はじめに
このメッセージは、2026年10月4日の東京グレイス福音教会の礼拝で語られました。今回の箇所は短く、使徒行伝20章36節から38節、パウロがエペソの長老たちに別れを告げる場面です。パウロはひざまずき、彼らと共に祈り、もう二度と彼の顔を見ることがないと知って、皆が泣きました。
説教者は、この箇所にパウロの遺言のようなものを見ています。メッセージの題は「はい、主よ、私がここにおります」です。神のみことばの前に隠れることなく顔を上げて、この言葉を口にできる人は多くない、と説教者は言います。けれども、すべてはここから始まります。「新しいことはすべて、真実な礼拝から始まります。」
それを示すために、説教者はイザヤ、ヨナ、ギデオン、ペテロ、ハガル、ハンナを順にたどります。全員が神の召しと向き合いました。何人かは逃げました。誠実に応答した人々は、新しい出発を経験しました。
メッセージの流れ
1. パウロの別れの言葉:聞き逃してはならない遺言
- パウロはエペソの教会の指導者たちに、もう二度と自分の顔を見ることはないと告げます。彼らは胸が張り裂ける思いでしたが、パウロは本質的なことを伝えようとします。遺言とは、言わずにはいられない言葉のことだと説教者は言います。それを真剣に、「正面から」受け止めなければなりません。
- 説教者は学校のたとえを使います。先生が難しい質問をして、答えがわかる人はいますかと尋ねると、自信のない人は目を伏せます。「主よ、私がここにおります」と言える人は、その反対の信仰の姿勢を示しています。「主よ、今あなたのみことばを、隠れずに聞いています。」
- それが真実な礼拝を捧げるということです。聞いているようで聞いていないこともできますし、見栄えよく振る舞うことも、うつむいたままでいることもできます。説教者は問いかけます。私は本当に、自分が何者かを主に示しているでしょうか。
2. 新しいことはすべて、真実な礼拝から始まる
- 創世記1章1節で、神は天と地を創造されます。何もないところから、あるものを生み出されたのです。それ以外の被造物は、すでに与えられたものを組み合わせているにすぎない、と説教者は説明します。本当の意味での新しさは、創造主から来ます。
- 真実な礼拝の中で、その同じ神が恵みによって、私たちの計算や計画からは出てこない力と命を与えてくださいます。「まったく違う何かが始まります。」
- 反対に、礼拝を軽く考える人は、何百回、何千回通っても、何も新しいことが始まりません。「何十年も教会に通っているのに、まったく変わらない人は、残念ながら珍しくありません。」
- 本当の安らぎも、問題が解決することから来るのではありません。それは原因と結果の話にすぎないからです。安らぎは十字架から来ます。私たちの罪は贖われ、私たちは恵みによって神の子どもとされているのです。
- 真実な礼拝がなければ、給料が上がり、結婚し、新しい家が見つかることもあるでしょう。けれども、いつか失望が来ます。「こんなものか。」なぜでしょうか。周りは変わったのに、あなた自身は変わっていないからです。
- 年齢は関係ありません。10歳や20歳の若者でも、新しいことは何も起きないと言うことがあります。礼拝の中で「主よ、私がここにおります」と言う人は、80歳になっても90歳になっても、日々新しくされます。真実な礼拝は、私たちの生活の組み立て方の出発点です。
3. 聞くだけでなく、みことばの上に建てる
- 私たちはよく十分の一献金の話をしますが、時間も捧げるべきだとも言われます。説教者は、ある人が「たくさんお金を稼いで献金しますから」と答えた話をします。ある牧師は彼に言いました。「そんなお金は要りませんから、持ち帰ってください。」説教者は、神様もそういうお金は欲しくないだろうと思っています。
- イエス様は、嵐が来ても倒れない家について教えました(マタイ7章24〜27節)。それは保険でも、外側からの守りでもありません。イエス様のみことばの上に建てた家です。
- 砂の上に建てるのは簡単です。柱はすぐに立ちますが、岩の上では手を痛めます。それは自分の都合に合わせて建てることです。聞くだけで実行しない人は、最初の嵐で人生が崩れ落ちます。
- 説教者は、詳しくは触れずに、以前は忠実に通っていたのに来なくなった人々のことを挙げます。彼らは聞くだけで、自分の都合に従ったのです。
- 説教者は賛美についても問いかけます。今歌った歌は、あなたの信仰から出たものでしょうか。それとも、10年前、20年前、あるいは何百年も前に誰かが書いた言葉を、ただ繰り返しているだけでしょうか。「ここに、形だけの礼拝と真実な礼拝の違いが現れます。」
4. イザヤ:「わざわいなるかな」、そして「ここにわたしがおります」
- 神の栄光が神殿に満ちたとき、イザヤは「ようやく探していた教会に出会えた」とは叫びません。こう言います。「わざわいなるかな、わたしは滅びてしまう」(イザヤ6章5節)。「これが本当の礼拝です。」神が近づかれ、イザヤは自分の汚れを見たのです。
- 神が求めておられるのは、洗練された答えではなく、真実な答えです。祭壇から取った燃えさかる炭がイザヤの唇に触れ、彼の罪は除かれ、とがはあがなわれます(イザヤ6章6〜7節)。説教者はそこに、約700年後に起こるイエス様の十字架を見ています。
- 毎週「楽しかった」と言って帰るだけの教会は、10年通ってもあなたを変えません。悔い改めがなければ、何も動きません。そして悔い改めとは、方向転換のことです。
- お医者さんのたとえです。お腹が痛いのに、医者が「何でもありませんよ、そのまま続けてください」と言ったとします。そんな医者を選ぶでしょうか。選びません。はっきり診断して、ゆっくり食べ、お酒を控え、タバコをやめるように勧めてくれる医者を望むはずです。説教者はユーモアを交えて言います。「私はそれを言うのにふさわしい人間ではないのですが。」
- 教会も同じです。罪を示されるだけでは足りません。イエス様の十字架が赦し、つまり癒やしてくださることも、はっきり聞く必要があります。そうして、もう一歩前に進めるのです。
- そして神は問われます。「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」(イザヤ6章8節)。ほかに誰もいないのかもしれませんが、神はそれでも問われます。たった一人の子どもに「アイスを食べたい人は?」と聞くお母さんのようです。「はい!」と答えてくれたら、お母さんはうれしいのです。イザヤは手を挙げます。「ここにわたしがおります。わたしをつかわしてください。」
- 真実な礼拝には、いつも応答が伴います。「アーメン、主よ、その通りです。」礼拝中に眠っている人は応答できません。ある姉妹は、以前通っていた教会では礼拝中に寝ていて、それが普通だと思っていて、まったく変わらなかったと打ち明けてくれました。
- 聞いて心が慰められるなら、神に伝えてください。「主よ、あなたのみことばとこの賛美が、乱れた私の心をなだめてくれます。私が通っている苦しみのために、あなたはこう語ってくださったのですね。」誰でも応答できます。「応答しない人は、死んでいる人です。」
- 新しく生まれた霊は交わりを慕い求めます。生きている人が家族と一緒に過ごしたいと願うのと同じです。礼拝中の態度は、その人が生きているかどうかを表します。
- 真実な礼拝を捧げる人にとって、毎週が新しい出発です。変わるのは周りではなく、あなた自身です。周りが変わるだけなら、引っ越したとき、年を取ったとき、状況が変わったときに、すべてが終わってしまいます。あなた自身が変わるなら、どこへ行っても主の平安と喜びを持ち続けることができます。
5. 逃げた人々と、彼らがどのように戻ったか
- ヨナ。イスラエルの敵国アッスリヤの首都ニネベに遣わされましたが、地中海の西の果てタルシシへ逃げました(ヨナ1章3節)。嵐、船乗りたち、海、そして大きな魚。逃げることは、しばしばその暗くて居心地の悪い場所に行き着きます。けれども魚の腹の中で、ヨナは主を思い出し、感謝の叫びを上げます。「救は主にある」(ヨナ2章9節)。陸地に吐き出されたヨナは、行きたくなかったニネベへ向かいます。もう逃げません。変えられたからです。「本当の新しい出発は、本当の悔い改めからしか生まれません。」
- ギデオン。イスラエルをミデアン人から救うよう召されたとき、彼は答えます。「わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。またわたしは父の家で一番小さい者です」(士師記6章14〜15節)。栄光に満ちた答えではなく、正直な答えです。弱さを隠さず、主が共におられるから前に進みます。
- ペテロ。イエス様と共に死ぬと誓いながら、逃げ、隠れ、三度イエス様を知らないと言いました。ガリラヤ湖のほとりで、イエス様は尋ねます。「わたしを愛するか。」説教者は二つのギリシャ語に注目します。イエス様はアガペー、無条件の愛で問われ、ペテロはフィレオー、兄弟愛、人間的な愛で答えます。悲しくなったペテロはへりくだります。「主よ、あなたはすべてをご存じです」(ヨハネ21章15〜17節)。この正直な答えに、イエス様は「わたしの羊を養いなさい」、そして「わたしに従ってきなさい」と託されます。
- ハガル。サライにつらく当たられ、荒野へ逃げました。主の使いは、どこから来て、どこへ行くのかと尋ねます。彼女は率直に答えます。「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです。」使いは言います。「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身をゆだねなさい」(創世記16章7〜9節)。彼女はそのことばを受け入れました。説教者は、今まさに逃げている人に語りかけます。心配しないで、今日、主の前に来て、心を開いてください。
6. ひざまずく:ハンナの正しい逃げ場
- だから、使徒行伝20章36節のこの一言が説教者の目を引いたのです。「ひざまずいて」。礼拝とは、高慢のうちに硬く立ち続けるのをやめて、神の前にひざを折ることだと説教者は説明します。「礼拝とは、自分自身のひざを折ることです。」
- サムエル記上1章のハンナには子どもがなく、絶えず辱められていました。彼女も逃げました。けれどもペテロはガリラヤ湖へ、ハガルは荒野へ行ったのに対して、ハンナは神がおられる神殿へ行きました。そこで彼女は主の前に心を注ぎ出し(サムエル記上1章15節)、何も隠しませんでした。
- 「正しい逃げ場があります。」しかも私たちには毎週あります。心を閉ざしたままそこへ行くのは、もったいないことです。
- 神殿で短く言葉を交わしたあと、ハンナは家に帰ります。聖書は、その顔はもはや以前のようではなかったと記しています(サムエル記上1章18節)。彼女は、いじめられていたその同じ家、その同じ場所に帰ったのです。変わったのは状況ではなく、彼女自身でした。「これが、本当の意味での新しい出発です。」
7. 幸せがあなたを追いかけてくる
- 変化は、小さなはしごの一段のように見えるかもしれません。でも毎週登り続けていくと、いつか遠くに、自分が出発した場所が見えます。「ああ、あんなところから私は来たのか。主よ、感謝します。」このはしごは天まで続いている、と説教者は言います。
- 幸せを追いかけているうちは、予測できる範囲の幸せしか手に入らず、追えば追うほど逃げていきます。イエス様を追い求めれば、幸せのほうがあなたを捕まえに来ます。礼拝の終わりに、説教者はこれを詩篇23篇、恵みといつくしみがあなたに伴うというみことばに結びつけます。
- 説教者は自分自身の歩みを語ります。父親には何人も愛人がいましたが、自分はその道を歩まず、離婚もしませんでした。イエス様がいなければ、笑いながら言うには、おそらく二度か三度は離婚していて、妻に追い出されていただろう、と。「イエス様は、想像をはるかに超えて私を変えてくださいました。」
- 説教者は、子どもたちが自分を超えていくことを願っています。父親と同じ過ちを繰り返さないから、自分より幸せになってほしいのです。少し胸が痛んでも、それが親の本当の願いです。
- 結びの言葉はこうです。「出発するのにいちばんよい時は、今です。」
覚えておきたいこと
- 本当に新しいことはすべて、無から創造される神の前での、真実な礼拝から始まります。
- 応答しないで聞くだけでは、何十年教会に通っても何も変わりません。本当の礼拝には「私がここにおります」という応答が伴います。
- 神が求めておられるのは、立派な答えではなく正直な答えです。イザヤ、ギデオン、ペテロ、ハガルの答えのように。
- 礼拝するとは、自分自身のひざを折ることです。ハンナにとっての正しい逃げ場は、神の臨在でした。
- 新しい出発は、状況が変わることからではなく、神があなたの内に起こしてくださる変化から来ます。
個人への適用
- 礼拝中、あなたはみことばの前で顔を上げていますか。それとも、ほかのことを考えながら、上の空で聞いていますか。
- 日曜日に歌う賛美は、あなた自身の信仰告白ですか。それとも、ただ繰り返している言葉ですか。
- ヨナやハガルのように、今あなたが逃げていることはありませんか。主は今日、あなたに何と語っておられますか。
- 今週、隠すのではなく、神の前で正直に認められる弱さは何ですか。
- 周りの人が変わるのを待っていますか。それとも、主にあなた自身を変えていただくよう求めていますか。
引用した聖句
- 使徒行伝20章36〜38節
- 創世記1章1節
- マタイ7章24〜27節
- イザヤ6章5〜8節
- ヨナ1章3節
- ヨナ2章8〜10節
- 士師記6章14〜16節
- ヨハネ21章15〜19節
- 創世記16章7〜9節
- サムエル記上1章15〜18節
- 詩篇23篇6節
よくある質問
なぜ真実な礼拝は、新しいことすべての出発点なのですか。
新しさは、天と地を無から創造された神から来るからです(創世記1章1節)。隠れずに神の前に立つとき、神は恵みによって、あなたの計算や計画では生み出せない命と力を与えてくださいます。この真実な礼拝がなければ、何十年教会に通っても変わらないままでいることがあります。
礼拝の中で「私がここにおります」と答えるとは、どういう意味ですか。
何も隠さずに神の前に立ち、こう申し上げることです。「私を知ってください。あなたが私に望んでおられることを示してください。」イザヤは「わざわいなるかな」と叫び、赦しを受けたあとに、そう答えました(イザヤ6章5〜8節)。説教者は、神が求めておられるのは立派な答えではなく正直な答えだと強調します。
使徒行伝20章36節と礼拝には、どんな関係がありますか。
この箇所には、パウロがひざまずいて皆と共に祈ったと書かれています。説教者にとって、礼拝とは、高慢のうちに硬く立ち続けるのではなく、神の前でひざを折ることです。礼拝とは、自分自身のひざを折ることなのです。