はじめに
「また、神は、有力な者を無力な者にするために、この世の身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」2026年10月4日の日曜日、日本の米沢興譲教会で、田コリント人への第一の手紙1章28節のこの一節だけから、「自分が無力に感じた時」という簡潔な題で語りました。
牧師は最初に会衆へ問いかけます。「皆さん、どうですか。」「自分は何の値打ちもない、取り残されている」と思う瞬間は、誰にでもあるからです。牧師はこの感情がどこから来るのかを示し、そのうえで、もう一つの自分の見方を開きます。比べられる製品としてではなく、神の作品として自分を見る見方です。
メッセージは物語を通して進みます。日本でとても有名な女優と、彼女を信じた学校の校長、黒くてへこみのある茶碗、すべてを失った詩人、戦時中に投獄された教会、思いがけない誕生日カードです。
メッセージの流れ
1. 「何者でもない」という思いは、比較から生まれる
- 聖書の言葉は、「身分の低い者」と「無きに等しい者」について語ります。田中信生牧師によれば、自分が無に等しいと感じるのは、ほとんどの場合、比較の中です。「前はこれが持ち上がったのに、今はもうできない」と思ったり、人と比べて気落ちしたりします。
- 部分と部分を比べると、二つの反応が生まれます。自分が劣っていると思えば劣等感、優れていると思えば優越感です。「私たちは一日中、その二つの間で過ごしています。」強いか弱いか、遅いか速いか、勝つか負けるか、持つか持たないか。これがこの世の目盛り付きの物差しです。
- 聖書は「目盛りのない」物差しを示します。部分と部分を比べるのではなく、全体から、つまり神から、それぞれの部分を見るのです。
- 米沢興譲教会はこれを「どんな時も大丈夫」という確信にまとめています。神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働くからです(ローマ人への手紙8章28節)。持っていても持っていなくても、強くても弱くても、目が見えても見えなくても同じです。
- 牧師は自分のセミナーを笑顔で振り返ります。ある女性は友人たちにこう話していました。「中身はあまりなくて、いつも同じことを繰り返すのよ。でも、終わると気持ちがいいの。」教会の近所のおばさんは、牧師のカセットテープがとても役に立つと言いました。「すぐに眠れるのよ。」牧師はここから学びます。「どんな時も大丈夫」という空気に包まれると、人は休まり、また来たくなるのです。なぜおいしいのか説明できないけれど、また行きたくなる近所のお菓子屋さんのようにです。
- セミナーでも、牧師はもう「質問はありますか、ありませんか」とは聞かず、「質問についてはどうですか」と尋ねます。小さな違いですが、二択の論理から出て、全体を見るための言い方です。
2. 肩書きを失うと、価値も失ったと思ってしまう
- 人は、できなくなったことに気づきます。年を重ねると、昨日できたことができなくなります。会社で「部長」と呼ばれていた人が、退職すると「ただの人」になります。そして、もう自分には価値がないと感じてしまいます。
- 牧師はまた、日本では子どもや若者の死因の第一位が事故ではなく自殺であることにも触れます。「一番になれ、努力しろ」と叫ぶ社会では、脱落した人は崩れ落ちてしまいます。「これは私たちの時代の問題です。」
- 牧師は、競争や行いによって前に進む人を見下しません。「それもいいことです。」けれども、それとは別のことがあります。あなたの人生は、そのままで価値があると、頭ではなく全身で分かることです。「そのとき、人生が変わります。」
3. 「あなたは、本当はいい子なのよ」
- 田中信生牧師は、日本のテレビでとてもよく知られた黒柳徹子さんの話をします。母親は熱心なクリスチャンで、人気のある講演者でした。父親はNHK交響楽団のバイオリン奏者でした。母親は米沢興譲教会の精神の中に、「持っていても持っていなくても、強くても弱くても、できてもできなくても、すべては神の御手の中にある」ことを見いだしていました。
- 幼いころの徹子さんは、周りのペースについていけず、普通の学校を離れなければなりませんでした。母親は、神がこの子に、他の誰も生きられない人生を与えられたと確信していました。そして、牧師の話では、さまざまな背景の子どもたち、障がいのある子どもたちも受け入れる学校を見つけました。
- 到着するとすぐに、少女は校長の小林宗作先生と四時間も話しました。「四分ではありません、四時間です!」校長先生は最後まで聞きました。皆が「変な子だ」「何の価値もない」と言う中で、校長先生は繰り返し言いました。「君は、本当はいい子なんだよ。」
- 初めは、その言葉は彼女の心に届きませんでした。けれども、何度も何度も聞くうちに、彼女の個性はその色彩を存分に発揮できるようになりました。彼女はユニセフ親善大使となり、貧しい国々を助けました。この人生の背後には、母親の信仰と、繰り返されたこの言葉がありました。
- 牧師は会衆に、そして画面で見ている人たちに向かって言います。「皆さんも、そう言われているような気がしませんか。」
4. あなたは製品ではなく、神の作品
- 私たちは両親から生まれましたが、最初の親は創造主です。そして私たちは神の「製品」ではありません。製品は大量に安く作られ、賞味期限が過ぎれば捨てられます。「あなたは、本当は神の作品なのです」(エペソ人への手紙2章10節)。
- この真理は、何度も何度も自分に言い聞かせる必要があります。そうすれば、自分に失望したときも、自分を見失って誰にも気づかれないときも、立ち続けることができます。「私たちは小さい。けれども神の作品として、造ってくださった方に担われているのです。」
- このまなざしの中に入るのを妨げるものは何でしょうか。牧師は「心の負債」について語ります。罪とは、大小の過ちの一覧を比べ合うことではなく、まず、真実なもの、本物から切り離された状態のことだと言います。
- この負債は、誰にも払えません。生まれたときから背負っているからです。人となられた神、汚れも負債もない御子イエス・キリストが、私たちの負債を負い、私たちの身代わりに死んでそれを支払ってくださいました。あなたがイエスを心に迎えるなら、競争の目ではなく、永遠で創造主である神の目で自分を見ることを学べます。
- 牧師は、教会のあるお母さんと、視力を失いつつあった息子さんの話で、これを説明します。学校で、「目が見えなくなるなんて、悔しいと思わないの」と聞かれ、彼は「思わないよ」と答えました。後に重い病気になっても、一度も不平を言わず、枕元の母親にこう言いました。「お母さん、泣かないで。みんな天国に行くんだから。人は先に行っているだけだよ。」母親とおばあさんはキリスト教のことを何も知りませんでしたが、「私もこういう人生を生きたい」と思い、教会に来るようになりました。
- 人がそれを不思議に思うとき、牧師は米沢の言葉でこう答えます。「不思議じゃないよ。すべてが失われたと思っている人のほうが、不思議に思うんだよ。」
5. 利休の黒い茶碗と、一茶の雀
- 会衆の中にいるお茶の先生方に向けて、田中信生牧師は茶の湯の道を定めた千利休に触れます。当時、良い茶碗は中国から来るもので、完璧で、滑らかで、左右対称でした。
- 利休は瓦職人に、黒くて不揃いな、ざらざらした茶碗を作らせました。「これが本当の美しさです。これが最高の茶碗です。」誰もが価値がないと見なしたゆがんだ茶碗の中に、彼は唯一無二の深みを見いだし、最も尊い道具にしたのです。「あなたも用いられます。ゆがんでいる? だからこそいいのです。ゆがんでいなくても、それもいいのです。」
- 詩人の小林一茶は、幼いときに母を亡くし、その後、子どもたちと妻も失い、貧しさの中で暮らし、家が焼けるのも見ました。それでも、そこからこう詠みました。「我と来て遊べや親のない雀」
- もちろん、豊かな人生の中でも神を仰ぐことはできます。けれども、なぜ自分だけが、お金のことや健康、人間関係で苦しむのかと思うとき、この言葉を心に留めてください。「無力に感じているときにこそ、永遠を味わうのです。」私が弱いときにこそ、私は強いからです(コリント人への第二の手紙12章10節)。
- 牧師は具体的な祈りを勧めます。要求するだけの「請求書の祈り」にとどまらず、こう祈ってください。「主よ、もしその世界があるなら、見せてください。」そして、「あなたが見せてくださったと信じて、感謝します。」朝、昼、晩にこう祈るのです。少しずつ、これまで見えなかったものが見えてきます。
6. 対立するのではなく、真実を生きる教会
- 日本では、クリスチャンは人口の1%に満たず、その1%さえ減りつつあります。尊敬できる教えはたくさんあると牧師は認めます。けれども、「残るのは、生きられた現実」です。
- 戦時中、政府はすべてのプロテスタント教会を一つの連合にまとめました。天皇が神であると言うことを拒んだ信徒たちは(「尊敬すべき人だが、神ではない」)、投獄され、獄中で亡くなった人もいました。米沢興譲教会自身も、会員が米沢の刑務所に入れられ、強制的に解散させられました。
- 田中信生牧師は、キリスト教の学校が何千人もの生徒を受け入れて卒業させても、洗礼を受ける人が一人もいないことがあると指摘します。それは、信仰がとても知的なものになり、その後、運動や反対によって「具体的なことをしよう」としたためだと言います。社会的な行動を非難するわけではありません。「それはいいことです。」けれども、心の代わりにはなりません。
- 牧師の勧めは簡単です。息子さんや娘さん、おじいさん、おばあさんを批判するのではなく、あなたが真実だと信じることをただ生きなさい。「人も状況も変えることはできません。けれども、あなたの内にある真実が、あなたを通して広がっていくのです。」これが、牧師の言う米沢興譲教会の百年の歴史です。多くの失敗を重ねながら、実を結んでいる教会です。
7. 自分への言葉が一言もなかった誕生日カード
- 最後に牧師は、「説明から現実へ」と移ります。毎年、教会のある女性が、牧師の誕生日に花とカードを贈ります。彼女は何世代にもわたって信仰が受け継がれてきた家の出身です。いつもは、牧師への温かい言葉を数行書いてくれます。
- 今年は、牧師のことは一言もありませんでした。カードのすべてが、毎月セミナーを開いている教会の責任者のことでした。四十年前、彼女がまだ若かったころ、その人は怖い存在でした。厳しくて、時間が過ぎるとすぐに若者たちを家に帰したのです。今は「別人のようになった」と言います。十字架によって受けた赦しについて、温かい笑顔で語り、誰もが温かさと平安に満たされて帰ります。
- 彼女はセミナーの間ずっと、何があの人を変えたのだろうと考え、自分もイエスにより頼んで、「古いものは過ぎ去って」新しい人生が始まることを願いました(コリント人への第二の手紙5章17節)。「知識だけにとどまらず、存在そのものがすべて変えられた人が目の前に現れて、この方を変えた方が、私の人生も変えてくださる。」
- 「誕生日のお祝いの言葉は、全然ありませんでした」と、田中信生牧師は冗談を言います。「皆さん、どう思いますか。それでいいのです。」この章は、こう終わっているからです。「誇る者は、主を誇れ」(コリント人への第一の手紙1章31節)。
- 牧師の結びはこうです。「どんな私も、本当はいい子なのよ。自分にも見えないけれど、本当は神の作品なのよ。」この言葉をあなたの心にしっかりと根づかせてください。それは内側からあなたを変え、笑顔にまで及び、不平不満は感謝の言葉に変わっていきます。
心に留めたいこと
- 「何者でもない」という思いは、比較から生まれます。神は、全体から一つひとつの部分を見ておられます。
- あなたの価値は、肩書きにも、成果にも、年齢にも左右されません。あなたの人生は、そのままで尊いのです。
- あなたは大量生産された製品ではなく、神の作品です。この真理は、何度も自分に言い聞かせることで受け取れます。
- 利休の黒い茶碗のように、この世がゆがんでいると見なすものも、神の手の中で尊いものになりえます。
- 他の人を変えることはできませんが、あなたの内にある真実は、あなたを通して広がります。誇る者は、主を誇りなさい。
自分への問いかけ
- あなたは、どんな分野で、人や過去の自分と一番比べてしまいますか。
- どんな肩書き、能力、成功を、自分の価値の物差しにしていますか。
- 今週、あの校長先生のように「君は、本当はいい人だよ」と声をかけて励ませるのは誰ですか。
- 朝、昼、晩に「主よ、あなたのまなざしを見せてください」と祈り、それが与えられると信じて感謝する用意はありますか。
- 批判してしまいがちな人に対して、ただ自分が真実だと信じることをその人の前で生きることはできませんか。
引用された聖書箇所
- コリント人への第一の手紙1章28節
- コリント人への第一の手紙1章31節
- ローマ人への手紙8章28節
- エペソ人への手紙2章10節
- コリント人への第二の手紙12章10節
- コリント人への第二の手紙5章17節
よくある質問
コリント人への第一の手紙1章28節の「無きに等しいもの」とはどういう意味ですか。
田中信生牧師によれば、自分が「何者でもない」と感じるのは、ほとんどの場合、比較から生まれます。人や過去の自分と比べ、劣等感と優越感の間を揺れ動くのです。神はあえてこの世が軽んじるものを選び、部分からではなく全体から見ておられることを示されます。
製品であることと、神の作品であることの違いは何ですか。
製品は大量に安く作られ、賞味期限が来れば価値を失います。作品はただ一つのものです。牧師は、あなたは創造主の製品ではなく作品であると語り、この真理を繰り返し自分に言い聞かせるなら、孤独で無力に感じるときにも立ち続けられると述べます。
なぜ田中信生牧師は千利休の黒い茶碗の話をするのですか。
千利休は、完璧な中国の茶碗よりも、黒くて不揃いでざらざらした茶碗を選び、最も尊い茶道具としました。牧師にとってそれは福音の姿です。皆が価値がないと見なすものを、神は選んで用いられます。あなたも、いびつであっても神に用いられます。