はじめに
ベンジャミン・ショール(Benjamin Chor)牧師は、パリ18区にある姉妹教会の牧師で、二人の子どもの父親です。子どもたちにごみ出しを頼むと、とても創造的な返事が返ってきます。「パパ、無理だよ、ごみ袋は僕には重すぎるんだ」。お気に入りは、何も返事がないことだそうです。10分後もごみはそのままです。それでも、一度も聞いたことのない返事があります。「パパ、ぼくを行かせて」。
聖書にも、神の召しに対する同じような答えが出てきます。モーセは、ほかの人を遣わしてくださいと願いました。エレミヤは、自分はただの若者にすぎないと言いました。ヨナは答えずに反対方向へ逃げました。ある人はイエスに、まず父を葬りに行かせてくださいと願いました。そしてイザヤは言います。「ここにわたしがおります。わたしをつかわしてください」。
このメッセージは、Église Baptiste Toulouse Métropole の宣教大会、シリーズ「On t'appelle !」(あなたは招かれています)の中で語られたものです。イザヤ書6章1節から8節をもとに、説教者は三つの問いを投げかけます。だれが遣わすのか、だれが答えるのか、そして、意外なことに、だれが気の毒なのか、という問いです。
メッセージの流れ
1. 空になった王座と、はるかに高い別の王座
- この幻は「ウジヤ王の死んだ年」に見たものです。ウジヤはユダを52年間治め、その治世は安定して繁栄していました。ウジヤしか王を知らない人もいたほどです。
- 晩年、彼は高ぶって、入ってはならない神殿に入りました。警告されても聞き入れず、ついには病に打たれました。
- その死は最悪の時期に重なります。アッシリアという大国が台頭し、ユダを含む周辺の民に攻め込もうとしていたのです。
- 「王座は空になりました。それなのに、イザヤは別の、はるかに高い王座にいる方を見たのです」。
2. だれが遣わすのか。三度聖なる神
- もし礼拝の最中に入って来たら私たちが震え上がるようなセラピムでさえ、神を見ることができず、翼で顔をおおっています。
- 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」。ヘブライ語では、繰り返しは最大限の強調を表します。神は絶対的に、完全に聖なる方です。
- 8世紀後、ヨハネは同じ六つの翼を持つ者たちが、昼も夜も「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主なる全能の神、昔いまし、今いまし、のちきたるべき者」と言うのを見ます(黙示録4章8節)。神の御前では、同じ賛歌が歌われているのです。
- 「愛、愛、愛」とか「力ある、力ある、力ある」という言葉はどこにもありません。御座の間にいる者たちがまず宣言するのは神の聖さであり、その声で神殿が震えます。
- 暗闇のレストランのたとえ話(パリの話です)。暗い中で、おいしく食べているつもりで食事をしていると、明かりがついた途端、ナプキンが汚れだらけだとわかります。「神の聖さとは、イザヤを照らして『あなたは汚れている、汚れている』と告げる、あの光なのです」。
3. 神への正しい畏れを取り戻す
- 現代は、親しみやすい神、人生のコーチ、励ましてくれる友人のような神を好みます。「自分の考えで神を作り上げないよう気をつけてください。愛だけで聖さのない神。だれにでも天国を用意しているが、地獄はだれにも用意しない神です」。
- 神の聖さは、私たちが罪を軽く見ることを防ぎます。聖さを見失うと、境界線がずれていきます。「同僚の悪口を言っただけ」「結婚前の性関係はみんなしている」「本当に嘘をついたわけではない」「ちょっと恨みを持っているだけ」。
- 神を畏れるとは、暴力的な父親の前の子どもの恐怖ではありません。電気技師の畏れです。電気を扱う仕事を恐れてはいませんが、電気を十分に畏れているので、通電している剥き出しの電線には触れません。「私たちは神の聖さを弄んでいるのです」。
- 民はアッシリアを恐れていました。神は、あなたがたは恐れる相手を間違えている、と告げておられるのです。不安な世の中で、SNSが毎日悪いニュースを運んでくる中、「はるかに高い王座にいるただ一人の方を、もっと畏れるべきです」。
4. 宣教は神のみこころから始まる
- 「だれをつかわそうか」。問いかけているのは神です。イザヤが自分から名乗り出たのでも、宣教委員会がまた一つ活動を始めたのでもありません。
- 「私たちの神は遣わす神です。それは神のご性質の一部です」。宣告された裁きのただ中でも、神は救うために遣わされます。民から聖なる種族が再び生まれるのです(イザヤ書6章13節)。
- イザヤはいわば原型です。神はその御子を世に遣わされましたが、それは世をさばくためではなく、御子によってこの世が救われるためでした(ヨハネによる福音書3章17節)。そしてイエスは言われます。「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなたがたをつかわす」(ヨハネによる福音書20章21節)。父が御子を遣わし、御子が私たちを遣わすのです。
- 王も帝国も変わりましたが、神の聖さも、私たちの心にある罪も、救うために遣わそうとする神のみこころも、変わっていません。
- 「宣教は教会の選択肢の一つではなく、情熱のある一部の人のための活動でもありません。ご自分の栄光があまねく知られないことに耐えられない、聖なる神のみこころそのものです」。
5. だれが答えるのか。赦された人
- イザヤは預言者であり、民を責めることもできたはずです。しかし、彼はまず自分自身を見つめます。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者」。罪についての説教の最中に、隣の人のことを考えているような人とは違います。
- 「宣教に身を差し出すうえでの本当の妨げは、才能や意欲の不足ではなく、あなたの罪です」。そして、その妨げを神は取り除いてくださいます。
- セラピム自身も炭火に直接は触れず、火ばしで取ります。この聖なる力強い火は、天使のためではなく、一人の人間、人類のためのものなのです。セラピムはそれを、問題のあった場所、イザヤの口に当てます。イザヤは神の代弁者となる人だからです。
- 炭火は、いけにえをささげる場所である祭壇から取られました。イザヤの赦しには代価があり、それは私たちの赦しも同じです。7世紀後、ゴルゴタの十字架でささげられたイエス・キリストの究極のいけにえがそれです。
- イザヤは何も約束せず、何もせず、何も交渉しません。ただ恵みを受けるのです。問いを聞くのはそのあとで、彼は進んで名乗り出ます。
6. 契約書を読む前に署名する
- 銀行員だったころ、説教者は署名の前に契約書を読んでいました。期間、給料、ボーナスなどです。イザヤは読まずに署名します。どこへ行くのかも知らないうちに「わたしをつかわしてください」と言うのです。
- 90年代にお姉さんがラジオで大音量でかけていたセリーヌ・ディオンの歌「J'irai où tu iras」(あなたの行くところへ私も行く)は、イザヤの答えに似ています。けれども歌詞に出てくるのは、ヤシの木や浜辺、風に揺れる椰子の葉です。私たちの「ここにおります」の裏には、しばしば「わたしをつかわしてください。ただし、Wi-Fiがあって、パン屋がそう遠くないトゥールーズへ」という本音が隠れています。
- 「遣わされるかどうかが自分の関心だけで決まるなら、気をつけてください」。
- イザヤの答えは偉業ではなく、すべてを受けた人の自然な答えです。パウロも言っています。キリストの愛が私たちに強く迫っているのです(コリント人への第二の手紙5章14節)。
- 「罪責感は宣教師を生み出さず、疲れ果てた人を生み出します」。問題は意欲の不足ではなく、神の聖さを見る目の不足なのかもしれません。解決策はもっと努力することではなく、もう一度、王座と十字架を仰ぎ見ることです。
- 私たちの目は、十字架よりも携帯電話やドラマを見ています。主のおきてを喜び、昼も夜もそれを思う人は幸いです(詩篇1篇2節)。今日の一節だけでは、十字架の恵みを味わうことはできません。
7. だれが気の毒なのか。だれもいない
- 署名のあと、神は契約の内容を明かされます。厳しいメッセージ、聞いても悟らない民、そしてそれは「町々は荒れ果てるまで」続くというものでした(イザヤ書6章9節から12節)。
- 教会では、宣教師を見て「自分ではなく、あの人たちでよかった」と思うことがよくあります。説教者は、それをキリスト者の生き方についての誤った考えだと見ています。
- 「神の召しを受けることは罰ではなく、特権です」。宣教が、子どもたちにとってのごみ出しのように苦役であるなら、「わたしをつかわしてください」とは決して言えません。
- イザヤは、ほとんどの人が見ることのない神の御手を見ました。御使いがアッシリア人の陣営に下り、彼らは逃げざるをえなくなり(イザヤ書37章36節)、病気だったヒゼキヤ王は15年の寿命を加えられました(イザヤ書38章5節)。
- ベンジャミン・ショール牧師は、西アフリカで10年間奉仕しました。そこでは苦しみも経験しましたが、癒やしや、夢を通した回心、迫害の中で耐え抜く人々を見ました。「神がなさっていることを、最前列で見ていました」。
- 「最も素晴らしいのは、聖なる神に向かって『ここにわたしがおります。わたしをつかわしてください。あなたに仕えます。あなたがわたしを満たしてくださるからです』と言うことです」。
- 元銀行員の彼は、人々がイエスに立ち返る喜びを、ほかの場所では味わったことがないと言います。召しと葛藤している人にはこう語ります。「惨めな人生にはなりません。心躍る人生になります」。そして、これから宣教師になる人には、支援を得るために苦労ばかりを強調する罠に陥らないようにと言います。
要点
- 神は三度聖なる方です。その聖さは、私たちが罪を軽く見ることを防ぎ、神への正しい畏れを取り戻させてくれます。
- 宣教は教会のプログラムから始まるのではなく、救うために遣わされる神のみこころから始まります。
- 遣わされるうえでの本当の妨げは罪であり、神はいけにえによってそれを取り除かれます。イザヤにとっては祭壇のいけにえ、私たちにとっては十字架です。
- 「ここにわたしがおります。わたしをつかわしてください」は偉業ではなく、恵みを受けた人の自然な答えです。
- 神に召されることは罰ではなく特権です。神に仕えることで気の毒な人など、だれもいません。
個人への適用
- あなたの人生を支配している神のイメージはどちらですか。親しみやすいコーチですか。それとも、イザヤが見た三度聖なる神ですか。
- 「それほど悪くない」と自分に言い聞かせて、罪の境界線をずらしてしまった分野はどこですか。
- 神に「わたしをつかわしてください」と言うとき、その裏にあるのは本当の献身ですか。それとも、快適さの条件ですか。
- 十字架を見つめ、みことばを思い巡らす時間は、携帯電話に費やす時間と比べてどれくらいですか。
- 宣教師を、憐れみの目で見ていますか。それとも、特権を受けた人として見ていますか。
引用された聖書の言葉
- イザヤ書6章
- 出エジプト記4章13節
- エレミヤ書1章6節
- ヨナ書1章3節
- ルカによる福音書9章59節
- 歴代志下26章16-21節
- 黙示録4章8節
- ヨハネによる福音書3章17節
- ヨハネによる福音書20章21節
- コリント人への第二の手紙5章14節
- 詩篇1篇2節
- イザヤ書37章36節
- イザヤ書38章5節
よくある質問
イザヤ書6章の「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」はどういう意味ですか。
ヘブライ語では、繰り返しは最大限の強調を表します。神は絶対的に、完全に聖なる方です。ベンジャミン・ショール牧師は、この三重の宣言が、8世紀後のヨハネの幻(黙示録4章8節)にも出てくると指摘します。御座の間にいる者たちがまず宣言するのは神の聖さであり、神殿は震えます。
なぜイザヤは神の前で「わざわいなるかな」と言ったのですか。
神の聖さは、汚れを照らし出す光のように働きます。イザヤは、自分とその罪が神の御前に立てないことを悟ります。彼はまず民の罪ではなく、自分の罪を見つめました。説教者によれば、遣わされるうえでの本当の妨げは才能の不足ではなく罪であり、神が取り除いてくださるのはその妨げです。
神に宣教へ遣わされた人は、気の毒な人なのでしょうか。
いいえ。宣教には困難があり、イザヤの使命も厳しいものでしたが、神の召しを受けることは罰ではなく特権です。西アフリカで10年間奉仕したベンジャミン・ショール牧師は、癒やしや変えられた人生を数多く見たと証ししています。「惨めな人生にはなりません。心躍る人生になります」。