はじめに
「これは私のお金です。私の家です。私の車です。私の時間です。私の人生です。」説教者は、私たちが何気なく口にするこうした言葉から語り始めます。働いて得たお金、努力して身につけた力、与えられた命。私たちはそれらを自分のものだと考えています。説教者はそれが良いとも悪いとも言いません。別の問い、信仰の問いを投げかけます。私が持っているものは、どこから来たのでしょうか。
働くことを可能にしている健康は、誰が与えてくださったのでしょうか。能力や知恵はどこから来たのでしょうか。そして私の命そのものは、誰から受けたのでしょうか。根源までさかのぼると、本当に私たちのものといえるものは何もなく、すべては神から受けた恵みであることに気づきます。
このメッセージは、大阪オンヌリキリスト教会の早天礼拝で語られたもので、歴代誌上29章10〜19節のダビデの祈りに基づいています。説教者はここから、献身についての簡潔な定義と、主に仕えるときの心構えについて三つの真理を取り上げます。
メッセージの流れ
1. 莫大なささげ物を前にした祈り
- ダビデは神殿の建設のために、膨大な量の金、銀、資材を準備しました。ダビデだけではありません。民の指導者たちも喜んで進んでささげ、神殿に必要なものはすべて豊かにそろいました。
- 前日の箇所には数字が記されていました。金5,000タラント、1万ダリク、銀1万タラント、青銅1万8,000タラント、鉄10万タラントです(歴代誌上29:7)。数字だけではぴんとこないため、説教者は図解を用意しました。金は約170トン、銀は約340トン、青銅は約612トン、鉄は約3,400トンです。
- 10トントラックに換算すると、金は17台、銀は34台、青銅は61台、鉄は340台になります。「こうしても、まだ実感がわかないかもしれませんが、とにかく途方もない量の資材がささげられたのです。」
- この光景を前にして、ダビデは誇ることもできました。しかし彼は祈りました。献身の本質は、この祈りの中にあります。
- 「献身とは、私のものを主にささげることではありません。主が私に与えてくださったものを、喜びと感謝をもって主にお返しすることです。」このメッセージの題は、リビングライフ(聖書通読ガイド)のその日の黙想の題、「主のものを主に献げる献身」から取られています。
2. すべては主のもの
- 「主よ、大いなることと、力と、栄えと、勝利と、威光とは、あなたのものです。天にあるもの、地にあるものは、すべてあなたのものだからです」(歴代誌上29:11)。ダビデはまた、富と誉れが神から来ること、そして神がすべてを治めておられることを告白します(12節)。
- このときダビデはイスラエルの王でした。大きな権力と莫大な財産を持っていました。それでも彼は、それらを自分の手で、自分の力で手に入れたとは考えませんでした。すべては神から受けた恵みだと知っていたのです。
- 私たちはそれを忘れがちです。「健康は当たり前、生きていることも当たり前だと思っています。」仕事がうまくいくのは自分の努力のおかげ、成功するのは才能があるから、と考えます。
- 努力は大切です、と説教者は認めます。しかし、その努力そのもの、努力できる力、働く機会そのものも、まず神から来たものではないでしょうか。
- ですから、私が持っているものは自分のためだけに使うものではなく、神のみこころに従ってきちんと管理すべきものです。すべての人に等しく与えられた24時間を、あなたは何に使っていますか。神があなたに託された能力や賜物はどうでしょうか。
- 「献身の第一歩は、私が持っているものの本当の持ち主は私ではなく、神であると認めることです。」説教者は、一日をこの告白から始めるよう勧めます。「主よ、私の手にあるものはすべて、あなたが与えてくださったものです。」
3. ささげられること自体が恵み
- 説教者は、14節をこの日の中心の聖句として紹介します。「わたしは何者でしょう。わたしの民は何者でしょう。このように、喜んでささげることができるとは。すべてのものはあなたから出たもので、わたしたちはみ手から出たものを、あなたにささげたに過ぎません。」
- 集められた資材を前にして、ダビデは「見なさい、私たちがこれほどささげた」とは言いません。自分を誇りません。「私たちは何者でしょう」と問います。神にささげられること自体が恵みであることを、彼は誰よりもよく知っていました。
- 神は、私たちのささげ物がなければ働けない方でしょうか。決してそうではありません。神は天地の造り主、全能者であり、不可能なことは何もありません。それでも神は、私たちを御業に参加するよう招いてくださいます。
- 「それだけでも、大きな恵みであり祝福ではないでしょうか。」神はひとりですべてを成し遂げることができるのに、すばらしい御業に加わるよう、私たち一人ひとりを招いておられます。
- 教会で奉仕していると、「こんなに教会に仕えているのに、こんなに犠牲を払っているのに」と思うことがあります。神に仕えることがすでに恵みであることを、決して忘れてはなりません。それは当然の権利ではありません。神が私たちを恵みの中に入れ、その恵みによって仕えることができるようにしてくださったのです。
4. 影のようにはかない人生
- 15節で、ダビデは私たちの人生が影のように過ぎ去ることを告白します。「わたしたちはわたしたちの先祖たちが皆そうであったように、あなたの前には寄留者であり、また旅人です。わたしたちの世にある日は影のようで、望みはありません。」
- 私たちは皆、何も持たずにこの世に生まれてきました。いつかこの世を去るとき、すべてを地上に残していきます。
- ですから大切なのは、持っているものの量ではなく、神が与えてくださったものをどう用いるかです。
- 献身は、ささげ物や物質的な財産だけに限られるものではありません。一日の24時間、能力、賜物、経験、そして命そのもの。それらを神のみこころのために用いることが、聖書の語る献身です。
- 説教者は、一日の祈りを提案します。「主よ、私が持っているものはすべて、あなたからいただいたものです。あなたのものです。あなたの栄光のためにお用いください。」
5. 神はささげ物の大きさより心を見ておられる
- 三つ目の真理です。神が喜ばれるのは、ささげ物の大きさではなく、真実な心です。「わたしの神よ、あなたが心を試み、正直を喜ばれることを、わたしは知っています。わたしは正直な心をもって、これらすべてのものを喜んでささげました」(歴代誌上29:17)。
- ダビデと民は、義務からささげたのではありません。「そうしなければならなかったから」ではなく、自発的に、喜びと感謝をもってささげたのです。
- 神は、目に見える結果やささげた量だけを見ておられるのではありません。ささげ物の背後にある心、動機を見ておられます。
- 教会では、二人の人が同じ奉仕をすることがあります。一人は「ほかに誰もやらないから、仕方がない」と考えます。もう一人は「これが主におささげできる奉仕です。喜んで仕えましょう」と考えます。その奉仕の実が、やがて違いを表します。
- 前者の姿勢では、奉仕は次第に義務となり、やがて重荷になります。奉仕しない人をさばくようになり、喜びが消えていきます。
- 後者の姿勢では、「私のような者を神が愛し、用いてくださるとは、なんという幸いでしょう。感謝です」と思います。奉仕は同じでも、その意味はまったく違います。
6. 全き心を主に受け継ぐ
- 19節で、ダビデは息子のために祈ります。「またわたしの子ソロモンに、全き心を与えて、あなたの戒めと、あなたのあかしと、あなたの定めとを守らせ、すべてのことを行わせ、わたしが備えをしたこの宮を建てさせてください。」
- ダビデは神殿の完成だけを願ったのではありません。ソロモンが心を尽くして神に従うことを、心から願ったのです。
- 彼が次の世代に残したかった最大の遺産は、金でも銀でも、輝くものでもありませんでした。心を尽くして神を愛し、書かれたとおりに神の御言葉に従う信仰でした。
- 説教者はこの聖句を、家庭と教会に当てはめます。教会の移転計画は、まもなく具体的な段階に入ります。良い建物や設備を整えることは必要ですが、もっと大切なことがあります。そこに集う一人ひとりが、真実な心で神のみこころに従うことです。
- 私たちだけではありません。同じ心で祈りましょう。同じ思いで主に仕える子どもたちの世代が起こされるように。神が一人ひとりに求めておられるのは、まずささげ物ではなく、私たちの心そのものです。
7. すべては神の愛から始まる
- ダビデは莫大なものをささげましたが、それを自分の手柄にはしませんでした。すべてが恵みだと知っていたからです。だからこそ、「すべてはあなたのもの」と言い、喜びと感謝をもって主にお返しすることができました。
- 説教者は、一人ひとりに問いかけます。「神が与えてくださったものを、私は何のために用いているでしょうか。自分の楽しみや娯楽、自分の満足のためではないでしょうか。」
- 献身は、牧師や宣教師だけのものではありません。家で家族を愛すること、職場で誠実に働くこと、教会で忠実に仕えること。そのすべてが神への献身です。
- 決して忘れてはならないことがあります。私たちが神を愛する前に、私たちが神に献身する前に、神は私たちを愛し、イエス・キリストを与えてくださるほどに愛してくださいました。すべてはそこから始まります。
- この現実に目が開かれるとき、献身せずにはいられなくなります。私たちの献身は、主の大きな愛と恵みへの応答として始まるのです。
- 説教者は、メッセージを一文にまとめ、会衆がともに読みました。「献身とは、私のものを主にささげることではなく、主からいただいたすべてを、喜びと感謝をもって主にお返しすることです。」
心に留めたいポイント
- あなたが持っているもの、健康、時間、能力、命のすべては神から来ています。献身の第一歩は、神がその本当の持ち主であると認めることです。
- 神にささげ、神に仕えることができること自体が、すでに恵みです。神は私たちを必要とされないのに、御業に加わるよう招いてくださいます。
- 私たちの人生は影のようにはかないものです。大切なのは何を持っているかではなく、それをどう用いるかです。
- 神はささげ物の大きさより心を見ておられます。義務で行う奉仕は重くなり、感謝から生まれる奉仕は喜びを保ちます。
- 私たちの献身は、まず私たちにイエス・キリストを与えてくださった神の愛への応答です。
私生活への適用
- あなたが最も自然に「私のもの」と呼ぶのは何ですか。お金、時間、キャリア、それとも人生でしょうか。それを神からの賜物として受け取ると、何が変わるでしょうか。
- 昨日の24時間を、あなたは何に使いましたか。今週、時間、賜物、経験のうちどれだけを主にささげることができるでしょうか。
- 教会での奉仕において、あなたは「ほかに誰もやらないから」と「神が私を用いてくださる幸い」のどちらに近いでしょうか。
- 子どもたちや次の世代に、どんな遺産を残したいですか。財産でしょうか、それとも神を愛し、御言葉に従う心でしょうか。
- 今日、神の愛への応答として、家庭で、職場で、教会で、どのように神に仕えることができるでしょうか。
引用された聖句
よくある質問
ダビデは歴代誌上29章10〜19節の祈りで何と言っていますか。
民が神殿建設のために莫大なささげ物を持ってきた後も、ダビデは誇りません。主をほめたたえ、天と地にあるものはすべて主のものであること、富と誉れは主から来ること、そして民は主の手から受けたものをお返ししたに過ぎないことを告白します。
このメッセージでいう献身とは何ですか。
献身とは、私のものを主にささげることではなく、主からいただいたすべてを、喜びと感謝をもって主にお返しすることです。お金だけに限られず、時間、能力、賜物、経験、そして人生全体に及びます。家庭でも、職場でも、教会でも同じです。
なぜ神はささげ物の大きさよりも心を見られるのですか。
歴代誌上29章17節によれば、神は心を試み、正直を喜ばれます。二人の人が同じ奉仕をしても、一人は「ほかに誰もやらないから」と義務で、もう一人は「神が愛し、用いてくださるから」と喜びをもって行うことがあります。義務による奉仕は重荷になり、感謝から生まれる奉仕は喜びを保ちます。