聖書 — 口語訳 (1955)
コリント人への第二の手紙 12
概要
コリント人への第二の手紙12章で、パウロは偽使徒たちがコリントの教会の前で誇っているため、やむをえず自分のことを語ります。並外れたまぼろしに触れたあと、彼は自分の弱さを誇ることを選びます。高慢にならないように、彼の肉体には一つのとげが与えられました。パウロは三度それを去らせてくださいと祈り、主は、わたしの恵みはあなたに対して十分であると答えられます。章の終わりには、牧者としての愛と、教会への心配が語られます。
この章の5つの区分
1わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。
2わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。
3この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――
4パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。
5わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
6もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
7そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
8このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
10だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
11わたしは愚か者となった。あなたがたが、むりにわたしをそうしてしまったのだ。実際は、あなたがたから推薦されるべきであった。というのは、たといわたしは取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちにはなんら劣るところがないからである。
12わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきた。
13いったい、あなたがたが他の教会よりも劣っている点は何か。ただ、このわたしがあなたがたに負担をかけなかったことだけではないか。この不義は、どうか、ゆるしてもらいたい。
14さて、わたしは今、三度目にあなたがたの所に行く用意をしている。しかし、負担はかけないつもりである。わたしの求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身なのだから。いったい、子供は親のために財をたくわえて置く必要はなく、親が子供のためにたくわえて置くべきである。
15そこでわたしは、あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう。わたしがあなたがたを愛すれば愛するほど、あなたがたからますます愛されなくなるのであろうか。
16わたしは、あなたがたに重荷を負わせなかったとしても、悪がしこくて、あなたがたからだまし取ったのだと、人は言う。
17わたしは、あなたがたにつかわした人たちのうちのだれかをとおして、あなたがたからむさぼり取っただろうか。
18わたしは、テトスに勧めてそちらに行かせ、また、かの兄弟を同行させた。テトスは、あなたがたからむさぼり取ったことがあろうか。わたしたちは、みな同じ心で歩いたではないか。同じ足並みで歩いたではないか。
19あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対して弁明をしているのだと、今までずっと思ってきたであろう。しかし、わたしたちは、神のみまえでキリストにあって語っているのである。愛する者たちよ。これらすべてのことは、あなたがたの徳を高めるためなのである。
20わたしは、こんな心配をしている。わたしが行ってみると、もしかしたら、あなたがたがわたしの願っているような者ではなく、わたしも、あなたがたの願っているような者でないことになりはすまいか。もしかしたら、争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、ざんげん、高慢、騒乱などがありはすまいか。
21わたしが再びそちらに行った場合、わたしの神が、あなたがたの前でわたしに恥をかかせ、その上、多くの人が前に罪を犯していながら、その汚れと不品行と好色とを悔い改めていないので、わたしを悲しませることになりはすまいか。
鍵となる聖句
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
パウロは、高慢にならないように与えられた肉体のとげについて語ります。それが何であったかは書かれていません。病気なのか、反対者なのか、ほかの試練なのか、注解者の意見は分かれており、断定しないほうがよいでしょう。
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
三度の祈りのあとの主の答えは、解放ではなく約束でした。主の恵みは十分であり、主の力は弱さの中で完全にあらわれます。パウロは、自分の限界が、キリストが働かれる場所になることを悟ります。
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
パウロは逆説で結びます。弱い時にこそ、わたしは強いのです。苦しみそのものを好むという意味ではなく、力は自分からではなくキリストから来ると認めることを語っています。
そこでわたしは、あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう。わたしがあなたがたを愛すれば愛するほど、あなたがたからますます愛されなくなるのであろうか。
パウロは、愛されることが少なくなるとしても、コリントの人たちの魂のために喜んで費用を使い、自分自身も使いつくすと言います。牧者としての彼の愛は、見返りを求めないものです。
説教が語っていること
コリント人への第二の手紙12章についてよくある質問
コリント人への第二の手紙12章9節「わたしの恵みはあなたに対して十分である」とはどういう意味ですか
パウロは試練から解放されるよう三度祈りましたが、主はそれを取り去らず、耐えるための恵み、すなわち主の力と好意を約束されました。この言葉は、試練が良いものだと言っているのではありません。試練を通る人を神が支えてくださり、その力が私たちの弱さの中に現れることを語っています。
パウロの肉体のとげとは何ですか
パウロは明言していません。病気だと考える人もいれば、身体的な弱さ、反対者、あるいは「サタンの使」と言われていることから霊的な試練だと考える人もいて、キリスト教の伝統の中でも意見は分かれています。この箇所にとって大切なのは、パウロを謙遜に保つというとげの目的と、その祈りに対する神の答えです。
なぜパウロは「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と言うのですか
パウロは弱さそれ自体を美徳として語っているのではありません。自分の力に頼れなくなったとき、キリストの力がその人に宿るという意味です。こうして彼は、自分の限界を喜ぶことを学びます。そこにこそ、神の恵みが目に見えるものとなるからです。
コリント人への第二の手紙 12を引用している記事
口語訳(1955年)— パブリックドメイン。