石が語る、変革から継承への道

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はじめに

ダビデとゴリアテについての説教を聞いたことがない人はいないでしょう。あなたもきっとたくさん聞いてきたはずです。けれども、ステファン・ブルゴスによるこのメッセージは、少し違った角度からこの物語を見つめます。ダビデについてもゴリアテについてもほとんど語らず、代わりに「石」について多くを語るのです。私たちは石のことを忘れがちです。しかし石は、川底から巨人の額に至るまで、ひとつの完全な道のりを歩んでいます。そしてその道のりは、あなた自身の歩みに驚くほど似ているのです。

出発点となる聖句はサムエル記第一 17:40です。「彼は手につえを取り、川から五つの滑らかな石を選んで、羊飼いの持ち物である袋、すなわち携え袋に入れ、手には石投げ器を持って、ペリシテ人に近づいて行った。」少し先のサムエル記第一 17:50-51では、ダビデはたった一つの石でゴリアテを打ち倒し、その剣で首を切り落とします。

ステファン・ブルゴスは、この最初の箇所に、いわば羅針盤のようなもう一つの聖句を最初から重ねます。テモテへの手紙第二 2:2です。パウロはテモテにこう書いています。「多くの証人たちの前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人々に委ねなさい。」ここには四つの世代が登場します。パウロ、テモテ、忠実な人々、そしてその後に続く人々です。変革と継承は、共に歩んでいくものなのです。これが、このメッセージの約束です。

説教の流れ

1. 川底の粗い石:みことばがあなたを磨く

どんな石も、最初から磨かれて生まれてくるわけではありません。もともとは山から切り離された岩の欠片であり、川底に落ちたばかりのものです。ごつごつして、形も整わず、くぼみや尖った部分だらけです。しかし時が流れ、水の流れが働き、石同士がこすれ合ううちに、いつしか滑らかになっていきます。これはひとつの過程なのです。神の子として生まれてくる人は誰もいません。みことばを聞くことによって、そうなっていくのです。

回心する前のあなたは、まさにこの粗い石でした。世に、罪に、そして自分自身の奇妙な形に縛られていたのです。もし今日、あなたが教会に通い始めたばかりで、まだ自分がごつごつしていると感じているとしても、上手に祈り、上手に賛美し、聖書をよく知っている人たちを見て気後れする必要はありません。例外なく誰もが、最初は粗い石の状態を通ってきたのです。彼らの誰もが、ある日主に出会い、主が恵みを示してくださったと証言するでしょう。

川とは、教会の集まりのことです。水の流れは決して止まりません。あなたはみことばを受け、それに削られていきます。磨いてくれるのは、どんなことばでもよいわけではありません。御霊の油注ぎのもとで語られる神のことば、真理のことば、あなたの心に直接語りかけることばです。インターネットで自分の好きなメッセージだけを選ぶことも役には立つでしょう。けれども、神が教会に置かれた人々を通して与えてくださることばを、そのまま受け止めることのほうがずっと大切です。ダビデが石を探したのも、村の家々の中ではなく、まさにこの川の中でした。家に閉じこもっていることは、解決策ではなく罠なのです。

2. 携え袋:仲間と共に仕え、神に人格を形づくっていただく

ダビデの手が川に差し込まれ、五つの滑らかな石を選び出し、それを携え袋、つまり羊飼いが身につけている小さな革の袋に入れます。ここでは石の数は少なくなり、互いの距離も近くなり、それでもこすれ合いは続きます。ただし、今度こすり合わせるのは水ではなく、それぞれの性格です。これは、あなたが教会で奉仕を始める段階に当たります。

あなたは、自分より経験を積んだ兄弟姉妹の隣で働くことになります。彼らはあなたにいろいろなことを教えてくれるでしょう。時には指摘されることもあるでしょう。自分に合わない性格の人や、いらだたしい習慣を持つ人にも出会うはずです。感謝されないまま努力を重ねることもあるでしょう。来ないかもしれない「ありがとう」を待つこともあるでしょう。しかしこうした時こそ、神が謙遜を育て、あなたのうちにあるプライドを砕き、異なる強さと弱さを持つ人々と協力することを教えてくださる時なのです。

この段階での危険は、こすれ合いが少し辛くなった途端に立ち去ってしまうことです。奉仕先や教会を渡り歩く人たちがいます。彼らは自分が御霊に導かれていると思い込んでいますが、実際には、神が自分の性格に働きかけようとしている作業から単に逃げているだけなのです。石は携え袋の中にとどまります。逃げ出したりしません。あなたも同じように、そこにとどまってください。たとえそれが困難であっても、たとえ誰も褒めてくれなくても、たとえ関係が理想的でなくても。こうした兄弟姉妹たちは、神があなたの周りに置いてくださった学び舎なのです。

3. 石投げ器:孤独と隠された備えの季節

ダビデの手が再び戻ってきて携え袋からあなたを選び出すとき、あなたはついに自分の時が来たと思うでしょう。しかし、まだそのときではありません。石は、ひとつの隠された場所から、もうひとつの隠された場所、つまり石投げ器へと移っていきます。川の中には無数の石がありました。携え袋の中には五つの石がありました。石投げ器の中には、あなた一人しかいません。

これは、神があなたとの親密な時を求められる季節です。イエスはご自分の宣教を荒野で始められました。ヤコブは家族も、しもべたちも、家畜の群れも先に行かせ、自分だけがひとり残りました。そのときはじめて、神は彼の名を変えられたのです。愛する人よ、あなたにも孤独が必要です。神はあなたをご自分だけのものとして取り分けるために、ある交わりから引き離されることがあります。ご自身が直接教えるために、あなた以外の誰にも明かされないことを明かすために。真の成熟は、御顔の前での黙想とみずから選び取る孤独の豊かさを発見するところにあります。

やがて石投げ器が回り始めます。めまい、吐き気、霊的な頭痛。あなたはそれを悪魔のせいにするかもしれませんが、実は投げる準備をしておられるのは神ご自身です。神は計算し、先を見越し、状況を作り出しておられます。ローマ人への手紙 8:28が語るとおり、神を愛する者たちのためには、すべてのことが益となるように共に働くのです。目が回るからといって、石投げ器から降りてはいけません。今こそみことばを保ち、啓示を受け取り、神がその手の動きを研ぎ澄ませてくださるのを待つときです。なぜなら、一度石が放たれてしまえば、もう取り戻すことはできないからです。

4. 空を飛ぶとき:あなたの働きが人の目に見えるようになる

ある日、石は空へと放たれます。あなたの召しと働きが、すべての人の目に明らかになるのです。しかし、神が高い場所のために石を形づくられたのは、空を飛んでいるときではありません。その備えは川の中で行われていました。そこであなたはみことばを受け、謙遜を学び、従順を学び、砕かれることを学んだのです。空を飛ぶときには、あなたはただ、川があなたのうちに置いたものを生きるだけなのです。

空の中で、あなたは新しい世界に出会います。これまで出会ったことのない別の霊的な力、誘い、誘惑、申し出です。もしこの時、悪魔があなたのうちにまだ少しでもごつごつした部分を見つけたなら、それを徹底的に利用しようとするでしょう。そうなれば、あなたの軌道は逸れてしまうかもしれません。よく形づくられていない石は、空気を切り裂くことができません。巨人の額を外してしまいます。だからこそ、神はその前に、あなたの人格をこれほどまでに深く扱われるのです。

そして石がついにゴリアテの額に届いたとき、よく注意してください。石は消えてしまうのです。巨人の脇の地面にその石を見つけることはできません。人々がダビデを見つめるようにと、石は姿を消すのです。あなたが自分の使命にたどり着いたとき、「これは自分の知恵だ」「これは自分の功績だ」「これは自分の力だ」と言ってはいけません。こう言うのです。「これはイエスさまです」と。パウロとバルナバは、人々が自分たちに神の栄光を帰そうとしたとき、自分の衣を引き裂きました。イザヤ書 6章のセラフィムたちは、御座に座っておられる方だけを見つめてもらうために、自分の顔を覆っています。それと同じ道です。

5. 剣と継承:あとに続く人々を備える

ゴリアテが倒れたとき、ダビデは石を拾い上げません。彼は巨人の鞘から剣を引き抜き、首を切り落とします。もはや勝利を完成させるのは石ではなく、剣なのです。そしてこの剣もまた、隠された器から出てきたものでした。剣には剣自身の道のりがありました。川ではなく、鍛冶場。水ではなく、火。携え袋ではなく、鞘。それぞれに、それぞれの学び舎があるのです。

これが継承の原則です。パウロがテモテを育てます。テモテが忠実な人々を育てます。その忠実な人々が、また別の人々を育てます。四つの世代です。石は、剣がバトンを引き継ぐための土台を整えました。石は立っている巨人と対峙し、剣は倒れた巨人と対峙しました。それでも剣には剣なりに果たすべき使命があったのです。

霊的な病とは、石が剣と協力することを拒むときに起こります。年上の世代がこう言うときです。「あなたは私のように苦しんでいない。私のような経験もない。私のような神との親密さもない。」石は剣に、こう言うべきなのです。「私はあなたが私よりも苦しむためではなく、私よりも遠くまで行くために苦しんできたのです。」その一方で、剣もまた、石がゴリアテの額に残した印を決して消し去ってはいけません。受け継いだ幻や、伝えられた教えを否定してはならないのです。それぞれに、それぞれの使命があります。石は額を打ち、剣は首を切り落とします。神は両方をあらかじめ備えておられたのです。

ステファン・ブルゴスは言います。もっとも高い霊的成熟とは、愛であると。それは、あなたに感謝しないかもしれない世代のために、代価を払うことを受け入れることです。それは、他の人々があなたの受け継いだものに入り、あなたよりも遠くまで進んでいくのを受け入れることです。アブラハムはイサクを受け取ると信じていましたが、神はイエス・キリストを備えておられました。あなたの祝福は、あなただけのためのものではありません。あなたのあとに来る人々のためのものでもあるのです。

覚えておきたいポイント

  • クリスチャンの成熟は、川、携え袋、石投げ器、飛翔、消失というひとつの過程をたどります。
  • 川とは教会の集まりのことです。家に閉じこもることは、優れた霊的選択ではなく、罠です。
  • 携え袋は兄弟姉妹とのこすれ合いによってあなたの人格を形づくります。少し辛いからといって、すぐに離れてはいけません。
  • 石投げ器は神との孤独の季節を課します。めまいは多くの場合、攻撃ではなく、神の備えから来ています。
  • 真の成熟とは、次の世代を備え、その世代が自分よりも遠くまで進むのを見て喜ぶ愛のことです。

自分に問いかけてみよう

  1. あなたは今、どの段階にいるでしょうか。川、携え袋、石投げ器、それとも飛翔でしょうか。そこで神は、あなたのうちに具体的に何を形づくろうとしておられるでしょうか。
  2. 「こすれ合いがつらいから」という理由で、離れたいと思っている奉仕やチーム、教会はありますか。もし主に、そこにとどまってほしいと願っておられるかどうか尋ねたなら、主は何とお答えになるでしょうか。
  3. 予定も目的もなく、ただ神の御前を求めるためだけに、神と二人きりの時間を最後に持ったのはいつでしょうか。
  4. 霊的な実りがあなたの人生に訪れたとき、心の中で最初に浮かぶ言葉は「私が成し遂げた」でしょうか、それとも「これはイエスさまです」でしょうか。
  5. あなたは今、誰を、自分よりも遠くまで行けるように育てているでしょうか。今週、その人に何を伝えることができるでしょうか。

引用聖句

よくある質問

なぜこの説教は、ダビデよりも石について多くを語るのですか。

サムエル記第一 17章の物語の中で、石はクリスチャンの人生を映し出すひとつの完全な道のりをたどっているからです。最初はごつごつしていて、川の中で磨かれ、携え袋の中で選ばれ、石投げ器によって放たれ、そして勝利の瞬間に姿を消します。ステファン・ブルゴスは、ダビデだけを見ていると、神が霊的な成熟と、成功に伴う謙遜について教えておられることすべてを見逃してしまうと指摘しています。

教会の集まりなしに、自分ひとりで信仰生活を送ることはできますか。

この説教は、はっきりと「できません」と答えています。川とは教会のことです。そこはみことばがあなたを磨き、兄弟姉妹とのこすれ合いによってあなたが形づくられ、神が微笑みや眼差し、祈りを通して語りかけてくださる場所です。インターネットで自分の好きなメッセージを選ぶことにも意味はあるかもしれません。しかしそれは、神が教会を通して与えてくださることばをそのまま受け止めることに代わるものではありません。

自分が神から託された使命に対して備えができているかどうか、どうすれば分かりますか。

異言を語ること、感じられる油注ぎ、あるいは奇跡でさえも、あなたが備えられていることの証拠にはなりません。備えは、飛翔の前に、川の中で、携え袋の中で、そして石投げ器の中で行われます。真の備えのしるしとは、磨かれた人格です。謙遜、従順、他の人々と共にとどまる力、そしてイエスさまが見られるために自分が姿を消す力です。この形が整っていなければ、軌道は逸れてしまいます。

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