始まります。ヘブライ語では複数形で、ああ、何という幸いか、という感嘆のように響きます。一時の感情ではなく、正しい方向へ進む人生を表します。まず、この人が避けるものが語られます。三つの動詞は、悪しき者のはかりごとに歩み、罪びとの道に立ち、あざける者の座にすわる、と下っていきます。耳を傾け、とどまり、腰を据えるのです。悪は大きな決断から始まることはまれで、小さな歩みで勢力を広げます。最後はあざけりで、悪を行うだけでなく、神とその民を笑うようになります。詩は人を避けよとは教えません。イエスも罪びとと食事をされました。求めているのは、人々の考え方に人生を導かせないことです。
2節昼も夜も、みことばを喜び、思う
幸いな人の秘訣は、まず何を拒むかではなく、何を愛するかにあります。「主のおきてをよろこび」。おきてとはトーラー、神の教え、導くみことばです。いやいや従うのではなく、そこに喜びを見いだします。ヘブライ語で思うという動詞は、低い声でつぶやくことを意味し、イザヤ書31章では、獲物の上でうなるししを表す言葉にも使われます。思うとは、一節を読み返し、くり返し、かみしめ、心の糧になるまで味わうことです。神は昔、ヨシュアにも同じ勧めを与え、律法の書を昼も夜も思うよう告げました。昼も夜もとは、絶えず聖書を読むことではなく、仕事の最中も眠れない夜も、みことばを思いの中に住まわせることです。
3節植えられた木は、時が来ると実を結ぶ
「流れのほとりに植えられた木」。この木は偶然に育ったのではなく、だれかが水路のそばに植えたもので、雨が降らなくても水が行き渡ります。イスラエルのように乾いた土地では、水は生と死を分けます。続く約束は三つです。実は「時が来ると」結ばれ、それは望む時とは限りません。葉はしぼまず、「そのなすところは皆栄える」。これは富や困難のない人生の約束ではありません。エレミヤ書17章も同じたとえを用い、暑さが来ても、ひでりの年にも、木は恐れず実を結び続けると言います。ヨセフは主が共におられたので、牢の中でも栄えました(創世記39章)。まことの成功とは、神が植えてくださった目的を果たす人生です。
4-5節悪しき者は、風に吹き去られるもみがら
「悪しき者はそうでない」。対比は鮮烈です。根を張り、生き、実を結ぶ木の前に、詩はもみがらを置きます。麦を打つとき、穀粒を空に投げ上げると、粒は落ち、軽くて価値のないもみがらは風が吹き去りました。もみがらには根も重さも実もありません。しばらくは見せかけが通っても、持ちこたえられません。だから悪しき者は「さばきに耐えない」のです。神なしに築いた人生は、真実の時が来ると何の重みもありません。バプテスマのヨハネも、メシアは麦ともみがらを分けると告げ、同じたとえを用いました。これらの節は、他人を見下して裁くためのものではありません。どの人生も評価される日が来ること、人生に重みを与えられるのは神だけであることを思い出させます。
6節二つの道:神に知られる道と、行き止まりの道
結びは全体を要約します。「主は正しい者の道を知られる」。聖書で知るとは、情報を持つことだけでなく、見守り、寄り添い、交わりをもつことです。神は正しい者の歩みを遠くから眺めておられるのではなく、ともに歩まれます。もう一つの道は滅びに至ります。砂漠の中で途切れる踏み跡のように、行き着く先がありません。しかし、だれが正しいのでしょうか。パウロは、義人はいない、ひとりもいない、と述べています。多くのクリスチャンは、神のおきてを完全に愛した唯一の方イエスを、詩篇1篇の人とみなします。イエスを信じる信仰によって、罪びとは義とされ、道を変えることができます。この詩は、あなたへの問いで終わります。あなたはどの道を歩み、その道をだれが知っているでしょうか。
詩篇1篇の祈り方
この詩篇を祈るとき
- 朝、スマートフォンを開く前に、その日の心を何で養うかを選びたいとき。
- 友人のグループや環境に、少しずつ望まない方向へ引き込まれているとき。
- 聖書を読む気になれず、人生に目に見える実りもない、乾いた時期にいるとき。
- 大切な決断を前に、二つの道が目の前に開いているとき。
- 夜、眠れず、心配事を考え続ける代わりに、みことばを一節思い巡らしたいとき。
- 不誠実な人が成功するのを見て、正しくあることに何の意味があるのかと思うとき。
詩篇1篇に基づく祈り
主よ、私は、あなたのもとにあるまことの幸いを知りたいのです。悪い助言に耳を傾け、いるべきでない所にとどまり、あなたをあざける人々と腰を据えてしまうのは、とても簡単です。あなたはそれをご存じです。私をあなたから遠ざける影響、ある会話、ある画面、ある習慣を、あなたにゆだねます。その道を歩んだことをお赦しください。みことばを、義務ではなく糧として、喜べるようにしてください。昼も、眠れない夜も、思い巡らすことを教えてください。流れのほとりに私を植えてください。ひでりのない人生ではなく、暑さに耐える深い根を求めます。実を結ぶのは、私の都合の時ではなく、あなたの時にしてください。ずるい人が成功するのを見るとき、もみがらは風に吹き去られると思い出させてください。ただ一人正しい主イエスよ、恵みによって私を義としてくださり、ありがとうございます。私の道を知り、目を離さないでいてくださることを感謝します。最後まで、あなたの道に私を守ってください。アーメン。
鍵となる聖句
悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
歩く、立ち止まる、座る。下っていく三つの動詞です。この詩は、少しずつ悪の仲間に腰を据えるようになっていく坂道を描いています。
このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
幸いは義務からではなく喜びから生まれます。神のみことばを愛することです。思い巡らすとは、読み返してかみしめ、それが心を形づくるようにすることです。
このような人は流れのほとりに植えられた木の 時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
水のほとりに植わった木のたとえは、根と時間を語っています。実は季節にかなって、急がずに結ばれます。これは物質的な成功の保証ではありません。
説教が語っていること
詩篇1篇についてよくある質問
詩篇1篇はどういう意味ですか
二つの生き方を対比しています。幸いな人は神のみことばを喜びとし、実を結ぶしっかりした木のようになります。そうでない人は風に吹き飛ばされるもみがらのようです。この詩は、進む方向を選ぶよう招いています。神は正しい者の道を知っておられるのです。
詩篇1篇をどのように黙想すればよいですか
ゆっくり読み、次に2節を自分の言葉に言い換えて読み直します。木のたとえを見つめ、私の根はどこにあるだろうかと問いかけます。聖書を読む決まった時間を持つなど、具体的な決心を書き留めましょう。最後に、みことばをもっと愛せるように祈って終えます。
詩篇1篇は、聖書を読む人すべての成功を約束していますか
3節には、その人のすることはすべて栄えるとありますが、この詩は確実な公式ではなく知恵の言葉です。信仰者にも試練はあります。この詩が語っているのは、みことばに根を下ろし続ける人は枯れることがなく、神がその人に真実であられるということです。
詩篇 1を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。