はじめに
今週の日曜礼拝は、ヨナ書1:17を引用する祈りから始まります。「主は大きな魚を備えて、ヨナを飲み込ませられた。ヨナは三日三晩、その魚の腹の中にいた。」続いて説教者は、つい先ごろ行われた修養会の一週間、沼津と横浜の教会で最近行われたバプテスマ、そして先週の木曜日に主のもとに召された母マリコの記憶に触れます。そのうえで彼はヨナ書を開き、とても単純な問いを投げかけます。あなたは自分が正しいと思うことを行っているのか、それとも主が正しいと見なされることを行っているのか。それこそが申命記12章の中心的な問い、すなわち「あなたは主の目にかなう正しいことを行わなければならない」ということであり、まさにヨナの物語そのものなのです。
説教の構成
1. ニネベに行くよう召された、愛国的な預言者ヨナ
- ヨナは無名の人物ではありません。列王記第二14:23-25は、彼を有力な預言者として紹介しています。彼のことばによって、ヤロブアム二世は、ダビデとソロモンの時代にあった北王国の国境を取り戻すことができました。彼は自分の民、イスラエルに深く愛着を持つ「愛国的な預言者」です。
- だからこそ、神が彼に、東にあるニネベに行き、その民に悔い改めを告げるよう命じられたとき、彼の内側全体が反発します。ニネベとは、東方にあるアッシリア帝国の首都です。そのアッシリアは、まさに北王国イスラエルへの侵攻を目論んでいました。数十年後、実際にそれを実行することになります。ヨナにとって、ニネベは救われるべき町ではなく、滅びるべき町なのです。
- ここに対立が生まれます。神は「行け」と言われます。ヨナは心の中でこう思います。「私にとっての正義とは、ニネベが滅ぼされることだ。」そして彼は、神の正義よりも自分自身の正義を選び取ります。
2. 逃走、正反対の方向へ180度
- ヨナは立ち上がり、タルシシュへと向かいます。まさに正反対の方向です。タルシシュは、今日のスペインに当たる地中海の港町です。文字どおり、東に受けた使命から西へ180度反対の方向です。
- 説教者は、この物語が明らかにする人間の弱さを強調します。ヨナはひとりです。彼にはダニエルのように、ともに祈り、識別してくれる仲間がいません。もし兄弟がいたなら、こう言えたかもしれません。「ヨナよ、あなたが自分の民を愛する気持ちは分かる。しかし神は、あなたの考えよりも大きな計画を持っておられる。行きなさい。」彼には誰もいません。そして彼は、神とは正反対の方向へと走り去っていきます。
- ヨナ書1章では、「主の御顔を離れて逃げる」という表現が三度使われています(3節で二度、10節で一度)。これは、創世記3:8-9で使われているのとまったく同じ語彙です。罪を犯した後、アダムとエバは、園を歩まれる神の御顔から身を隠します。神の御顔から逃げること、それは天地創造の初めから変わらない、罪の最初の反射的な反応なのです。それは単なる不従順ではなく、神のまなざしから自分を逃がすことなのです。
3. 嵐、それでも語り続ける神
- ヨナ書1:4。「主は海に激しい風を吹きつけられたので、海は大荒れとなった。」神はヨナをそのまま静かに立ち去らせません。神は彼を追いかけていきます。
- その対比は際立っています。異教徒である船乗りたちは恐怖に駆られ、積み荷を投げ捨て、それぞれが自分の神に叫び求めます。一方ヨナは、船底に降りて深く眠り込んでいます(5節)。「もう誰がクリスチャンなのか分からなくなる」と説教者は語ります。この世の人々は滅びまいと必死に戦っているのに、生ける神の預言者は眠っているのです。
- ある意訳(『リビング・バイブル』)は5節をこう訳しています。「彼は主から身を隠すために、船の暗い船底に降りていった。」隠れること、これもまたアダムの仕草です。ヨナの眠りは、単なる休息ではなく、神の臨在から逃れる一つの方法なのです。
- それでも神は語り続けられます。彼を起こしに来る船長を通して。彼にくじが当たるという出来事を通して。乗組員たちの切迫した問いかけを通して。神は沈黙されません。イエスがエルサレムから離れていく二人の弟子たちに、エマオへの道でそれとは気づかせずに寄り添われたように(ルカ24:13-35)、神は私たちがまだ知らないうちから、私たちのそばを歩いておられます。イスカリオテのユダにさえ、最後の時まで語りかけておられたのです。
4. 「私を海に投げ込んでください」:方向を変えぬまま真実を認める
- 問い詰められたヨナは、ついに真実を語ります。すべては自分のせいだと。彼は解決策まで提案します。ヨナ書1:12。「私を捕らえて、海に投げ込んでください。そうすれば海は静まるでしょう。」
- これは目まいがするような瞬間です。ヨナは自分が間違っていることをよく分かっています。彼はそれを認めます。それでも彼は、方向転換だけは決してしようとしません。彼はニネベに行くよりも、死ぬほうを選びます。ここに「私自身の正義」がどこへ人を導くかが表れています。真実を見ることができ、それを言い表すことができても、それでもなお、そこにしがみつくことがあるのです。ある罪が自分を蝕んでいることを知りながら、方向を変えないまま、それとともに生きてしまうことがあるのです。
- 説教者は、悔い改めとは単に自分の罪を悲しむことではないと語ります。それは心の向きを変えることです。振り返ることです。イエスの十字架を信じることです。神のもとに立ち返り、それを神の前ではっきりと言い表すことです。彼は最近、沼津と横浜の朝の礼拝でそれを行い、救いの喜びを分かち合った二人の兄弟、竹内とソルのことを語ります。この方向転換は、誰もあなたに代わって行うことはできません。
5. 魚:神は救いの手段を備えられる
- 船乗りたちはしぶしぶ、ヨナを海に投げ込みます。すると本文はこう述べます。「主は大きな魚を備えて、ヨナを飲み込ませられた」(ヨナ書1:17)。この魚は罰ではありません。それは救いの手段です。神はヨナを滅ぼそうとしているのではなく、彼を取り戻そうとしておられるのです。
- 「神は、ヨナを苦しめるために魚の中に導かれたのではなく、彼を救うために導かれたのです。」大きな魚とは、三日三晩の暗闇であると同時に、彼がなおも愛されている証しでもあるのです。
- イエスご自身が、マタイ12:38-41でこのしるしを取り上げておられます。「ヨナが三日三晩、大きな魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいることになります。」そして彼は付け加えます。「ここに、ヨナにまさるものがある。」ヨナの物語は、すでに一つの福音です。それは、もはや型としてではなく、私たちの救いそのものとしてのキリストの死と復活を予告しているのです。
覚えておきたいポイント
- 神の御顔から逃げることは、アダム以来変わらない罪の最初の反射的な反応です。それに気づくことは、すでに立ち返りの始まりです。
- 私たちの心の中で正しいと思えることが、必ずしも神が正しいと見なされることではありません。ヨナは自分の民を愛していましたが、神はヨナよりも遠くをご覧になっていました。
- 霊的な孤独はあなたを危険にさらします。ともに祈り、正してくれる兄弟姉妹がいなければ、あなたはニネベよりもタルシシュへと簡単に向かってしまいます。
- 自分の罪を認めるだけでは十分ではありません。悔い改めとは、方向を変えることです。十字架を信じ、それを神の前ではっきりと言い表すことです。
- 神の「大きな魚」は、あなたを滅ぼすためのものでは決してなく、あなたを連れ戻すためのものです。そしてヨナの背後には、すでに死んでよみがえられたイエスの姿が見えているのです。
個人への適用
- あなたは今週、どこで神の御顔から逃げていますか。眠りによって、画面によって、仕事によって、忙しさによって。
- 神があなたに「行きなさい」と言われている具体的な事柄は何ですか。それに対して、あなたは心の中で「むしろタルシシュのほうがいい」と答えていませんか。なぜでしょうか。
- 正反対の方向へ向かってしまう前に、神があなたに求めておられることを話せる兄弟姉妹はいますか。
- あなたは「自分の罪を認めること」と「悔い改めること」を混同していませんか。今週、神があなたに期待しておられる具体的な方向転換とは何ですか。
- 今あなたが通り抜けている「大きな魚」、それは試練であれ、沈黙であれ、行き詰まりであれ、それは罰というより、神があなたを救うために用いておられる手段なのではありませんか。
引用聖句
- ヨナ書1章・ヨナの逃走、嵐、大きな魚。
- 申命記12章・「あなたは主の目にかなう良いことと正しいことを行わなければならない。」
- 創世記3:8-9・人とその妻は主の御顔を避けて身を隠した。
- 列王記第二14:23-25・ヤロブアム二世の時代における北王国の預言者ヨナ。
- ルカ24:13-35・イエスはそれと気づかせずに、エマオへ向かう弟子たちのそばを歩まれる。
- マタイ12:38-41・ヨナのしるし。三日三晩、キリストの死と復活。
FAQ
ヨナは本当に魚に飲み込まれたのですか。
イエスご自身がこの物語を真剣に受け止め、ご自分の死と復活のしるしとしてお用いになっています(マタイ12:38-41)。説教者にとって大切なのは、魚の種類を議論することではなく、神がこの物語を通してなさることを受け取ることです。神は逃げていた一人の人を救い、そして、キリストにあってやがて来る、さらに大きな救いを予告しておられるのです。
ヨナは神を知っていたのに、なぜニネベに行くことを拒んだのですか。
彼は愛国的な愛をもって自分の民を愛しており、ニネベをイスラエルを滅ぼす未来の存在と見ていたからです。彼自身の正義はこう告げます。「この者たちは滅びて当然だ。」神の正義はこう告げます。「わたしは彼らを救いたい。」この説教は、ヨナの不従順が、誠実ではあっても部分的な確信から生まれたものであり、神が私たちの枠組みよりも大きい方であるという啓示によってのみ正されることを示しています。
この物語は今日、私にどう語りかけているのですか。
それは「私が正しいと思うこと」と「主が正しいと見なされること」を区別するよう、あなたに迫ります。それは、神の御顔から逃げることがあなたよりも古くからあるものだと示しつつ、それでも神は語ることをやめず、あなたを連れ戻すために「大きな魚」さえ備えてくださることを示します。それは、あなたに具体的に立ち返るよう、そのことを兄弟姉妹に話すよう、そして自分自身の正義よりもイエスの十字架を信頼するよう招いています。
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