はじめに
「あなたこそ、わが盾」。これは、日本の平塚バプテスト教会で、大人も子どもも一緒に神を礼拝する礼拝で語られたメッセージのタイトルです。今月、教会は教会学校と同じ箇所から御言葉を受けています。サムエル記下22章21-31節です。
教会学校の子どもたちは、ダビデの生涯をたどってきました。若い羊飼い、ゴリアテに勝った人、命をねらうサウルに追われた人、栄光を知り、やがて失敗と苦しみも味わった王。山あり谷ありの人生です。サムエル記下22章の歌は、ダビデがその生涯のすべてを振り返って歌ったものです。
説教者は二つの節に目を留めます。一つは28節で、神がへりくだる者を救い、高ぶる者を低くされるという言葉。もう一つは31節で、神が主に寄り頼むすべての人の盾であるという言葉です。前者は平和について、後者は守りについて語ります。どちらも、あなたの人生が完全な円とは程遠いときに、神がどこに立っておられるかを教えてくれます。
メッセージの流れ
1. 同じ詩篇、それぞれ違う言葉
- 物語は、登場人物や出来事を追いながら読みます。詩はそうではありません。同じ言葉を読んでも、人はそれぞれ違う言葉を心に留めます。
- 同じ礼拝で、同じ詩篇を聞いても、ある人は慰めを受け、ある人は励まされ、またある人は問いかけを受けます。
- 説教者は素朴な問いを投げかけます。この詩篇を聞いて、「今日の私のことだ」と思える言葉がありましたか。
2. シャロームは、ゆがみのない円
- 28節。「あなたはへりくだる民を救われる、しかしあなたの目は高ぶる者を見て これをひくくせられる。」説教者の心に浮かぶ言葉は、平和です。
- 旧約聖書では、平和は「シャローム」と言います。私たちは、戦争や争いがないことを思い浮かべます。しかし聖書のシャロームは、もっと豊かな意味を持っています。
- シャロームは、ゆがみのない円のようなものです。中心から見ると、縁のどこまでも同じ距離にあります。ひとりだけ上にいる人も、ひとりだけ下にいる人もいません。ある人が大切にされる一方で、別の人が忘れられることもありません。
- 「神が望まれる世界は、くぼみも出っ張りもない世界です。」
3. 世界と私たちの心のゆがみ
- 現実はそれほど単純ではありません。列に並ぶときには、年齢や肩書きは関係ありません。けれども外に出ると、私たちはすぐに、大切な人とそうでない人との間に線を引いてしまいます。
- 持つ者と何も持たない者、力のある者とない者、声を上げられる者と上げられない者、先に通される者といつも後回しにされる者がいます。これはシャロームではありません。
- こうしたゆがみは、私たちのすぐ近くにもあります。家庭でも、職場でも、学校でも、地域でも、わきに置かれている人がいます。
- それは私たちの心の中にもあります。家族に理解されないこと、長引く病気、だれにも話せないこと。私たち自身の人生も、完全な円ではありません。人と比べ、落ち込み、あるいは自分のほうが上だと思います。自分には価値がないと思い、あるいは自分だけが正しいと思います。
- 世界にも、私たち一人ひとりの中にも、えぐられた場所、傷ついた場所、思い出したくないことがあります。ダビデもそうでした。
4. 神はゆがみの底に立っておられる
- 王になっても、ダビデの人生が平らになったわけではありません。大きな成功も、大きな失敗も経験しました。だからこそ彼は、神がゆがみをそのままにはされないことを知っていました。
- 神は、すでに低い所にいる人をさらに低くはされません。傷ついている人をさらに傷つけることもされません。苦しむ人のそばに座り、その人を起こそうとされます。高ぶる人には、自分の高ぶりに気づかせてくださいます。こうして、ゆがんだ世界を少しずつ本来の形、完全な円へと戻していかれます。
- 「平和とは、何事も起こらない静かな状態のことではありません。平和とは、泣いている人を見て見ぬふりをしない世界です。」シャロームとは、世界の傷をいやし、ゆがみを正し、関係を回復させる、神のダイナミックな働きです。
- 礼拝で示された図では、くぼみのいちばん深い所に十字架が立っていました。神は上から命令されるのではなく、下から来てくださいます。
- イエスは宮殿ではなく、飼い葉おけの中に寝かされてお生まれになりました(ルカ2:7)。権力を握る道を選ばれたのではありません。苦しむ人々のただ中に入り、最後には十字架につけられました。神は、いちばん深い苦しみの中に自ら立たれたからこそ、それをご存じなのです。
- ですから、神を求めるのに、上ばかりを見上げる必要はありません。私たちは強く見せたがり、失敗していないかのように、傷ついていないかのようにふるまいます。大丈夫ではないのに「大丈夫です」。「何ともありません、平気です」。私たちは無理をしています。神の光は、私たちが強い所には入りません。弱く傷ついている所、助けが必要なのにだれにも言えない所に入ってきます。
- あなたは弱さを隠さなくてかまいません。安心して神の前でそれを認めることができます。その弱さの中でこそ、神の力が働くからです。
5. あなたのため、そして隣人のための盾
- 31節。主は「すべて彼に寄り頼む者の盾である」。
- 弱さを認めたとしても、傷つくことは怖いものです。拒まれることも怖く、失敗も怖いものです。だから私たちは身を守ろうとします。壁を築き、鎧をまとい、強そうに見せようとします。
- 聖書は「勇敢になれ、強くなれ」とは言っていません。神が私たちの盾となってくださる、と言っています。聖書は神をしばしば盾にたとえます。盾は、飛んでくる矢や、振り下ろされる剣から守ってくれます。
- 古代の盾には、もう一つの役割がありました。兵士たちは横一列に並んで立ちました。盾の半分は、隣の人を守っていました。盾が一つだけではすきまができますが、盾を寄せ合えば大きな守りになります。ひとりでは守れないものも、共にいれば守られるのです。
- 説教者は、そこに教会の姿を見ます。盾の半分は自分のため、もう半分は隣人のためです。「教会は、完全な人の集まりではありません。教会は、互いに盾になろうとする人の集まりです。」それは、教会の外にいる人にとってもそうです。
- 神は私たちを守り、そして私たちもまただれかを守るよう招いておられます。傷ついている人、ひとりぼっちの人、はじき出された人です。声を上げられない人のそばに立ち、外にいる人を招き入れる。それもシャロームの働きです。
- 神は「私だけの」盾ではありません。この節は「すべて彼に寄り頼む者」と言っています。国籍も、性別も、過去の失敗も、キリスト者かそうでないかも、信仰が強いか弱いかも、これを変えることはありません。
6. ダビデが人生の終わりに悟ったこと
- ダビデは、人生の終わりが近づいたときにこの歌を歌いました。若いころには分からなかったことを、年月とともに悟ったのです。守られていたことに、後になって気づいたのでしょう。
- 彼の人生には山も谷も、勝利も失敗もありました。振り返ってみて、どんなときも神が自分の盾であったことを知りました。
- 私たちにも、矢は飛び続けます。老い、病、不安、失敗。困難は消えず、悲しみも消えません。「しかし、大切なことが一つあります。私たちには盾があるのです。」この盾がそこにあることが私たちを強め、希望となります。
- あなたには、恐れていい、弱さを認めていい、助けを求めていい権利があります。神は下におられるからです。そして、安心してだれかを守るために一歩を踏み出すこともできます。盾はあなたひとりのためのものではないからです。
- 「聖書は、もっと強くなれとは命じていません。あなたには盾がある、と言っています。」神は弱さの中にいる人と共におられ、その人を起こし、守り、すべての人をシャロームへと導かれます。神を盾とし、またそのだれかの盾となって、シャロームへと歩んでください。あなたはひとりで歩むのではありません。
- 黙想と祈りの時間の後、教会は「鹿のように」を歌います。説教者にとって、この有名な歌は、その日の御言葉そのものです。「あなたこそ我が盾、あなたこそ我が力、あなたこそ我が望み。我は主を仰ぐ。」
覚えておきたいこと
- シャロームとは争いがないことではなく、だれも忘れられない世界であり、ゆがんだものを正される神の働きです。
- 神は上から命令されるのではありません。私たちのくぼみの底、十字架が立つ所に立っておられます。
- 弱さを隠さなくてかまいません。神の光は、あなたが傷ついている所に入ってきます。
- 神は、主に寄り頼むすべての人の盾です。そしてあなたの盾の半分は、隣人のためにあります。
- 試練は消えませんが、あなたには盾があります。そして、あなたはひとりで歩むのではありません。
個人への適用
- サムエル記下22章21-31節のどの言葉が、今日の「私のことだ」と思わせますか。
- 今、あなたの人生のくぼみはどこにありますか。だれにも話していない、傷ついた場所はどこですか。
- 本当は違うのに「大丈夫です」と言ってしまうのは、どんな場面ですか。神の前で弱さを認めたら、何が変わるでしょうか。
- あなたの周りで、わきに置かれている人、声を上げられない人はだれですか。今週、その人の盾になるには、どうすればよいでしょうか。
- ダビデのように振り返ってみると、神があなたを守ってくださったと今では分かるのは、どんなときですか。
引用された聖句
よくある質問
聖書の「シャローム」という言葉は何を意味しますか。
旧約聖書では、平和は「シャローム」と言います。それは、戦争や争いがないことだけではありません。説教者はそれを、ゆがみのない円にたとえます。中心から見ると、縁のどこまでも同じ距離にあります。ひとりだけ上にいる人も、ひとりだけ下にいる人もおらず、だれも忘れられません。シャロームはまた、傷をいやし、ゆがみを正し、関係を回復させる神の働きでもあります。
サムエル記下22章で、神はなぜ盾と呼ばれているのですか。
31節で、主は主に寄り頼むすべての人の盾です。盾は、矢や剣の一撃から守ります。古代の兵士たちは横一列に並び、それぞれの盾の半分が隣の人をおおっていました。神は私たちを守り、そして私たちもまた、他の人の盾となるよう招かれています。
神に守られるには、強くなければなりませんか。
いいえ。聖書は、もっと強くなれと命じてはいません。あなたには盾がある、と語っています。神の光は、私たちの弱く傷ついた所、助けが必要な所に入ってきます。神の前で弱さを認め、助けを求め、恐れてかまいません。神は低い所に立って、あなたを起こしてくださるからです。
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