はじめに
マルコ15章21-41節でジェイソン・プロコピオは、十字架のふもとへ私たちを連れて行き、あの日群衆が見えなかったものを見せてくれます。イエスは敗北しているのではなく、王として即位されているのです。十字架刑とは、敗北に見える形をとった究極の勝利の物語です。午前9時、正午、午後3時。この三つの瞬間は、王の真の姿、その犠牲の深さ、そしてすべての人に開かれた神への道を明らかにします。
メッセージの構成
1. 午前9時:王が王座に着く(マルコ15.21-32)
- シモン・キレネ人は無理やり十字架をゴルゴタ、すなわち「されこうべの場所」まで運ばされます。イエスは没薬を混ぜたぶどう酒(天然の麻酔剤)を拒みます。なぜなら14章で、御国で新しく飲むまでもうぶどう酒を飲まないと語っていたからです。
- 兵士たちはくじを引いてイエスの衣を分け合います。詩篇22篇19節の直接的な反響です。「ユダヤ人の王」という罪状書きと、二人の強盗の間で十字架につけられたことは、イザヤ書53章「彼は罪人の一人に数えられた」を成就しています。
- 群衆は挑発します。「自分を救ってみろ、十字架から降りてみろ」と。これはまさにイエスができたことであり、まさにイエスがしなかったことです。十字架は、最も楽な道が必ずしも最善の道ではないという嘘を暴きます。
- 自分を救うことを拒んだこと、それこそが私たちを救うのです。イエスの見かけ上の弱さは、実は真の力の現れです。王はいのちを与えることによって統治するのです。
2. 正午:天は泣き、天は裁く(マルコ15.33)
- 正午から午後3時まで、全地は闇に覆われます。これは日食ではありません(過越の祭りは満月に行われるからです)。旧約聖書が予告していた超自然的な出来事なのです。
- アモス書8章9-10節は、神が「真昼に太陽を沈ませ」、祭りを喪に変える日を告げています。出エジプト記10章は、闇をエジプトへの裁きのしるしとして示しています。マルコは喪と裁き、この二つのテーマを一つに合わせています。
- 十字架の上で、イエスは過去・現在・未来にわたる御自分の民すべての罪を担っています。この三時間、イエスは肉体的な苦痛だけでなく、私たちの罪に対して注がれる神の怒りをも耐え忍んでいます。
- 私たちがキリストに信頼を置いているなら、審判の日に自分の罪のために罪に定められることはありません。なぜなら、私たちが受けるべきであった罪の宣告は、この闇の三時間の間にイエスの上に下ったからです。闇の中で、キリストはその王座に着いておられます。
3. 午後3時:決定的な勝利(マルコ15.34-41)
- 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」、詩篇22篇2節を引用します。イエスは自分が実際に感じていること、すなわち見捨てられた思い、沈黙、神の不在を口にします。それと同時に、この絶望が偶然ではないことを示しています。無実の者が苦しみ、御自分の民のためにその見捨てられる状態に入っていくのです。これは最初からの計画でした。
- イエスが息を引き取った瞬間、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けます。これはイエスを拒んだ神殿制度に対する裁きのしるしであり、同時に神への道が今や開かれたことのしるしでもあります。神が住まわれる至聖所は、今や全世界に開かれたのです。
- 裂けた幕は、正しい人や律法を守っている人への招待ではありません。それは、罪ある者、疲れた者、恥じている者、支離滅裂な者への招待なのです。
- ローマの百人隊長、すなわち力強さを賛美するよう訓練された異邦人が告白します。「まことに、この人は神の子であった」と。マルコの福音書の中で、イエスを神の子と告白する最初の人間は、異邦人の処刑執行人だったのです。神がこの人の目を開かれたのなら、私たちの人生において手の届かない人など誰もいません。
- 遠くから見守っていた女性たち、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメ、は、十二弟子が逃げ去った時も残っていました。彼女たちは、十字架と埋葬と復活をつなぐ重要な証人となります。彼女たちは、真の弟子とは、主の栄光が隠されている時でさえ、主のそばに留まる者であることを私たちに示しています。
心に留めておきたいポイント
- 十字架はイエスの敗北ではなく、その戴冠です。イエスはいのちを与えることによって統治し、自分を救うことを拒んだこと、それこそが私たちを救うのです。
- 受苦日の闇の中で、神は最も強く臨在しておられました。神はしばしば、最も沈黙しているように見える時に、最も活動しておられるのです。
- もしあなたがキリストにあるなら、あなたが受けるべきであった罪の宣告は、この闇の三時間の間にイエスの上に下りました。あなたは二度裁かれることはありません。
- 幕は裂かれました。神への道は、律法を守っている人のためではなく、罪ある者、疲れた者、恥じている者、支離滅裂な者で、御もとに来る人々のために開かれています。
- クリスチャン生活はほとんど栄光に満ちて見えることがありません。しかし十字架もそうでした。あなたが日常の忠実さの中で主のそばに留まっているなら、あなたはまさにいるべき場所にいるのです。
個人への適用
- 今日、どんな試練に直面して、「自分を救ってみろ、十字架から降りてみろ」という声を聞いていますか。コストのかかる従順を避けるために、どんな近道をしたい誘惑にかられていますか。
- まだ神に持って行けずにいる罪はありませんか。まるで神に近づくにふさわしくならなければならないかのように感じていませんか。裂けた幕は、今朝、あなたが神のもとに来る仕方をどのように変えますか。
- 今、神が不在で沈黙しているように感じられる闇の季節を生きていますか。十字架は、神が最も沈黙しているように見える時に最も活動しておられることを、あなたにどう思い起こさせますか。
- あなたの人生で、あなたが祈っていて、手の届かないように思える人は誰ですか。ローマの百人隊長の回心は、その人のための祈りについて何を語っていますか。
- 今、あなたの忠実さがあまり印象的でない、あるいは無意味に思える場面はどこですか。十字架のふもとにいた女性たちの模範は、あなたをどのように方向づけ直しますか。
引用聖句
- マルコ15.21-41(主要テキスト)
- 詩篇22篇(迫害される無実の者)
- イザヤ書53章(苦難のしもべ)
- アモス書8.9-10(真昼に沈む太陽)
- 出エジプト記10章(裁きとしての闇)
- 詩篇69.22(渇きのための酢)
- マルコ14章(もう飲まないと言ったぶどう酒)
よくある質問
なぜイエスは十字架刑の前に差し出された没薬を混ぜたぶどう酒を拒んだのですか。
没薬を混ぜたぶどう酒は、処刑の苦痛を和らげるための天然の麻酔剤でした。イエスがこれを拒んだのには二つの理由があります。第一に、麻酔なしで十字架を完全に生き抜き、明晰な意識のまま御自分の民の罪を担いたかったからです。第二に、14章で、御国で新しく飲むまでもうぶどう酒を飲まないと語っていたからです。イエスの節制は禁欲主義ではなく、御自分の言葉と使命への忠実さなのです。
イエスが息を引き取った瞬間に神殿の幕が裂けたことは何を意味していますか。
幕は聖所と至聖所を隔てるものでした。至聖所には神の臨在が宿り、年に一度、大祭司だけが入ることを許されていました。イエスが息を引き取ったまさにその瞬間に、幕が上から下まで裂けたことには二つのメッセージがあります。それは、メシアを拒んだ神殿制度に対する裁きであり、また神への道が今や全世界に開かれたという宣言でもあります。その死によって、イエスは御もとに来るすべての人、罪ある者、疲れた者、恥じている者も含めて、のために、神の臨在への入り口を開いてくださったのです。
なぜイエスは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫んだのですか。
この叫びには二つの次元があります。まず人間的な次元では、イエスは自分が実際に感じていること、すなわち見捨てられた思い、沈黙、神の不在という真実を語っています。イエスは私たちの経験の中に入り、私たちに代わって私たちの祈りを祈っておられるのです。次に預言的な次元では、詩篇22篇2節からの直接の引用であり、迫害される無実の者の嘆きそのものです。イエスは、この絶望が偶然ではなく、計画の成就であることを示しています。無実の者が苦しみ、御自分の民のためにその見捨てられる状態に入っていくのです。あなたが見捨てられたと感じる時に感じることを、イエスは経験されました、しかも、あなたに代わって経験されたのです。
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