聖書 — 口語訳 (1955)
詩篇 22
概要
詩篇22篇は、イエスが十字架の上で口にされた叫びから始まります。わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。ダビデはここで、あざけられ、敵に囲まれ、衰え果てた人を描きながら、それでも先祖たちに対する神の真実を思い起こします。22節で祈りは公の賛美へと変わり、詩篇はすべての国々へと開かれます。新約聖書は、そこにキリストの受難のこだまを見ています。あざけりや、くじ引きにされた衣などです。
表題によると、詩篇22篇はダビデの詩で、「あけぼのの雌鹿」の調べで歌われました。これはおそらく旋律の名前です。表題は状況を何も記していません。ダビデがどの出来事を思っているのかは分からず、描かれる苦しみは、知られている彼の生涯を超えているようにも見えます。この詩篇は、嘆きが賛美に変わる祈りです。1節から21節までの叫びは、会衆の中での感謝となり、やがてすべての国々が神に向かうという幻へと広がります。福音書は十字架の記事の中で何度もこの詩篇に触れており、イエスはその最初の節を叫ばれました。ヘブライ語聖書や、それに従う多くの聖書(フランス語訳など)では、表題が1つの節に数えられ、番号が1つずれます。衣を分ける場面は、このページでは18節ですが、そこでは19節です。口語訳ではこのページと同じ番号です。今日、クリスチャンはこの詩篇を受難週に読み返し、神が黙っておられるように思える夜にも読み返します。
この章の4つの区分
1わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
2わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。
3しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる あなたは聖なるおかたです。
4われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。
5彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。
6しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。
7すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
8「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。
9しかし、あなたはわたしを生れさせ、母のふところにわたしを安らかに守られた方です。
10わたしは生れた時から、あなたにゆだねられました。母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました。
11わたしを遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです。
12多くの雄牛はわたしを取り巻き、バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、
13かき裂き、ほえたけるししのように、わたしにむかって口を開く。
14わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。
15わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。
16まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。
17わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。
18彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。
19しかし主よ、遠く離れないでください。わが力よ、速く来てわたしをお助けください。
20わたしの魂をつるぎから、わたしのいのちを犬の力から助け出してください。
21わたしをししの口から、苦しむわが魂を野牛の角から救い出してください。
22わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。
23主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。
24主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。
25大いなる会衆の中で、わたしのさんびはあなたから出るのです。わたしは主を恐れる者の前で、わたしの誓いを果します。
26貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。
27地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝むでしょう。
28国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます。
29地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。
30子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、
31主がなされたその救を 後に生れる民にのべ伝えるでしょう。
詩篇22篇を節ごとに読む
1-2節わが神、なぜお見捨てになったのですか:答えのない叫び
詩篇は、聖書で最も飾らない叫びで始まります。「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」ダビデは神がいないとは言わず、神に語りかけています。「わが神」を二度呼び、神を頼りにしているからこそ、その沈黙が痛むのです。昼も夜も叫びますが、答えも安らぎもありません。約千年後、十字架の上でイエスはこの言葉をアラム語で叫ばれました。エリ、エリ、レマ、サバクタニ(マタイによる福音書27章46節、マルコによる福音書15章34節)。その理解は一つではありません。罪人が受けるべき見捨てられを、イエスが実際に負われたと見る人も、冒頭を引くことでその後の救いまで思い起こさせたと見る人もいて、二つの読み方はしばしば重なります。この叫びは、あなたにも同じ言葉を口にしてよいと教えてくれます。神が分からなくなったと正直に言いながら、「わが神」と呼び続けてよいのです。
3-5節それでもあなたは聖なる方:先祖たちの記憶
嘆きの真ん中で、一つの言葉が向きを変えます。「あなたは聖なるおかたです」。ダビデは感じていることを否定せず、神について知っていることと向き合わせます。神はイスラエルのさんびの上に座しておられます。民の歌が御座となっているかのようです。そしてダビデは思い出します。先祖たちはあなたに信頼し、呼ばわって救われ、恥をうけなかったのです。歴史の中での神の真実は、今の経験が暗いときの支えになります。まだ答えではありませんが、確かなつかまり所です。何も感じられないとき、あなたより前に神が他の人々にしてくださったこと、そして十字架であなたのためにしてくださったことに、寄りかかることができます。
6-8節虫であって人ではない:あざけられる正しい者
対比は鮮烈です。先祖たちは助けられました。「しかし、わたしは虫であって、人ではない。」ダビデは、押しつぶされ、さげすまれ、無に等しい者になったと感じています。彼を見る者はくちびるを突き出し、頭を振り動かして、あざ笑います。主に身をゆだねたのなら、主に助けさせよ、主が喜ばれるのなら、主に救わせよ、と。あざけりは信仰そのものに向けられています。マタイによる福音書は、十字架のもとでほぼ同じしぐさと言葉を記しています。通りかかる者は頭を振り、指導者たちは、神に頼ったのなら神が助けるがよい、と言いました(27章39〜43節)。気づかないまま、あざける者たちは詩篇の言葉をなぞっていたのです。あなたの信仰があざけられるとき、イエスもその侮りを知っておられ、ののしりにののしりで返されなかったことを思い出してください。
9-11節生まれたときから、あなたはわたしの神
彼を愛しているなら助けるがよい、とあざける者たちに、ダビデは自分の歩みで答えます。自分を生まれさせ、母のふところで幼い自分を安らかに守られたのは、神でした。「母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました。」神との関わりは昨日今日のものではなく、記憶よりも古いのです。だから11節の祈りが出てきます。悩みが近づき、助ける者がいないとき、遠く離れないでください。孤独を感じるとき、あなたもこの祈りを自分のものにできます。あなたの人生は神のまなざしの下で始まり、神を感じられなかった時間も含めて、神は今までずっとあなたを離されませんでした。
12-15節囲まれ、力を失い、ちりにまで至る
ダビデは敵を獣にたとえます。多くの雄牛、強い群れで名高いバシャンの雄牛、そして、かき裂き、ほえたけるしし。続いて、力を失っていく自分の体を描きます。水のように注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心臓はろうのように溶けます。力は陶器の破片のようにかわき、舌はあごにつきます。そして最後まで言い切ります。「あなたはわたしを死のちりに伏させられる」。死にゆく人の言葉です。多くのクリスチャンは、そこに十字架につけられた人の衰弱を見て、かわいた舌を、イエスが「渇く」と言われたこと(ヨハネによる福音書19章28節)と重ねます。ただし、福音書はこの節そのものは引いていません。詩篇は体の苦しみを何も隠さず、神はそれを恥とされません。
16-18節刺し貫かれた手と足、くじ引きにされた衣
敵は犬となり、悪を行う者の群れがうろつきます。そして16節に来ます。「わたしの手と足を刺し貫いた」。ここのヘブライ語は議論されています。伝統的なヘブライ語本文は、獅子のように、わたしの手と足を、とも読めますが、古代のギリシャ語訳とユダの荒野で見つかった写本は、刺し貫くという意味を支持しています。クリスチャンはよくそこに十字架刑を見ますが、新約聖書はこの節を引いていないため、一つの語にすべてを懸けないほうがよいでしょう。この人は、骨を数えられるほどやせ細り、人々の目にさらされます。18節は明確に引かれています。兵士たちがイエスの衣を分け、縫い目のない下着をくじで引き、ヨハネは聖書が成就するためだったと記します(ヨハネによる福音書19章23〜24節、マタイによる福音書27章35節も参照)。処刑される人には、もう何も残っていません。それでも、神に見落とされるものは何もありません。
19-21節遠く離れないでください:叫びが信頼に変わる
苦しみを描いたあと、ダビデは直接の祈りに戻り、11節の言葉をもう一度言います。遠く離れないでください。力のない彼が、神を「わが力よ」と呼びます。つるぎ、犬、ししの口、野牛の角から守ってほしいと願います。先ほどと同じ脅威が、今度は祈りの中で名指されます。ヘブライ語の21節は短い一語で終わります。あなたは答えてくださった、と訳す聖書がいくつもありますが、口語訳は別の読み方をしています。そう読むなら、ここが詩篇の転換点です。外では何も変わっていませんが、ダビデは聞かれたと知っています。冒頭の叫びが、ここで答えを受けます。イエスにとって、父の答えは復活の朝に来ました。あなたにとっても、正直な祈りは、たとえ絶望の中にあっても、神から遠ざかる道ではなく、神へ向かう道です。
22-26節あなたのみ名を告げる:会衆の中の賛美
調子が完全に変わります。「わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ」。一人で叫んでいた人が、会衆の中で、神がしてくださったことを語ります。ヘブル人への手紙は、この節をイエスの口に置き、イエスが救われる者たちを兄弟と呼ぶことを恥とされないと述べます(2章11〜12節)。24節は賛美の理由を示します。神は苦しむ者の苦しみを軽んじず、いとわず、その人にみ顔を隠さず、叫ぶときに聞かれたのです。ダビデが見捨てられたと感じたことは、最後の言葉ではありませんでした。彼は主を恐れる者の前で誓いを果たし、貧しい者は食べて満ち足りることができます。多くのクリスチャンは、そこに、イエスがすべての人に開かれる食卓のたとえを見ます。あなたの痛みも、神に軽んじられてはいません。
27-31節すべての国々と、後に生まれる世代
詩篇の結びは、ダビデをはるかに超えて広がります。地のはての者はみな思い出して主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝みます。国は主のものだからです。力ある者も、ちりに下る者も、ひざまずきます。やがて視線は後の世代に向かいます。人々は主のことを来たるべき代まで語り伝え、まだ生まれていない民に、主のなされた救いを告げます。見捨てられた一人の人で始まった詩篇が、神のなされたことを世界中が知る場面で終わります。ヘブライ語の最後の言葉は、それをなされた、という短い一語です。ここに、イエスが十字架の上で最後に語られた、すべてが終わった、という言葉を重ねる人もいますが(ヨハネによる福音書19章30節)、福音書自身が結びつけているわけではありません。ただ、国々に告げ知らされ、今日あなたにまで届いた福音は、この詩篇の続きだと言うことができます。
詩篇22篇の祈り方
この詩篇を祈るとき
- 神が黙っておられるように感じ、祈りに答えがないと思えるとき。
- 夜、苦しみのために安らぎを得られないとき。
- 信仰をあざけられたり、そのせいで見下されていると感じたりするとき。
- 病気や痛みに疲れ果てたとき、本当の思いを神に打ち明けるために。
- 受難週に、十字架のイエスの苦しみを思い巡らすために。
- 救い出されたあと、神があなたにしてくださったことを人に語るために。
詩篇22篇に基づく祈り
わが神、わが神。あなたが分からなくなる日があります。昼に叫んでも答えがないように思え、夜も安らぎを得られません。あなたはまだ私の神ですから、率直に申し上げます。しかしあなたは聖なる方です。私より前に、あなたに信頼した人々を救い出してくださいました。母の胎にいたときから、あなたは私の神でした。悩みが近づいている今、遠く離れないでください。私を取り囲むもの、力を奪うもの、信仰をあざけるものを、あなたはご覧になっています。主イエスよ、あなたは十字架でこの言葉を叫び、私のためにあざけられ、衣をはがれ、刺し貫かれました。私の通る道を、あなたはご存じです。わが力よ、速く来て私をお助けください。あなたは苦しむ者の苦しみを軽んじず、叫ぶときに聞いてくださると信じます。いつか私は、あなたのみ名を兄弟たちに告げ、あなたのなさったことを語ります。その日まで、あなたにつながり続けます。アーメン。
鍵となる聖句
わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
ダビデは見捨てられたという思いを隠さずに表します。イエスが十字架の上でこの言葉を口にされたことで、御自身の苦しみがこの詩篇と結びつきます。
すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
ここに描かれるあざけり、頭を振ること、ののしりは、十字架のまわりで伝えられるものに近いものです。福音書は、そこにこだまを見ています。
主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。
詩篇の転換点です。神は苦しむ者の悩みを軽んじず、その叫びを聞いてくださいます。祈りは空しく消えたのではありませんでした。
説教が語っていること
詩篇22篇についてよくある質問
詩篇22篇はどんな意味ですか
詩篇22篇は、賛美で終わる苦難の祈りです。ダビデは見捨てられ、あざけられ、取り囲まれたと感じますが、神がいつも先祖たちを救い出されたことを思い起こします。22節から、祈りは公の賛美の約束となり、詩篇は、すべての国々が主に立ち返ると告げます。
なぜイエスは十字架の上で詩篇22篇を引用したのですか
イエスは十字架の上で、この詩篇の最初の節を口にされました。クリスチャンにとっては、ダビデが描いた正しい者の苦しみと御自身を重ね、詩篇はそれに続く救いをも告げています。衣を分けられたことなど、福音書のいくつかの詳細が、この箇所を思い起こさせます。
詩篇22篇は誰が、いつ書いたのですか
表題はダビデの作とし、あけぼのの雌鹿という旋律を挙げています。特定の出来事は記されていません。この文章は、ダビデの生涯で知られている出来事を超えた極度の苦しみを描いており、クリスチャンがそこにキリストの受難の預言も見る理由になっています。
詩篇22篇はどのように祈り、黙想すればよいですか
見捨てられたと感じるとき、前半を使って、自分を抑えずに感じていることを神に伝えましょう。次に24節とそれ以降を読み、神が聞いてくださることを思い出します。最後は賛美で結んでください。この詩篇は、神に嘆いても、神に結ばれたままでいられることを教えています。
詩篇 22を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。