はじめに
新しいシリーズが始まります。「天の国民、地に足をつけて」です。ここ数週間、牧師はイエス様がどのように御国について教えられたかを見てきました。今回は、この国の民がここで、周りの人々の中で、日々の生活の中でどう生きるべきかをイエス様が説明される箇所に入ります。
この最初のメッセージはマタイ7章1〜5節から語られます。シンプルですが心を揺さぶる問いかけです。天の国民は他人を裁く思いの中で生きているのでしょうか。牧師の答えははっきりしています。いいえ、です。そして、あなたが本当に天の国民であるなら、他人からの断罪はやがてあなたの人生において意味を持たなくなっていきます。一緒に見ていきましょう。
メッセージの構成
1. 「裁いてはいけない」――イエス様が本当に言おうとしていること
- マタイ7:1-2「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、あなたがたもさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、あなたがたも量られる。」これは相互性の原則です。あなたが他人に当てはめる基準は、あなた自身に返ってきます。
- 日本語で読んでも、すぐにこう思うかもしれません。判断力を捨てるべきなのか、聖なる無邪気さの中で生きるべきなのか、と。牧師は元の言葉に立ち返ります。使われている言葉は「裁く」という日本語よりも精密で、法的な意味での「断罪」を意味しています。有罪を宣告するということです。
- このニュアンスでもう一度読んでみましょう。「断罪してはいけません。断罪されないためです。」そうすると、すべてがはっきりします。誰も他人に断罪されたくありません。まして教会の中ではなおさらです。誰も裁かれるために礼拝に来たいとは思いません。
- それでも、誰かの裁きを感じると、ほとんど反射的にこう反応してしまいます。自分を裁んでいると思う相手を、逆に裁き返すのです。悪循環の始まりです。時には、見下されていると思った相手はただ疲れていて微笑まなかっただけかもしれません。それでも、螺旋は動き出してしまいます。
2. パリサイ人シモンと涙する女(ルカ7:36-50)
- イエス様はパリサイ人シモンの家に招かれます。宗教的で人望のある人物です。そこに一人の女性が入ってきます。素行の悪い女性です。彼女はイエス様の足元にひれ伏し、大粒の涙を流しながら、髪の毛でその足をぬぐい、絶えず口づけをします。
- 当時の文化では、これはまったくふさわしくないことでした。女性がこのように入ってきたり、このように触れたりすることはありませんでした。汚れた足に髪が触れることで、彼女は自分の名誉を落としているのです。食事の場は極めて気まずいものになります。どうやって食事を続けられるでしょうか。
- シモンは声には出しませんが、心の中で裁いています。この女性を、この状況を、そしてイエス様さえも。しかしイエス様はすべてを見ておられます。イエス様は二人の債務者のたとえを語られます。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリの借金がありました。どちらも返済できません。貸し主は二人とも借金を帳消しにしてあげます。「どちらが彼を多く愛するでしょうか。」シモンは正しい答えを言い当てます。
- そこでイエス様は場面をひっくり返されます。「この女が見えますか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水をくれなかった。しかし彼女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに口づけしなかった。しかし彼女は、わたしが入って来てからずっと、わたしの足に口づけしてやめなかった。彼女の多くの罪は赦されている。彼女が多く愛したからです。」(ルカ7:44-47)
- シモンはすべてを知っていると思い、裁く準備ができていました。しかし結局、本当の裁き主はイエス様でした。シモンは何も分かっていなかったのです。断罪するために裁くとき、その断罪は自分自身に降りかかってきます。
3. あなたの目の中の梁(マタイ7:3-5)
- 「なぜ、あなたは兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目の中の梁に気づかないのですか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えるようになり、兄弟の目にあるちりを取りのけることができます。」(マタイ7:3-5)
- この例えはあえて滑稽に描かれています。想像してみてください。シモンが目に梁を突き刺したまま歩いていて、何も見えていないのに、イエス様に身をかがめてこう言うのです。「待って、あなたの目に小さなちりが入っていますよ。」どうやってそのちりを見つけられるでしょうか。
- この梁とは何でしょうか。それは、心の中に断罪を抱えたまま相手を正そうとする動機そのものです。自分は十分に清く、聖く、よく見えていると思い込み、誰かを失格だと決めつけることです。
- 牧師はアイルランドのドラマ『バッド・シスターズ』(お勧めはしません)のあるシーンを紹介します。とても信心深い男が、物語の悪役にこう言います。「あなたを赦します。」悪役は爆発します。「あなたのような人間は、私のような人間を赦せない。なぜなら赦しは上から下へと流れるものだからだ。」これこそが梁です。自分を相手より上に置くことです。
- ダラス・ウィラードはこう言っています。「断罪は、それにつきものの怒りや軽蔑、自己正当化とともに、私たちを相手の現実に対して盲目にする。そして、断罪しない人になるまで、私たちは決して相手を本当に助ける方法を知ることができない。それだけのことだ。」
- 本当に誰かを助けたいなら、まず自分自身を吟味してください。自分の罪を相手に押し付けていないでしょうか。あなたは怒っていて、その怒りゆえに「助けたい」と思っているのではないでしょうか。もっと悪いことに、あなたは相手を見下してはいないでしょうか。怒りは感情です。しかしそれが軽蔑に変わるとき、あなたは完全に罪の中にいます。
- パウロはガラテヤ6:1でこう書いています。「兄弟たちよ。もしだれかがどんな罪であっても、それに陥っているのを見たなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しなさい。あなた自身も誘惑に陥らないように、自分に気をつけなさい。」
4. 天の国民が裁かない三つの理由
- 神が裁き主であられるから。 ローマ14:4「あなたはいったい何者なので、他人のしもべをさばくのですか。そのしもべが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかも、彼は立ちます。主が彼を立たせることがおできになるからです。」会場にいる誰も、神の座を奪いたいとは思いません。それでも私たちは、ほとんど自動的にそれをしてしまいます。神こそが正しい裁き主です。イエス様がシモンの心とあの女性の心を見ておられたように、神は心の内をご覧になります。神の裁きは完全です。私たちの裁きは、そうではありません。
- イエス様は救うために来られたのであって、断罪するために来られたのではないから。 ヨハネ3:17「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」教会はキリストのからだです。頭が救うために来られたのなら、からだが打ちのめすために来ているはずがありません。あなたはこの世でキリストを表しています。イエス様は、あなたのような、私のような、私たちのような人のために来てくださったのです。
- イエス様は、今この瞬間でさえ、あなたを断罪しておられない。むしろ、あなたのためにとりなしておられるから。 イエス様は父の右に座しておられます。あなたの陰口を言ってはおられません。父にこう言ってはおられません。「あの人はもう終わりだ。」いいえ。イエス様はあなたのために祈っておられます。とりなしておられます。そして、イエス様に似た者となるための唯一の力である御霊に頼るよう、あなたを招いておられます。他人からの断罪がもはや意味を持たなくなる人とは、イエス様に似始めている人のことです。
5. 無邪気でもなく、断罪的でもなく――天の国民の心
- 牧師はこう念を押します。これは目を閉じて悪が存在しないふりをすることではありません。天の国民は無邪気ではないのです。シリーズの続きで来週さらに掘り下げます。
- 天の国民は現実から目をそらしません。しかし隣人を助ける準備ができています。心に断罪を抱いてではなく、キリストの愛を心に抱いて助けるのです。
- それがゴールです。いつもそれができるとは限りません。誰もイエス様そのものではないからです。しかし、キリストにあって自分が何者であるか、そしてイエス様がどなたであるかを知ること。それこそが希望を与え、私たちの人生を変えるのです。
覚えておきたいポイント
- マタイ7:1の「裁く」という動詞が指すのは断罪であって、判断力ではありません。判断力そのものは健全なものです。しかし断罪は、それを行う者自身に返ってきます。
- パリサイ人シモンの家で、赦された女性は多く愛しました。多く赦されたからです。一方、心の中で断罪する裁き主は、その恵みを受け取ることができません。
- 梁とは、自分を相手より上に置くことです。それを取り除かない限り、あなたは兄弟を助けることはできず、傷つけることしかできません。
- 裁きから抜け出す三つの理由。神だけが裁き主であること。イエス様は救うために来られたこと。イエス様は私たちを断罪する代わりにとりなしてくださること。
- 天の国民は無邪気ではありません。悪を正面から見つめます。しかし助けるときは、キリストの愛によってであり、断罪によってではありません。
個人への適用
- この一週間を振り返ってみましょう。誰に対して心の中で断罪の言葉を発したでしょうか。同僚、兄弟姉妹、配偶者、「あまり真剣ではない」と思ったクリスチャン。今日、神に告白すべきことは何でしょうか。
- 今、あなたの目にある梁は何でしょうか。自分の中では大目に見ているのに、他人の中では許せない罪はないでしょうか。誰かを正そうとする前に、まずそれに名前をつけましょう。
- 誰かへの怒りが軽蔑に変わってしまってはいませんか。もしそうなら、立ち止まり、告白し、軽蔑が根を下ろす前にイエス様に自由にしていただくよう祈りましょう。
- もし本当に、罪に陥った兄弟を助ける必要があるなら(ガラテヤ6:1)、どのような心で臨みますか。柔和さ、謙遜さ、自分自身への警戒心を持って臨みますか。口を開く前に祈りましょう。
- あなたの人生は、救うために来られたイエス様、打ちのめすためではないイエス様を、どのように映し出していますか。今週、あなたの周りの誰かは、あなたから裁きの言葉ではなく恵みの言葉を聞く必要があるのではないでしょうか。
引用された聖句
- マタイ 7:1-5 ――「人をさばくな。自分がさばかれないためである……」
- ルカ 7:36-50 ――パリサイ人シモンの家で赦された罪深い女。
- ローマ 14:4 ――「あなたはいったい何者なので、他人のしもべをさばくのですか。」
- ガラテヤ 6:1 ――「柔和な心でその人を正しなさい……自分に気をつけなさい。」
- ヨハネ 3:16-17 ――「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
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よくある質問
「裁いてはいけない」とは、クリスチャンはもう道徳的な判断をしてはいけないということですか。
いいえ、違います。牧師は強調します。イエス様が使われた動詞が指すのは断罪であって、判断力ではありません。聖書はむしろ、教えを、自分自身の行いを、兄弟の状況を見極めるようにと私たちに求めています。イエス様が禁じておられるのは、優越した立場から相手に有罪を宣告することです。見極めることは良いこと、断罪することは違います。
本当に兄弟が罪の中にいるのを見たとき、どうすればよいでしょうか。
ガラテヤ6:1がその指針を与えてくれます。もし兄弟がどんな罪であっても陥っているのを見たなら、御霊の人は柔和な心でその人を正します。同時に、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけます。まず自分の梁を取り除きましょう。自分の心を吟味しましょう。それは怒りでしょうか。軽蔑でしょうか。自分自身の葛藤の投影でしょうか。それができて初めて、柔和さをもって関わりましょう。
裁きたくなる反射をどうすれば具体的にやめられますか。
牧師は二つの実践を提案します。まず、自己吟味です。なぜその罪が自分をこれほど動揺させるのか。自分でも気づかずに同じことをしていないか。次に、目をイエス様に向け直すことです。イエス様はあなたを断罪せず、父の右で今もあなたのためにとりなしておられます。この恵みを受け取れば受け取るほど、他人からの断罪があなたの心を占める余地は小さくなっていきます。
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