創世記26章:井戸をふさがれても、神はあなたとともにおられる

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はじめに

ある子どもが巨大なパズルの最後の1ピースをはめて、飛び上がって喜び、その拍子にパズル全体をひっくり返してしまいます。何時間もかけて準備した発表資料が、パソコンの故障で消えてしまいます。もしそれが、同僚がコンセントを抜いたせいだったら、あるいは弟が手のひと振りで、あなたが時間をかけて築いたものを崩したのだったらどうでしょうか。Église Évangélique Libre de Lyon の日曜礼拝のこの説教は、こうした情景から始まります。

「規模の違いはあっても、イサクにも少し似たことが起こります」。説教者はイサクの生涯の連続説教を、創世記26章で続けます。イサクは祝福されて豊かになり、それをねたんだペリシテびとたちが、父アブラハムの時代に掘られた井戸をふさぎます。このメッセージは、その朝バプテスマを受けた教会の青年にも向けられています。

問いかけはシンプルです。私たちの命がよりどころにしている水源を、ほかの人がふさぎに来たとき、私たちはどうするのでしょうか。説教者によれば、イサクの物語は「いくつかの小さな白い小石、いくつかの小さな真珠」を残してくれます。それを首飾りやブレスレットのようにつないで、身につけることができるのです。

メッセージの流れ

1. あなたの命がよりどころとする水源がふさがれるとき

  • イサクは飢饉のあいだ、ペリシテびとのもとに身を寄せました。恐れのあまりリベカを自分の妹と紹介し、そのためアビメレクとの間に緊張が生じました。それでも彼は、アブラハムと結ばれた契約の確認と、約束の更新を受けていました(創世記26章1〜11節)。
  • 彼が種をまくと百倍の収穫を得ます。「このように主が彼を祝福されたので」です。ねたんだペリシテびとたちはアブラハムの井戸を土でふさぎ、アビメレクは彼に言います。「あなたはわれわれよりも、はるかに強くなられたから、われわれの所を去ってください」。
  • 単なる農業上の問題と見ることもできるでしょう。しかし当時の状況では、井戸をふさぐことは、一家とその家畜の群れの存続を脅かすことでした。ペリシテびとたちはイサクを苛立たせるだけでなく、彼の将来を厳しくしているのです。
  • こうした状況に対して、人は戦うこともできますし、何をしても無駄だと決めてあきらめることもできます。あるいは、誰にも完全には奪われることのない安心を探すこともできます。
  • 今日の大きな問いは、神を信じたからといって突然平和になるわけではない世界で、生きていけるほど深い希望をどこに見いだすかということです。絶望に染まらないためには、どうすればよいのでしょうか。
  • 三つの真珠があります。神の祝福は、私たちを争いから守る盾ではないこと。忠実さとは、受け継いだ遺産を自分自身のものとして守ることであること。私たちのいちばん深い確信は、神の臨在に根ざしていること。

2. 神の祝福は反対を取り除かない

  • 「神の祝福は、あらゆる困難を防ぐ衝立でも、教会の中も含めた争いの雷を避ける避雷針でもありません」。
  • イサクの繁栄は神の祝福の実りであり、その祝福がねたみを呼び起こします。「ねたんでいるとき、人は何をするでしょうか。井戸をふさぐのです」。
  • 祝福は反対を消し去るものではなく、むしろ反対のきっかけにさえなり得ます。これは私たちの考え方とは遠いものです。神が私とともにおられるなら、物事は簡単になるはずだ。正しいことをすれば、周りの人もそれを認めるはずだ。信仰に身を献げれば、困難は消えるはずだ、と私たちは考えます。
  • そこから問いが生まれます。祝福されて何になるのか、信じて何になるのか、バプテスマを受けて何になるのか。心に留めておきたい小さな貴い真珠があります。「神の臨在を、反対のない人生と混同してはなりません」。また、私たちの問題のすべてが、神が私たちを見捨てた証拠だと考えてもなりません。
  • 前の場面では、イサクは恐れから行動していました。ここでは、井戸をめぐる争いは彼の過ちから来たものではなく、ペリシテびとの敵意に満ちたねたみから来ています。
  • 私たちは、自分自身の選択の結果に苦しむことがあります。そのときは、謙虚に自分の責任を認めなければなりません。また、他の人の不正に苦しむこともあります。霊的な成熟とは、いつも自分は無実だと主張することでも、いつも自分に罪があると告白することでもありません。
  • 「不正を受けているなら、自分に起きていることを説明するために、隠れた過ちを作り出す必要はありません」。けれども、あなたが誰かを傷つけた責任があるなら、それを単なる試練と呼ぶこともできません。

3. 私はどの井戸をふさごうとしているか

  • ペリシテびとの妨害の背後には、もっと多く持ちたいという思いがあり、同時に、イサクが生きるために欠かせないものを使えなくしてしまいたいという思いがあります。ねたみは「あなたの持っているものが私に持てないなら、あなたが失うほうがいい」という奇妙な理屈に人を導きます。
  • たとえば、2人の友人がいっしょに試験の準備をして、支え合い、励まし合っているとします。一方は合格し、もう一方は合格しません。励ましはだんだん冷たくなり(「まあまあだったね」)、成功は小さく扱われ(「あなたには簡単だったでしょ」)、相手はその場所にふさわしくないのではないか、と考える理由を探し始めます。
  • 「ときに私たちは、ただ成功したいのではなく、他の人よりもうまく、もっと成功したいのです。ただ愛されたいのではなく、選ばれたいのです」。そのとき、他の人の幸せは、自分が小さな存在になったかのような思いを抱かせることがあります。
  • この箇所は、誰が私の井戸をふさいでいるのかを問うだけでなく、私はどの井戸をふさごうとしているのか、と問うように招いています。誰に心から幸せを願うのが難しいでしょうか。どの成功が、自分の本心をあらわにするために耐えがたく感じられるでしょうか。
  • バプテスマを受けた青年に、説教者は緊張も失望もない楽な人生を約束しません。むしろ、一生かけて学ぶことを願います。神の真実を、自分に賛成してくれる人の数で測らないことです。
  • イエスはその使命の頂点で、拒まれ、孤立させられ、虐待されました。それは、他の人の承認に左右されない希望をあなたに差し出すためでした。そうでなければ、その希望は他の人の手の中にとどまってしまいます。「しかし、あなたは神の手の中にいるのです」。

4. 遺産を受け取り、自分のものとして生きる

  • 「自分の井戸を掘ることは、自分だけの水源を作り出すことではありません」。イサクはアブラハムの時代に掘られた井戸を再び掘り、父がつけた名前をそのままつけ直します。
  • これらの井戸は、イサクをアブラハムに結びつけ、遺産と約束が受け継がれていることを示しています。イサクはまったく新しい物語を始めるのではなく、自分より前にあった物語を受け取り、それを自分のものとします。
  • 私たちもまた、多くのものを他の人から受け取ってきました。家族から、教会のグループから、聖書の物語から、祈りや賛美、習慣、模範から。それは貴重な遺産ですが、自分のものにしていく必要があります。
  • 「誰かがあなたに祈ることを教えても、あなたの代わりに祈ることはできません。誰かがあなたに神の真実を語っても、あなたの代わりに神に信頼することはできません。遺産を受け取ることは、まだその中に住むことではありません」。
  • 生涯それを愛した友人から譲られた楽器を思い浮かべてください。大切にしまっておくことも、目につく場所に置いておくこともできます。けれども、それが本当にあなたの人生に入ってくるには、手に取り、学び、やり直し、間違った音を受け入れなければなりません。
  • 信仰も同じです。信仰は成功させるべきパフォーマンスだからではなく、誰もあなたの代わりに生きることのできない関係に関わるものだからです。「バプテスマは、すべてを理解した人への卒業証書ではなく、これからも続いていく道のただ中での、神への個人的な応答です」。

5. 傷は決定的なアイデンティティではない

  • 井戸の名前は、起こったことの記憶を残しています。エセクは争い、シテナは敵意、レホボテは広い場所。主がイサクとその家族のために場所を広げてくださったからです。
  • イサクは、争いがなかったかのようにふるまいません。それらに名前をつけますが、そこにとどまりません。エセクが最後の言葉ではなく、シテナもそうではありません。彼は何度でも先へ進みます。
  • この物語は、実り豊かな区別へと招いています。傷を負ったからといって、それをあなたの決定的なアイデンティティにする必要はない、と認めることです。
  • 「拒絶されたと言うことはできますが、だから自分はいつも拒絶される人間だと結論づける必要はありません。あの関係で傷ついたと自分に言うことはできますが、だからすべての関係は危険だと結論づける必要はありません」。
  • 「井戸の名前は人生のひとつの段階を語ることはできても、必ずしも人生全体の名前になる必要はありません」。

6. 神の臨在は、完全な支配にまさる

  • ベエルシバで、その夜、神はイサクに語られます。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」(創世記26章24節)。神は祝福と子孫の約束を新たにされます。
  • 説教者にとって、これがこの箇所の中心です。イサクの希望の究極の土台は「誰も私に問題を起こさない」ということではなく、この言葉、神が私とともにおられる、ということです。
  • 私たちはよく、平安は自分の生活を十分に安全にしたときに来ると考えます。自分の居場所を見つけたら、あの人が私を愛してくれたら、家族がよくなったら、もう疑わなくなったら、すべてがようやく安定したら、と。私たちは、あらゆる弱さから免れさせてくれる保証を探しているのです。
  • 神はイサクに、これからの日々を細かく記した予定表を与えません。ご自身の臨在と約束を与えられます。「何が起こるか正確に知っているから生きていける」というコントロールの誘惑と、「すべてを知らなくても、ひとりではないから進んでいける」という信頼との違いは、計り知れないほど大きいのです。
  • イサクは、この「全リスク対応の保険」、すなわち、これから経験するすべてのことの中での神の臨在を受け取ります。そして築きます。神との関係を育むための祭壇、住むための天幕、家族の必要を満たすための井戸。彼は言葉を受け、礼拝し、腰を落ち着け、働きます。
  • 私たちにとってこの約束は、完全に穏やかになるのを待つのではなく、祈りに現実の場所を作るように招いています。理想的な未来に人生をゆだねて先延ばしにするのではなく、今の自分の責任の中に生きるように招いています。そして、道のりのすべてについて先に保証を求めることなく、次にできる働きを果たすように招いています。
  • 争いの世界にあって、この約束は私たちを平和をつくる者へとも招いています。イサクがアビメレクに対してそうなるように。アビメレクは、主がイサクとともにおられるのを見て、契約を結びに来たのです。「私たちは、敵対するのではなく、ともに歩む民です」。

7. 掘り続けよう、ひとりで掘らないで

  • 私たちは、何をすべきかをよく知っています。知識も教育も持っています。しかし、あらゆる関係から自分の価値をもぎ取らなくてよいほど、確かで根を下ろした安心が欠けていることがあります。
  • バプテスマによって、スーパーチャンピオンになることや、決して疑わず、決して倒れず、いつも答えられることを約束するのではありません。自分自身の水源になるのではなく、私たちの成果に左右されない恵みを受け取ることを学ぶのです。
  • 「自分の力で尽きることのない水源になろうとしないでください。キリストにある神の恵みを受け取り、それから信頼と働きと平和のうちに歩んでください」。
  • 「掘りなさい。掘りなさい」。祈り、耳を傾け、学び、仕え、自分の過ちを認め、助けを求め、何度でもやり直すことに励みながら。
  • 教会には責任があります。誰かをひとりで掘らせないことです。恐れずに質問できる共同体であり、「いま争いの中にいます」「試練の中にいます」と言ってもすぐに説教を返されない共同体であり、すでにたどり着いたふりをせずに成長できる共同体であることです。
  • 最後の祈りは、メッセージ全体をまとめています。「主よ、あなたは私たちのふさがれた井戸、中断された努力、争い、不安をご存じです。私たちが隠しているねたみもご存じです」。そして祈りは、仕事を神としないで働くこと、憎しみを育てずに境界線を引くこと、傷を否定せずに平和を求めることを学べるように願います。

この説教のポイント

  • 神の祝福は、あなたを争いから守る盾ではありません。神の臨在は反対のない人生ではなく、あなたの困難は、神があなたを見捨てた証拠ではありません。
  • ねたみは他の人の井戸をふさぎます。問いは「誰が私の井戸をふさいでいるのか」だけでなく、「私はどの井戸をふさごうとしているのか」でもあります。
  • 他の人から受け取った信仰は、自分自身のものとして生きなければなりません。誰もあなたの代わりに祈ることも、神に信頼することもできません。
  • 傷は人生のひとつの段階に名前をつけることはできても、あなたの決定的なアイデンティティにはなりません。
  • あなたのいちばん深い確信は、明日を支配できることではなく、神の言葉です。わたしはあなたとともにいる。

個人への適用

  1. あなたの命がよりどころにしている水源のうち、最近ふさがれたものは何ですか。あなたはどう反応していますか。戦っていますか、あきらめていますか、それとも神に安心を求めていますか。
  2. いま直面している困難の中で、自分の責任に属することと、他の人の不正に属することを見分けられますか。
  3. いま、誰に心から幸せを願うのが難しいですか。
  4. あなたはどんな信仰の遺産を受け取りましたか。それを自分のものとして生きるために、今週何ができますか。
  5. どんな傷を、あなたの人生全体の名前にしてしまいましたか。掘り続けるために、次にできる一歩は何ですか。

引用された聖書箇所

よくある質問

なぜペリシテびとはイサクの井戸をふさぐのですか。

神の祝福の実りであるイサクの繁栄を、ねたんでいるからです。当時、井戸をふさぐことは軽い行為ではなく、一家とその家畜の群れの存続を脅かすことでした。説教者はこの理屈を、次のように要約しています。「あなたの持っているものが私に持てないなら、あなたが失うほうがいい」。

神の祝福は、困難から私たちを守ってくれるのですか。

いいえ。神の祝福は、あらゆる困難を防ぐ衝立ではありません。創世記26章では、祝福がむしろ反対のきっかけにさえなっています。神の臨在を反対のない人生と混同してはなりませんし、私たちの問題が、神が私たちを見捨てた証拠だと考えてもなりません。

創世記26章の井戸の名前は、何を意味しますか。

エセクは争い、シテナは敵意、レホボテは広い場所を意味します。主がイサクのために場所を広げてくださったからです。イサクは争いに名前をつけますが、そこにとどまりません。説教者によれば、井戸の名前は人生のひとつの段階を語ることはできても、人生全体の名前にはなりません。

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