はじめに
暗記するほど知っているつもりの箇所が、ある日突然、思いがけない形で心に迫ってくることがあります。Quentinは冒頭でこう打ち明けています。五年前にも、この箇所に大きく揺さぶられたのだと。今回準備のために読み返して、また改めて衝撃を受けたそうです。その率直な気づきはこうでした。「あなたは神の愛を何も分かっていない。」ヨハネ13:21-35は、最後の晩餐と迫りくる裏切り、そして別れの言葉の合間に差し込まれた新しい戒めについての記事です。この食卓で、イエスは最後までユダを愛されます。そして、イエスが愛されたように愛しなさいと、あなたに求めておられます。この「食卓から使命へ」シリーズのメッセージが、あなたの愛し方を揺さぶりに来るのです。
メッセージの構成
1. 無条件の愛:あなたを裏切ろうとする者さえも
- イエスは心を騒がせておられます(21節)。この語は、怒り、恐れ、見捨てられる不安、混乱といった内なる霧のような状態を表します。イエスは平静ではありません。人として、苦しんでおられるのです。
- そのような状態のただ中で、イエスはユダを愛することを選ばれます。愛は感情ではなく選択だと、Quentinは繰り返し語ります。私たちは、内側から湧いてくる動機がある限り愛します。しかしイエスには、そのような動機さえないのです。
- ユダヤの食事では、人々は低いテーブルを囲んでU字型に横たわって座ります。ユダは二つある名誉の席のひとつ、イエスの左側を占めていました。イエスは、自分を裏切ろうとしている人物を、あえて自分の隣に座らせておられるのです。
- イエスが差し出す浸したパン切れは、まるで客をもてなすために立ち上がって給仕するような、愛情のしぐさです。そしてイエスはユダを守られます。名指しにしなかったのです。もし名指ししていたら、ペテロは剣を抜いていたでしょう。
2. 意図的な愛:先に一歩を踏み出す愛
- イエスは、ユダが先に動くのを待ってはおられません。反応として愛するのではなく、主導して愛されます。
- 私たちの愛はしばしば反応的です。相手がニーズを表に出したときに、初めて応えます。しかしイエスの愛は、相手が何を必要としているかを先回りして考え抜くのです。
- ユダは「イエスは私の裏切りを知っていたから、愛するのをやめた」とは言えません。それどころか、イエスは裏切ろうとしている者のために、いっそうの労を惜しまれません。この愛は、あなたに言い訳の余地を与えません。
- 良い知らせがあります。イエスはあなたのことも、まさにこのように愛しておられるのです。あなたが罪を犯すと分かっていて、実際に罪を犯すときも、イエスは離れて行かれません。あなたが倒れたときに神が離れて行くというのは、悪魔の嘘なのです。
3. 神の栄光によって動機づけられる愛
- ユダが席を立った後(31節)、イエスは言われます。「今こそ、人の子は栄光を受けた。神もまた、人の子によって栄光をお受けになった。」十字架がまだこれから先にあるのに、動詞は過去形で語られています。イエスは、最後までやり遂げることをあまりにも確信しておられるので、それをすでに成し遂げられたこととして語っておられるのです。
- ここでの栄光とは、誉れであり、偉大さであり、神を大いなる方として現すものです。イエスは、いのちを与えることによって栄光を受けられます。それも友のためではなく、敵のためにです。ここに、まことに壮大なことがあります。
- 教会が存在する目的はただひとつ、垂直方向を向いています。神の栄光を現すことです。愛する動機が「彼は友達だから、とりあえず頑張ろう」になってしまうと、いずれ立ち行かなくなります。相手はいつか、あなたをうんざりさせる存在になるからです。
- 愛するとは、神を尊びたいという思いから相手を尊ぶことです。あなたの愛は、相手の人生の中で神を指し示す広告塔とならなければなりません。最終的に誉れを受けるのは、神ご自身なのです。
4. 新しい戒め:十字架を基準に愛する
- 「わたしは、あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。」愛しなさいという命令自体は、すでにレビ記にあります。では、何が新しいのでしょうか。
- 34節をよく見てみましょう。前半と後半は同じことを繰り返しています。新しいのは、その真ん中にある部分、「わたしがあなたがたを愛したように」です。基準が変わったのです。愛を測る物差しは、もはやあなたの内側にはなく、十字架にあります。
- この愛は、あなたを子として迎え入れます。イエスは「子たちよ」と呼びかけられます。それは、あなたの身分とアイデンティティを変えるものです。ヨハネは自分の名前を一度も名乗らず、「イエスが愛しておられた弟子」として自分を紹介します。それは自惚れではなく、彼のアイデンティティの土台なのです。
- この愛は伝道のあり方をも変えます。「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人が、あなたがたはわたしの弟子だと分かるようになる。」Quentinはこう気づいています。自分の説教を聞いて自分の教会で回心した人は一人もいない、と。バプテスマの証しは、どれも兄弟姉妹が互いにどのように愛し合っているかについて語っているのです。
覚えておきたいポイント
- イエスは、ユダが自分を裏切ることを知っているまさにそのときに、ユダを愛されます。キリストの愛は選択であり、相手次第で変わる感情ではありません。
- 浸したパン切れと、イエスの左側という名誉の席は、決して些細なことではありません。イエスはユダを立て、他の弟子たちの目からユダを守っておられるのです。
- イエスの愛は意図的です。求められてから応じるのではなく、先に動きます。一方であなたの愛は、相手が動き出すのを待つという点で、しばしば自己中心的です。
- 愛することの本当の原動力は、見返りを得ることではなく、神の栄光です。この動機がなければ、少し疲れただけで愛は簡単に手放されてしまいます。
- この戒めが新しいのは、その基準ゆえです。イエスが愛したように愛するとは、十字架に至るまで愛することです。この愛はあなたを子として迎え入れ、あなたのアイデンティティを形づくり、あなたがイエスに属していることを示す目に見えるしるしとなります。
個人適用
- 今のあなたの周りで、ユダの役割を演じているのは誰ですか。その人を遠ざけるのではなく、あなたの食卓の名誉の席へと招き入れる準備はできていますか。
- あなたの愛は反応的ですか(相手がニーズを表すのを待っている)、それとも意図的ですか(相手が求める前に、どう愛するかを先回りして考えている)。
- あなたが従順であろうとするとき、仕えようとするとき、その根底にある動機は何ですか。神の栄光ですか、人からの評価ですか、自分の良心の平安ですか、それとも見返りへの期待ですか。
- ヨハネが自分を何よりもまず「イエスに愛されていた弟子」として定義しているとすれば、今のあなたのアイデンティティを定めているのは何ですか。名前ですか、過去ですか、歩んできた道のりですか、それともキリストがあなたを愛しておられるという事実ですか。
- あなたは今、食卓と使命のどちらの側にいますか。食卓で受け取るばかりで何も返していませんか、それとも受け取ることなく使命へと出て行ってはいませんか。
引用された聖句
- ヨハネ 13:21-35(口語訳)
- ヨハネ 13:34-35(口語訳)、新しい戒め
- ヨハネ 13:1(口語訳)、最後まで彼らを愛された
- レビ記 19:18(口語訳)、隣人を自分自身のように愛せよ
- ローマ 5:8(口語訳)、私たちがまだ罪人であったとき、キリストは私たちのために死んでくださった
よくある質問
レビ記にすでにある戒めなのに、なぜイエスはこれを新しい戒めと呼ぶのですか。
新しいのは「愛しなさい」という命令そのものではなく、その基準です。34節でイエスは「互いに愛し合いなさい」と二度繰り返しています。前半と後半は同じことを述べているのです。新しさは、その真ん中に隠されています。「わたしがあなたがたを愛したように」という部分です。愛を測る物差しは、もはやあなたの内側にはなく、十字架にあります。愛するということは、これからはイエスの流された血という基準によって行われるのです。
ヨハネ13章で、イエスは具体的にどのようにユダを愛されたのですか。
三つのしぐさがあります。まず、ユダはイエスの左側、ユダヤの食事における二つの名誉の席のひとつに座っていました。次に、イエスが差し出す浸したパン切れは愛情のしぐさです。この文化では、パン切れを浸して客に手渡すことは、その客を立てることを意味しました。最後に、イエスはユダを公に名指しせず、他の弟子たちは誰のことを話しているのか分からないままでした。イエスは、自分を裏切ろうとしている者を、最後の瞬間まで守られたのです。
弟子にとって「食卓から使命へ」とはどういう意味ですか。
「食卓から使命へ」シリーズは、ヨハネ13章から17章を扱っています。その順序には意味があります。イエスはまずご自分の食卓に私たちを招き、その愛と恵みを受け取らせてくださいます。弟子としての歩みは、そこから始まるのです。しかし、食卓にとどまるだけで使命へと出て行かないなら、Quentinが言うように、知識と経験ばかりを溜め込んで太り、何も返さない人になってしまいます。信仰の成熟は、週に何回集会に出席したかではなく、受け取ったものをどれだけ人に返しているかで測られるのです。
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