はじめに
このメッセージは、まず長崎で語られました。東京キリストの教会の説教者は、帰ってきてから神さまに教えられたことを加え、「東京バージョン」として自分の教会に届けています。長崎へ行く前から、説教者は長崎のキリスト者たちの歴史を調べていました。現地で、ひとつの詩篇が与えられました。それが詩篇13篇です。
詩篇13篇は、「いつまで」と主に問いかける叫びで始まります。ダビデは嘆きから始まり、賛美で終わります。「わたしは主に向かって歌います」。メッセージのテーマはここにあります。嘆きから賛美へと変えられていく信仰です。
それを示すために、説教者は詩篇を長崎の二つの物語と重ねます。約250年間信仰を守り抜いた潜伏キリシタンの物語と、原爆を生き抜いた片岡ツヨさんの物語です。そこに、説教者自身の証しが加わります。
メッセージの流れ
1. 嘆きから賛美へ向かう詩篇
- 詩篇13篇は、「いつまで」という叫びで始まり、「主はわたしを豊かにあしらわれた」という賛美で終わります。詩篇には、このように嘆きから始まり賛美へ向かうものがたくさんあります。
- いちばん有名なのは詩篇22篇です。イエスが十字架の上で、その冒頭の言葉を口にされました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。
- ダビデ、そして迫害や困難の歴史の中にいた多くの信仰者たちは、嘆きが賛美へと変えられていくこの信仰を生きました。説教者は、この信仰を教会の皆さんと一緒に学びたいと願っています。
2. 神に嘆きの祈りを持っていく
- ダビデがどのような状況でこの詩篇を書いたのか、正確にはわかりません。けれども彼は、神さまとの関係が遠く感じられることを、正直に表現しています。
- たった2節の中で、4回も「いつまで」と叫んでいます。いつまで私を忘れているのか、いつまで御顔を隠しているのか、いつまで私の魂は思い煩うのか、いつまで敵は私に向かって誇るのか。
- ダビデは「神さま、あなたはいない」とは言いません。「神さま、あなたはそこにおられる。それなのに、なぜ答えてくださらないのですか」と言っているのです。これは信仰者の嘆き、嘆きの祈りです。
- 「皆さんも、きっとこのように祈ったことがあるでしょう。私もそうです」。
3. 長崎、250年の隠れた信仰
- 1549年、フランシスコ・ザビエルが日本に来て、キリスト教が根づきました。長崎にも多くの信仰者がいました。信長はキリスト教を受け入れましたが、その後、秀吉と徳川がこれを禁じました。1614年に徳川の禁教令が出され、信仰を告白すれば、逮捕、拷問、棄教の強要(踏み絵、つまり踏まなければならない聖なる像)、そして時には処刑の危険がありました。
- 初日、説教者は日本二十六聖人記念館を訪れました。秀吉の時代に大阪で捕らえられた宣教師と信徒たちが、見せしめのために大阪から長崎まで歩かされ、西坂の丘で十字架にかけられて殉教した場所です。26人の中には10代の子どももいました。当時の迫害の強さと、その中でも信仰を保った人たちの力強さに、心を打たれたと言います。
- 潜伏キリシタンは、表向きは仏教徒や神道の信者として暮らしていました。家庭や共同体の中で隠れながら、約250年間、世代から世代へと信仰を受け継いでいきました。
- 礼拝がない。集まることが許されない。自由に賛美できない。司祭も霊的な指導者もいない。聖書を自由に読むこともできない。「私はクリスチャンです」と言うことさえできない。見つかれば死の危険がある。目に見えない神さまを、目に見えるものが何もない中で信じなければなりませんでした。
- ここからは自分の想像ですが、と断ったうえで、説教者は、日本の信仰者たちが詩篇13篇のように祈ったのではないかと思いをめぐらせます。「いつまでですか。神さまは私たちを忘れてしまわれたのですか」。
- 彼らの信仰を支えたのは、禁教の間、口伝えで受け継がれたオラショ(祈り)でした。250年の間に、すべての言葉の意味が失われていたかもしれません。それでも彼らは祈り続けました。「その祈りの中で、神さまが彼らの信仰を支えてくださったと私は信じます」。
- 説教者は、自分が問われていると感じています。状況が悪くなったり、祈りがすぐに叶えられなかったりしたとき、神さまに対して壁を作ってきたからです。心を守りながら祈り、心からの嘆きの祈りをしませんでした。叶わなかったとき、もっと傷つくからです。どこか半分だけ信じ、リスクを取らない生き方を選んでしまったことがありました。
- 「私たちが今、聖書を読み、信仰を公に告白し、自由に神さまを賛美できているのは」、どのような状況でも、心からの嘆きを絞り出しながら「いつまで」と叫び、人ではなく神さまに頼りすがった信仰者たちが、福音を決して手放さずに伝え続けてくれた結果です。私たちは、その歴史と証人たちの上に立っています。
4. 「わたしの目を明らかにしてください」
- 口語訳の詩篇13:3です。「わたしの目を明らかにしてください」。説教者は、この表現がとても好きだと言います。
- 日本語でも「目に光がある」と言います。ヘブライ語では、この表現は目に光を返すこと、つまり生きる力を取り戻させることを意味します。
- 祈りはこうなります。「神さま、もう一度、生きる力を与えてください」。困難の中で、その力を自分でつかみ取るのではなく、生きる意味と力を神さまから受け取るのです。
- 詩篇は、嘆きで終わりません。神さまに助けと生きる力を求めて叫んでいます。
5. 片岡ツヨさん、「なぜ」から「どう生きるか」へ
- 片岡ツヨさんは1921年、大聖堂のある地区、原爆が落ちた浦上に生まれました。カトリックの信者で、1945年8月9日、24歳のときに長崎で原爆を体験しました。親族13人を失い、自身も顔に重い火傷を負いました。2014年に亡くなりました。
- お母さんに「うちの顔はどうなっているの」と尋ねると、お母さんは「そのぐらいの顔だったらいいさ。日が経てばだんだん良くなるさ」と言ったそうです。けれども鏡で自分の顔を見た瞬間、絶望のどん底に落ちたと語られています。別のインタビューでは、「この顔では生きていけない、死にたい」と思ったことも話されています。
- 彼女の言葉が残されています。「浦上の廃墟一帯を一望しましてね、そこで20分ぐらい泣きました。私たちのいちばん大事なこの教会、貧困生活の中で完成した浦上教会は大事だったのに……。その時、私は疑ってはならない神を、自分が小さい時から信じてきた神を、ちょっと疑いました」。この時代の方の「ちょっと疑った」という表現には深いものがある、と説教者は感じています。
- 「神さま、どうしてこんなことが起こるのですか」。誰もが一度はこのように祈ったことがあるでしょう。信仰のゆえに自ら命を絶つことはできず、彼女は亡くなった13人のために祈ることにしました。そこから、もう一度歩み始めたのです。
- 彼女は繰り返しこう語りました。「私を平和の道具に使ってください」。説教者は、長崎原爆資料館で彼女の証言のビデオを見ました。
- 彼女の歩みの詳細を、説教者は知りません。それでも、「死にたい」から「私を平和の道具に使ってください」までには、長いプロセスがあったはずです。「なぜ」という嘆きは、「どう生きるか」を問う信仰へと変えられていきました。インタビューの写真の中の彼女の目に、説教者は絶望ではなく、平和のために神さまに用いられている人の光が輝いているように見ています。
- 潜伏キリシタンの方々も、原爆を受けてなお信仰を持ち続けた方々も、ただ強かったのではありません。普段の私たちと同じ弱さを持った人間でした。この途切れなかった信仰の道は、その人たちの祈りに神さまが答えた実りだと思います。絶望しないのではなく、絶望したときにも私たちの嘆きを聞き、癒し、助け、そして目に光を与えてくださるのは神さまです。
- 説教者は、自分の証しも語ります。「弟子になる前と後では何が違いますか」と尋ねられたそうです。弟子になる前は、生きる意味がわからなくなり、絶望し、この世からいなくなりたいとさえ思っていました。けれども、バプテスマを受け、イエスを主として生きることを選んでからは、以前のようには絶望しなくなりました。「私たちの目に光を与え、生きる意味を与えるのは、私たちの力ではなく、神さまの力です」。
6. 「わたしはあなたのいつくしみに信頼します」
- 口語訳の詩篇13:5-6です。「わたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。主はわたしを豊かにあしらわれたゆえ、わたしは主に向かって歌います」。ここで、ダビデの心の向きが変わります。
- 説教者は、ここに三つの段階の道筋を読み取っています。心を正直に開いて嘆くこと、神さまの助けを求めること、そして賛美の喜びに至るまで変えられていくことです。
- ヘブライ語には、英語が残しているニュアンスがあります。「But」、つまり「しかし」です。ダビデは、ここから自分自身ではなく神さまを見つめます。「いつまで」と言っていた人が、「しかし私は、あなたのいつくしみに信頼します」と言うのです。
- 状況は変わっていません。ダビデが見つめているものが変わったのです。
- 「信仰とは、落ち込まないことでも、絶望しないことでもありません。信仰とは、絶望のただ中でも神さまに祈り続けることです」。
- 「賛美は、嘆きを知らない人の歌ではありません」。嘆きを神さまのもとに持っていき、その嘆きのただ中で喜びを見いだした人の歌です。
7. イエスは私たちの嘆きの中に入ってくださった
- もし今日、あなたが神さまに「いつまでですか」と言うなら、その嘆きを隠す必要はありません。そのまま神さまのもとに持っていきましょう。神さまは耳を傾け、私たちの目に光と、力と、生きる意味を与えてくださいます。
- 十字架の上で、イエスは叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。イエスご自身が、神さまに嘆きを叫ばれたのです。
- 神さまは、イエスにおいて、私たちの苦しみの中に入ってくださいました。この世に来て、その苦しみを味わわれたのです。私たちの苦しみから遠くにおられるのではなく、すぐそばまで近づいてくださいます。
- ですから私たちは、ダビデのように「いつまでですか」と祈りながら、同時に「しかし私は、あなたのいつくしみに信頼します」と祈ることができます。神さまのもとで、嘆きはやがて賛美になります。「イエスとともに嘆き、イエスとともに神さまを賛美しましょう」。
覚えておきたいポイント
- 嘆きは信仰の欠如ではありません。ダビデは、神さまがそこにおられると知っているからこそ、「いつまで」と叫びます。
- 自分を守りながら、半分だけ、痛みを口にせずに祈ることは、神さまと私たちの間に壁を作ります。
- 「わたしの目を明らかにしてください」。生きる力と意味を取り戻させてくださるのは神さまであり、私たち自身の力ではありません。
- 状況は同じままかもしれませんが、私たちが見つめるものは変わります。「しかし私は、あなたのいつくしみに信頼します」。
- イエスご自身が、十字架の上で嘆きを叫ばれました。イエスは私たちの苦しみの中で、私たちのそばにおられます。
自分への適用
- あなたが最後に、心の底からの嘆きを神さまに持っていったのはいつですか。
- 神さまが期待どおりに答えてくださらなくてもがっかりしないように、「半分」だけで祈っている領域はありませんか。
- 今、あなたはどんな「いつまで」を抱えていますか。それをそのまま神さまに言ったら、何が変わるでしょうか。
- あなたは今日、神さまが与えてくださった光によって生きていますか。それとも、やるべきことのプレッシャーによって、少しずつ不信仰へと滑り込んでいませんか。
- 今週、同じ祈りの中で、「いつまでですか」と「しかし私は、あなたのいつくしみに信頼します」の両方を祈ってみませんか。
引用した聖句
よくある質問
詩篇13篇は何について語っていますか。
詩篇13篇は、ダビデの祈りです。2節の中で4回繰り返される「いつまで」という嘆きで始まり、賛美で終わります。「わたしは主に向かって歌います」。説教者は、ここに嘆きから賛美へと変えられていく信仰の道筋を見ています。
神に不満を訴えるのは、信仰が足りないからですか。
いいえ。ダビデは「あなたはいない」とは決して言いません。「あなたはそこにおられるのに、なぜ答えてくださらないのですか」と言っています。これは信仰者の嘆きです。説教者によれば、信仰とは落ち込まないことではなく、絶望のただ中でも神さまに祈り続けることです。
詩篇13:3の「わたしの目を明らかにしてください」とはどういう意味ですか。
説教者によれば、このヘブライ語の表現は、目に光を返すこと、つまり生きる力を取り戻させることを意味します。ダビデは、自分自身の力で探すのではなく、生きる意味と力をもう一度与えてくださるよう、神さまに求めているのです。