はじめに
「しかしシオンは言った、『主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた』と。」イザヤ書49章の民は、神に見放されたように感じています。Timothée O.は、これは私たち自身の思いでもあることがあると語ります。「困難な状況を通り、苦労が続き、次から次へと問題が起こって、終わりが見えないように感じることがあります。」
Assemblée Évangélique de Strasbourgでは、イザヤ書を順に読み進める講解が続いています。49章1節から13節の後、説教者は14節から読み始め、26節まで読みました。
説教者の勧めは一言にまとめられます。「神はあなたを忘れていません。」そのことを確信するために、三つの保証が語られます。イエスはあなたを愛しておられる。イエスはあなたを解放してくださった。イエスは再び来られる。
メッセージの流れ
1. イザヤ書、いくつもの層が重なる書
- Timothée O.がイザヤ書の後半を好きな理由は、いくつものことが重なり合っているからです。神はイザヤの時代の民に語り、捕囚からの帰還を告げ、メシアの初臨について語り、ときには同じ箇所でキリストの再臨についても語っておられます。
- 神はある一時点の民にだけ語っているのではありません。さまざまな世代に語ろうとしておられ、その預言は終わりの時にまで及びます。
- イザヤ書49章14節から26節は、イスラエルの回復を語っています。しかし箇所の終わりを見ると、捕囚からの帰還だけが問題なのではありません。神の国に入ること、そして神が敵対する国々と戦う最後の戦いが語られています。
2. 「主はわたしを捨てられた」、民の戸惑い
- この箇所は嘆きから始まります。民はバビロンに連れ去られ、過酷な支配のもとにあり、エルサレムは荒れ果てています。民にとって、神は何も反応せず、何も語らず、何もしておられないように見えます。
- 根本にあるのは、神の愛への疑いです。「神はわたしのことなど気にかけていない。わたしには神の目に価値がないから、こんな状況に放っておかれるのだ。」
- 何が私たちに神の愛を疑わせるのでしょうか。まず、神の沈黙や何もしてくださらないことです。病気や厳しい試練が何か月も、ときには何年も続きます。祈り、なぜかと尋ねても、何も変わりません。
- さらに進むと、こう思うこともあります。「神はわたしに何か不満があるのだろうか。ほとんど敵のようになっておられるのではないか。」ヨブは誠実で正しい人で、神を否定することはありませんでした。それでも戸惑いの中で、神の怒りが自分を引き裂くと言うに至りました(ヨブ記16:9)。
- 神の懲らしめもあります。イスラエルが捕囚となったのは、罪のためです。民はおそらくこう考えたでしょう。「わたしたちはやりすぎた。神の愛を受けるにふさわしくない。」私たちも、「本当にひどいことをしてしまった。もう取り返しがつかない。神がわたしを愛せるはずがない」と思うことがあります。
3. 第一の保証:イエスはあなたを愛しておられる
- 神はひとつの例えで答えます。「女がその乳のみ子を忘れて、その胎の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは決してあなたを忘れることはない。」
- 母親は子どもを九か月間おなかの中で育てました。その子を腕に抱くとき、愛さずにはいられないほどです。説教者は、自分の娘が生まれたときのことを思い出して言います。「言葉では表せないほどの愛にあふれました。」
- たとえそうした自然な愛が欠けることがあっても、神は愛しておられます。母親の愛を知らなかった方、両親から愛を示されなかった方もいるかもしれません。神は、状況にも、あなたがした良いことや悪いことにも左右されない愛であなたを愛しておられます。無条件の愛です。
- この愛の証拠は、十字架で死なれたイエス・キリストです。「しかし、まだ罪人であったとき、わたしたちのためにキリストが死んでくださったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された」(ローマ人への手紙5:8)。父なる神は御子を犠牲にする備えがあり、御子は私たちのために自らを献げる備えがありました。
- 「見よ、わたしはたなごころにあなたを彫り刻んだ。」彫り刻んだものは、長く残るためのものです。消せる黒板の書き込みとは違います。しかもそれは神の手の上にあります。そこは安全な場所です。ヨハネによる福音書10章27節から30節で、父と子が羊を御手の中に守っておられるとおりです。
- 木にハートと自分のイニシャルを彫る人がいます。けれども木は切り倒されることもあり、枯れることもあります。神の手に彫り刻まれているということは、「長く残るように作られたもの」なのです。
- 「あなたの石がきは常にわたしの前にある。」神はあなたの人生を、あわれみをもって見ておられます。神が動かれるまでに時間がかかっても、それは神が遠くにおられる、あるいは目を閉じておられるという意味ではありません。神はあなたが通っていることに目を留めておられます。
4. 第二の保証:イエスはあなたを解放してくださった
- 17節から23節で、神は民に、エルサレムに帰り、その地に再び人が満ちると告げます。捕囚の民にとって、この宣言は理屈に合わないものに思えます。エルサレムは破壊され、キュロスはまだ権力の座になく、解放のしるしはどこにもありません。民は「もう限界」の状態でした。
- それでも神は「あなたがたを解放しよう」と言うだけでは終わりません。実際にはこう語っておられます。「わたしはすでにあなたがたを解放した。わたしの解放は確かである。」
- それは動詞の時制に表れています。「あなたの子らは急いで帰る」は現在形で、「あなたを荒した者はあなたを去る」は未来形です。「目をあげて、あたりを見よ。彼らはみな集まって」と神は言われます。神は未来をすでに現在のことのように見ておられます。それは神の心の中ですでに決まっているからです。
- 私たちにとっても、これはイエス・キリストにある現実です。イエスが私たちの身代わりに死に、私たちの罪を負ってくださったことを受け入れるとき、私たちは解放され、罪に対して「いいえ」と言う力を受けます。
- それでも、戦い続けている罪が残っていることがあります。「あの罪は、キリストより強いように思える。神はわたしをそのままにしておられる」と思ってしまいます。それは神の現実ではありません。神の目には、解放はすでに成し遂げられており、いつかあなたもそれを経験します。
- 変わるのを待っている試練や状況についても同じです。「十字架で、イエスはすべてを成し遂げられました。」解放の一部だけを支払われたのではありません。解放がまだ確かでないと考えると、あきらめて、戦うのをやめてしまいます。
- パウロはこの確信を持っていました。「わたしは、ししの口から救い出された。主はわたしを、すべての悪のわざから救い出し、天にある御国に入れるまでに救ってくださるであろう」(テモテへの手紙二4:17-18)。パウロは、経験した解放を振り返り、これから来る解放を見つめて、少しも疑っていません。
5. 第三の保証:イエスは再び来られる
- 22節から26節は、この箇所の射程が捕囚からの帰還を超えていることを示しています。19節と20節は、あまりに多くの民が戻って場所が狭くなると告げています。「捕囚からの帰還の現実は、そうではありませんでした。」むしろ余裕があったのです。
- 敵との戦い、新しいぶどう酒に酔うように自分の血に酔う迫害者たち。これらの表現は、黙示録19章の、小羊に敵対する者たちとの最後の戦いに重なります。この箇所はキリストの栄光の再臨を指し示しています。
- 神は民に、自分の状況や「ささやかな解放」だけを見るのではなく、メシアがもたらす最後の勝利を見るよう招いておられます。イエスの再臨は諸国民に関わりますが、イスラエルにも関わり、イスラエルがイエスをメシアと認めるためでもあります。
- この主題で説教者が特に好きな書のひとつがゼカリヤ書です。エルサレムはすべての民にとって、よろめかせる杯となり、重い石となります(ゼカリヤ書12:1-3)。神はダビデの家に、恵みと祈願の霊を注がれます(ゼカリヤ書12:10)。
- ゼカリヤ書14章では、主はエルサレムに攻め寄せる国々と戦われます。その足はオリブ山の上に立ち、山は真ん中から裂けます。主に敵対する者たちにとっては恐ろしい日となります。イエスが定められたことを成し遂げるのを、だれも妨げることはできません。
- 今日、多くのクリスチャンが信仰のために苦しみ、命を落としています。迫害指数がそれを示しています。家族から拒まれた人は、「あなたはわたしを忘れたのですか」と尋ねるかもしれません。神は忘れないと答えておられます。今は事を許しておられても、必ず介入されます。
- 諸国民にとっては恐ろしい日になります。私たちにとっては、キリストとともに迎える栄光の日です。「そして、すべての人は、主なるわたしがあなたの救主、あなたのあがない主、ヤコブの全能者であることを知るようになる。」「これが私たちの主です。これこそ、私たちが持っている救い主です。」
要点
- 試練の中での神の沈黙は、神があなたを忘れたという意味ではありません。あなたの石がきは常に神の前にあります。
- 神の愛は、母親が乳のみ子に注ぐ愛を超えています。その証拠は十字架であり、あなたは神の手に彫り刻まれています。
- 十字架で、イエスはすべてを成し遂げられました。あなたがまだ見ていない解放も、神の目にはすでに確かなものです。
- イザヤ書49章は、バビロンからの帰還の向こうに、キリストの勝利の再臨を見つめています。
- 神がみことばを成就されるのを、だれも妨げることはできません。イエスが再び来られる日は、私たちにとって栄光の日となります。
個人的な適用
- どんな状況の中で、「神はわたしを見捨てた、神はわたしを忘れた」と思ったり、口にしたりしましたか。
- あなたが神の愛を最も疑ってしまうのは何ですか。神の沈黙、長引く試練、それとも行き過ぎてしまったという思いでしょうか。
- どの罪や戦いを、キリストより強いと思うようになりましたか。その戦いを神の目で見るには、どうすればよいでしょうか。
- 解放が来るのが見えなくて、あきらめてしまったことはありませんか。
- イエスの再臨は、今日の試練の中であなたを支える具体的な希望になっていますか。
引用された聖句
- イザヤ書 49:14-26
- ヨブ記 16:9
- ローマ人への手紙 5:8
- ヨハネによる福音書 10:27-30
- テモテへの手紙二 4:17-18
- ヨハネの黙示録 19
- ゼカリヤ書 12:1-3
- ゼカリヤ書 12:10
- ゼカリヤ書 14:1-6
- ゼカリヤ書 14:12-13
よくある質問
イザヤ書49章16節の「わたしはたなごころにあなたを彫り刻んだ」とはどういう意味ですか。
Timothée O.によれば、彫り刻んだものは長く残るためのものであり、消せる黒板の書き込みとは違います。しかもそれは神の手の上にあり、そこは安全な場所です。ヨハネによる福音書10章で、父と子が羊を御手の中に守っておられるとおりです。神の手に彫り刻まれているということは、あなたへの神の愛が消えることはないという保証です。
なぜ神は、まだ未来のこととして残る解放を現在形で語るのですか。
イザヤ書49章17節から18節で、神は現在と未来を混ぜて語っておられます。あなたの子らは急いで帰り、あなたを荒した者は去っていきます。神は未来をすでに現在のことのように見ておられます。解放はすでに神の心の中で決まっているからです。私たちにとって、これは、十字架でイエスがすべてを成し遂げられたということ、まだ自分の人生に見えていない解放も含めてそうだということです。
イザヤ書49章は、捕囚からの帰還だけを語っているのですか。
いいえ。説教者は、バビロンから戻った民がその地で狭さを感じたことはなく、むしろ余裕があったと指摘します。敵との戦いと、新しいぶどう酒のように飲まれる血(26節)は、黙示録19章に重なります。この箇所は、キリストの勝利の再臨を指し示しており、そのとき、すべての人が主を救い主、あがない主と知るようになります。
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