はじめに
「私たちは祝福された夫婦です。そして、それが当たり前のことではないことも、たくさんの対話を通してよく分かっています」。退職して結婚43年になる Wilf と Christa Gasser は、スイスの Vineyard Bern でのメッセージをこのように語り始めます。二人をよく知る人にとって、テーマは意外ではありません。それは「関係」、つまり「まさに私たちの情熱」です。
メッセージのタイトルは三つの要素でできています。愛を見つけること、親しさに踏み出すこと、コミットメントを生きることです。誰もが愛され、受け入れられたい、誰かが自分を大切に思っていると知りたいと渇いています。それなのに、その渇きは独身の人にも結婚している人にも、満たされないままであることが少なくありません。
二人は、二度読み返したひとつの聖書の言葉を土台にしています。ヨハネの第一の手紙 4:19、つまり、私たちが愛するのは神が先に私たちを愛してくださったからだ、という言葉です。二人が読んでいる訳では、この節の前に次の一文が置かれています。「私たちの信頼のもっとも深い土台は、神の私たちへの愛にあります」。後半は対談形式で、親密さ、二人で祈ること、結婚における性について、とても具体的な質問に答えています。
メッセージの構成
1. 何ものにも満たされない愛への渇き
- 所属したいという願いは、心理学も含めて非常に大きなテーマです。その形は年齢とともに変わります。両親の間に寝ている幼い子どもと祖父とでは感じ方が違いますが、願いそのものはなくなりません。
- 人はこの渇きを、満たしてくれないものでなだめようとしがちです。「必要なものをすべて与えてくれるのは誰だろう。自分の最良の部分を引き出してくれる人はどこにいるのだろう」と考えます。
- 同時に、心を開くこと、ありのままの自分を見せること、自分を後回しにしなければならないこと、他の人に心を開きすぎて消耗してしまうことを恐れています。
- 私たちは技術によって世界中とつながる時代に生きていますが、それでも孤独は増え、不安や「自分は足りない」という思いも増えています。打ち明けられる人がいないために、心理的な助けを求める人も多くいます。
- 課題は、他の人が来てくれるのを待つのではなく、神との関係を出発点にして、他の人や共同体に向かって一歩を踏み出すことを学ぶことだと二人は言います。
2. 持ちつ持たれつの愛
- Martin Benz とのポッドキャストを通して、二人はひとつの違いに気づきました。二人のセミナーでは、フィリア(友情の愛)、エロス(肉体的な愛)、アガペー(神の愛)について話します。
- この見方では、エロスはまず性を指すのではなく、見返りを期待して与える愛を指します。「あなたがくれるから、くれる間は、私も与える」というものです。
- これは契約の論理です。相手が義務を果たしている間は、自分も果たさなければと感じます。二人はこれを「人間的な愛し方」、私たちにとってもっとも自然な愛し方と見ています。
- やり取りが釣り合っているうちは満足できます。しかしこの愛は、相手がどれだけ注いでくれるかに私たちを依存させます。
3. 神がまず私たちを愛してくださったから、私たちは愛する
- ヨハネの第一の手紙 4:19は、この論理をひっくり返します。私たちの信頼のもっとも深い土台は、神の私たちへの愛にあります。
- これは、人との関係のあらゆる場面で、特に試されていると感じるとき、あるいは利用されていると感じるときに、大きな課題となります。
- 私たちが愛せるのは、先に愛されたからであり、先に神に何かを差し出したからではありません。私たちの情熱や献身が始まりにあるのではありません。「始まりには、祝福してくださる神の自由な愛があり、それはいつもそこにありました」。
- この言葉はまた、夫婦においても教会においても、「私たちがともに生きる理由」だと二人は言います。
4. 親密さ:隠れなくても知られていること
- 「親密さとは、隠れなくても知られていることです」。恐れも、恥も、怒りも、もう隠さなくてよい場所で、それは生きられます。
- 二人は最近聞いた言葉を紹介します。「家とは、お腹を引っ込めなくていい場所のこと」。
- 創世記 2:25は、アダムとエバが裸であっても恥じなかったと語ります。二人にとってこの節はまず性のことではありません。ふたりは、あらゆる意味で「裸」であり、自分を見せることに何のためらいもなかったのです。
- 親しさに踏み出すには、繰り返しの決断が必要です。「必要なものが得られない、私はとても孤独で、とても傷つきやすい」という被害者の立ち位置にとどまらず、神が置いてくださった場所で毎日祝福となることを選ぶのです。これは結婚にも家庭にも必要な、日々の決断です。
- 親密さは夫婦にとどまりません。メッセージを準備する中で、二人のうちの一人は、礼拝で自分が心を開き、他の人を見て、話しかけていることに気づきました。それはすでに生きられた親しさです。
- 小グループ、分かち合う食卓、家に人を招くこと、あるいは他の家庭に招かれること。教会は、親密さを学ぶための「すばらしい訓練の場」です。
5. 性があふれているのに、親密さは貧しくなっている
- 現代社会の逆説があります。性は生きるために不可欠なもののように示される(「セックスなしでは死んでしまう」)一方で、街角でもポルノでも手に入るほど安っぽくなり、「結局のところ価値のないもの」になっています。
- 性は代わりの宗教になり、私たちが求めている親密さの身代わりのイメージになりました。
- 欧米でもアジア(シンガポールや韓国が挙げられました)でも、現実の夫婦の性生活は後退していると二人は見ています。難しすぎると判断され、親密さは映画やポルノサイトのほうが簡単に得られるように思われているのです。それは「現実とはまったく違う」代用の満足です。
- 二人にとって、性的な交わりは結婚の契約の確認であり、夫婦が交わした「はい」の確認です。そのように生きられるとき、それは「信じられないほどの力、信じられないほどの美しさ」を持ち、安く手に入るものではありません。
- 最初の情熱だけでは足りなくなったとき、お互いを絶えず新しく発見し、性よりもはるかに広い親しさを生きることが大切です。日々の中で親密さを学ぶことは、夫婦の性にも新しい次元を開きます。
6. 火を絶やさず、あらゆる領域に神を招く
- 対談の中で、長年の結婚生活の後に配偶者と距離ができてしまったらどうすればよいか、と問われたときの二人の最初の答えはこうでした。「燃えている火を保つほうが、消えた火をもう一度つけるよりずっと簡単です」。親密さは生まれつきのものではなく、学んで育てるもので、結婚の最初の年から始まります。
- セミナー、本、小グループでの分かち合いが助けになります。自分の渇きや深い苦しみを、全員にではなく数人と分かち合い、ともに神の前に持っていきましょう。
- 一緒に祈ることはとても親密な行為で、自分を弱さの中にさらすことでもあります。Wilf は、子どもが小さかった頃の三年間の葛藤を語ります。Christa は夜によく疲れていて、彼はなぜ彼女がついてこないのか分かりませんでした。彼女のほうは、彼が「すべてを祈ってしまった」ので、もう何を祈ればよいか分からなかったのです。お互いの期待について話せるようになるまで、数年かかりました。
- 長い祈りは必要ありません。初めの頃、二人は一緒に異言で歌ってみましたが、やめました。「交わりというより、ほとんどストレス」だったからです。
- 二人のセミナーの結びはいつも同じです。親密さを含め、人生のあらゆる領域に、神を「コーチとして」招くことです。具体的には、親密な時間の前に短く祈ります。「来てください、私たちとともにいてください、導いてください、お互いを見つめ合えるよう助けてください」。
- Wilf は、自分にとって性にはいつもどこか不安なところがあったと打ち明けます。妻を押しつぶしたくなかったのです。神に、お互いへの「敬意のまなざし」を願い求めたことで、二人の性に解放的な視点が与えられました。
- これは独身の人にも当てはまります。「主よ、この領域でも私を導いてください」。ポルノに苦しんでいた男性は、隣に椅子を置き、そこにイエスが座っていると思うよう勧められました。何かを正当化するためではなく、イエスが人生のあらゆる領域をともにしておられると気づくためです。どこでイエスを外に締め出しておきたいのかはすぐに分かります。そこが、誰かに話すと助けになる場所です。
7. 助けを求め、愛することを選ぶ
- 「助けが必要です」と言うのは、多くの場合、女性です。二人の最初のアドバイスは、配偶者にこう伝えることです。「何かがおかしいと感じるから、自分のために助けを求めています。お願い、一緒に来て。そうでなければ、一人で行きます」。
- 夫婦はしばしば、どちらがより助けを必要としているかで言い争いますが、それは何にもつながりません。自分から始めると、視点が変わります。「どこで自分に必要なものを受け取れるか」ではなく、「どこで自分は貢献できるか」と考えるようになります。神に愛されているからです。
- これらの問いに数分で答えるのは「ほとんど無謀」だと、二人はユーモアを交えて認めます。それでも、助けを求めること、対話を求めることには意味があります。自分の配偶者への不満を言いながら肩をたたくだけの人ではなく、状況を神の前に持っていける友人とです。
- 教会は支えを提供します。寄り添いの関係、癒しの祈り、ともに担い支える小グループです。
- 結婚43年を経て、二人が愛について学んだことは、Don Francisco の歌の歌詞に収まります。「Love is not a feeling, but an act of your will」、愛は感情ではなく、意志による決断だというのです。二人にも危機があり、何か月もお互いを理解できないこともありましたが、何度も何度も互いを選び続けてきました。
大切なポイント
- 愛されたいという渇きは誰にでもありますが、技術も代用の満足も、それを満たすことはできません。
- 人間の愛は、つい持ちつ持たれつになります。神の愛は先に来て、私たちを計算なしに愛せる者にします(ヨハネの第一の手紙 4:19)。
- 親密さとは、隠れなくても知られていることです。それは夫婦でも教会でも、日々決断されるものです。
- 結婚の契約の確認として生きられる性には、安く手に入らない力と美しさがあります。
- 愛は感情だけではなく、決断です。火をもう一度つけ直すより、保ち続けるほうがよく、人生のあらゆる領域に神を招くことが大切です。
個人への適用
- 愛され、受け入れられたいという渇きを、あなたは何で満たそうとしていますか。それは本当にあなたを満たしていますか。
- どの関係で、相手が先に動くのを待ちながら、持ちつ持たれつで動いていますか。
- どこでまだ「お腹を引っ込めて」いますか。ありのままの自分を思い切って見せられる人はいますか。
- あなたの人生のどの領域を、イエスに対して閉じておきたいと思っていますか。それを誰に話せるでしょうか。
- 火が消えるのを待つのではなく、夫婦や友情の火を保つために、今週何ができるでしょうか。
引用された聖書の言葉
よくある質問
ヨハネの第一の手紙 4:19は、私たちの愛し方に何を変えますか。
Wilf と Christa Gasser によれば、人間の愛はしばしば持ちつ持たれつで働きます。あなたが与える間は、私も与える、というものです。ヨハネの第一の手紙 4:19はこの論理をひっくり返します。私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。始まりにあるのは私たちの情熱やコミットメントではなく、神の自由な愛です。人間関係の中で利用されていると感じるときでさえ、そこから愛することができます。
Wilf と Christa Gasser によれば、親密さとは何ですか。
親密さとは、隠れなくても知られていることです。恐れも、恥も、怒りも隠さずに関係を生きることです。それは性だけに限られません。夫婦の中で生きられるだけでなく、教会の中でも、小グループでも、食卓を囲んでも、家を開くことでも生きられます。
夫婦の中で、自分だけがもっと親密さを望んでいると感じるときはどうすればよいですか。
二人は、まず自分から始めるようすすめています。配偶者に「自分のために助けを求めています、一緒に来て」と伝え、必要なら一人ででも行くことです。どちらがより助けを必要としているかで言い争うよりも、そのほうがよいというのです。また、信頼できる友人と話すこと、状況を神の前に持っていくこと、教会が提供する寄り添いに支えられることも勧めています。