ヨハネ15章:神が備えておられることを前もって見る喜び

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はじめに

「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」純福音道峰教会の金容俊牧師は、2026年9月25日、純福音東京教会の特別早天祈祷会で、ヨハネ15:11からこのメッセージを語りました。題は「前もって見る喜び」です。

牧師はまず、「動物は笑うのでしょうか」という素朴な問いから始めます。そして、私たちの思い、喜びを奪うもの、喜びのさまざまな種類へと話を進めます。最後の喜びには名前をつけました。預言的な喜び、つまり、まだ何も見えないうちに、神がこれからなさることをすでに見ている喜びです。

この喜びは、本で学んだものではありません。香港でたった一人、血を吐きながら死ぬと思っていたときに受けたものでした。

メッセージの流れ

1. 笑いと、運命をつくる思い

  • 牧師は、笑っているように見える犬、チンパンジー、馬の写真を見せます。しかし、研究者によると人間の笑いは違うそうです。横隔膜が震え、笑いが断続的に出て、顔には無数の表情が生まれます。
  • 笑いは、笑う人自身とその周りの人の体と心を変えます。牧師は具体的な効果を挙げます。就職の面接での好結果、営業職の売上の増加、上司からの好意などです。
  • ドイツのゲッティンゲン大学の研究も紹介します。明るいグループと落ち込んだグループに同じ本を読ませました。内容を思い出すことでは差がありませんでしたが、その内容を問題解決に応用することでは、明るいグループのほうが明らかに優れていました。
  • 牧師が心に留めている、ある牧師の言葉も紹介します。「笑ってみたし、泣いてもみた。笑うほうがいい。」
  • 同じ状況にあっても、不幸な人と幸せな人がいます。その違いは思いから来ます。牧師は会衆に繰り返させます。「私の思いが私の運命です。」
  • 人はそれぞれ、どの筋肉を鍛えるかを選びます。批判と否定の筋肉か、前向きな思いの筋肉かです。自分を点検してみましょう。今のあなたの思いは、積極的で、生産的で、創造的ですか。それとも否定的で、破壊的ですか。
  • 牧師によれば、否定的な思いは体にまで影響します。血圧や、弱った心臓などです。成功する人は口に言い訳がないと言います。「大丈夫。きっと良いことが起こる。私の人生は失敗で終わらない。」

2. 喜びを奪う三人の泥棒

  • 一つ目は罪責感です。誰も責めず、誰も指ささないことです。人は誰でも自分の過ちを知っています。ただ一つの道は、神のもとに行き、悔い改め、罪から洗われることです。
  • 牧師は、数日前に結婚した娘さんの思い出を語ります。2歳のころ、娘さんはいつも兄と喧嘩をして、告げ口に来ました。人形を取られた、お菓子を取られた、と。
  • 牧師は娘さんにこう教えました。お兄ちゃんを指さすとき、指の一本は兄に向かうけれど、もう一本は神様に向かう。お兄ちゃんも神様の作品だから。そして残りの三本の指は、自分のほうに戻ってくる。娘さんは真剣に聞いていました。牧師にとって、それは決して忘れない出来事です。
  • 二つ目の泥棒は比較です。劣等感と高慢は、同じ手のひらと手の甲のようなものだと牧師は言います。高慢な人は簡単に劣等感に陥り、その逆もあります。過去の苦い思い出を心に抱え続けず、光をもって考える訓練をしましょう。
  • 三つ目は、不安、心配、恐れです。「夢は実現する」と牧師は言います。良い夢も悪い夢も同じです。心配とは、まだ起こっていないことを長い間夢見ることです。そしてそれが起こると、「やっぱりそうだと思った」と言うのです。
  • ヨブもすでにこう言っていました。「わたしの恐れるものが、わたしに臨み、わたしの恐れおののくものが、わが身に及ぶ。」恐れには懲らしめが伴います。牧師は「絶対的な肯定と絶対的な感謝」の生き方を呼びかけます。

3. 受ける喜び、与える喜び、理解する喜び

  • 牧師は、喜びにはいくつかの次元があると言います。第一は、受ける喜びです。お小遣いをもらうのは誰でもうれしいもので、牧師もそうです。しかし、私たちは受けなかったものを何か持っているでしょうか。神は太陽、大地、空気、水、命、選ぶ自由を造り、そして私たちを永遠の命のために選んでくださいました。
  • 牧師は、日本語の「自然の恵み」という言い方が好きだと言います。韓国語には同じ表現がありません。そして両親からも、私たちはすべてを受けてきました。
  • 引っ越しのときに預かったビーグル犬の話もあります。牧師は、外食で残った料理を犬のために持ち帰っていました。ある日、犬に立派な骨を与えたあと、水を飲みに事務室を出ようとすると、犬は骨を取り返しに来たと思って牧師に襲いかかりました。
  • 「お前がくれると言っても、いらないよ。お礼に一本くれてもいいくらいだ。」そして牧師はクリスチャンのことを思いました。健康、家族、食べ物、空気、水、恵み、私たちはすべてを受けています。それなのに、神が十分の一献金や会堂建築のための献げ物を求められると、同じ反応をしてしまうのです。
  • 第二の喜びは、与える喜びです。受けることは楽しいことですが、受けたものを神にささげ、自分をささげ、人に仕えるとき、さらに大きな喜びが来ます。牧師によれば、「与える」「授ける」という言葉は、聖書の中で「信仰」「祈り」「愛」よりもはるかに多く出てきます。神は、そのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださいました。与えるときの神の喜びは、どれほど大きかったことかと牧師は言います。
  • 牧師は、生涯をかけて与え続け、とても高齢まで生きたというロックフェラーとカーネギーを例に挙げます。
  • 第三の喜びは、理解する喜びです。最も大きな恵みは、理解の恵みです。礼拝のあと、信徒の方が「たくさん恵みを受けました」と言ってくださるとき、それは「私の考えが変わり、広がりました」という意味であるべきだと言います。牧師の話が面白かったというのも恵みですが、それはもっと小さな恵みです。

4. 前もって見る喜び

  • 第四の喜びは、霊的な、別の次元のものです。牧師はそれを「前もって見る喜び」、「prophetic joy」、預言的な喜びと呼びます。「この名前は私が考えました。」
  • イエスはアブラハムについてこう言われました。「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ。」アブラハムはイエスより約二千年前に生きていました。彼は肉の目ではなく、霊の目で見ました。自分の子孫の一人が、救いと永遠の命をもたらす救い主になる、と。
  • 人々はイエスに言います。「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか。」イエスはこう答えられます。「アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである。」牧師によれば、イエスは過去、現在、未来を同時に見ておられ、それは私たちの時間の感覚を超えています。
  • 祈りに当てはめてみましょう。あなたは今日、ここで祈りました。答えはまだ未来にあり、あなたには見えません。しかし主は言われます。「そこにあるよ。」あなたは答えます。「何も見えません。」主にはすでに見えているのです。
  • これが、アブラハムに結びつくみことばの意味です。神は「無から有を呼び出される」お方です。牧師は、一人ひとりの信仰の目が開かれるように祈ります。
  • 十字架の上で、イエスは自分の死によって救われる大勢の人々を見て、そのことを喜ばれました。牧師は言います。イエスは、志垣牧師によって東京に建てられた日本最大の教会を前もって見ておられました。そして自分のような小さな者までもが救われ、天の国籍を持つ者となり、主のために熱心に働いていることも見ておられたのです。

5. ゲツセマネからヨハネ15:11へ

  • ゲツセマネで、イエスは祈られました。「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」牧師はこの祈りに言葉を添えます。「本当にこの杯を飲まなければならないのですか。私は若く、まだやることがたくさんあります。なぜ死ななければならないのですか。」
  • イエスは、自分が何のために来たのかをご存じでした。それでも死を前にして、悲しみ、苦しみ、もだえ、そして生きたいという願いを味わわれました。イエスはまことの神であり、まことの人でした。人の姿をとって来られたので、人間の条件をすべて負っておられたのです。
  • 三度祈られたあと、イエスは父の御手にすべてをゆだねられました。「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。」
  • そして、今日の本文です。「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」生きたいと言っていた方が、どうして自分の喜びについて語れるのでしょうか。この喜びとは何でしょうか。
  • それは、前もって見る喜びです。人間の目には何も見えませんでした。しかしイエスには、二千年後の世界最大の教会、趙鏞基牧師のようなしもべ、そして救われ、癒され、永遠の命を受け、今度は福音を宣べ伝える大勢の人々が見えていたのです。

6. 血を吐いた宣教師

  • 牧師は、英語が少し話せるという理由で選ばれ、宣教師として香港に派遣されました。牧会とは何か、献金の数え方や預け方、説教の準備の仕方も知りませんでした。あったのは英語と、一つの夢だけでした。
  • その夢は、使徒行伝1:8から来ていました。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。」伝道師の試験に落ちて、自分は牧師に向いていないと思っていました。それでも最終的には按手を受け、1年も経たないうちに香港へ出発しました。
  • 宣教の働きはとても厳しいものでした。「私が学んだことはただ一つ、祈ることと断食することでした。」困難があれば祈り、もっと大きな困難があれば断食しました。「ご飯を食べるように」断食していたそうです。
  • ある朝の明け方、洗面をしたあとに咳をすると、血が噴き出して洗面台がいっぱいになりました。最初は、説教で声を使いすぎたのだろうと思いました。ところが血は二日、数日、そして一週間と続きました。診断は急性の肺結核で、第三期でした。原因はストレスと栄養不足でした。
  • 隔離が必要でした。牧師は涙ながらに医師に懇願しました。「私はこのために来たのではありません。福音を宣べ伝え、教会を建て、中国宣教の橋頭堡を築くために来たのです。言われることは何でもしますが、隔離だけは勘弁してください。」心を動かされた医師は、家族全員をソウルに帰すという条件で承諾しました。
  • 一人になった牧師は血を吐き続け、夜は冷や汗でぐっしょり濡れ、血は床に溜まりになるほどでした。死の影が行ったり来たりしました。牧師は自問しました。「もしここで死んだら、誰が私の体の面倒を見てくれるのだろう。」
  • 血を拭いながら、一時間ほど泣き叫びました。すると突然、喜びの泉が滝のように心の中からあふれ出しました。「この喜びは何だろう。私は死にかけているに違いない」と思いました。そのとき、みことばが臨みました。「わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」
  • それは預言的な喜びでした。今は病気で血を吐いているけれど、だからこそ、より良い未来がある。「この喜びが、今日の私をここまで導いてくれたのです。」その喜びは牧師を東京へ導きました。そこで牧師は癒され、当時は長老だった志垣牧師が趙鏞基牧師のそばで仕える姿を見て、多くの困難を解決することができました。

7. 夢と試練はセットで売られている

  • 「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」今の苦しみは確かにあり、避けて通ることはできません。
  • ある日、趙鏞基牧師が言ったそうです。「金牧師、これからはもう夢を見たくない。」牧師は驚きました。あの方が夢を見なくなったら、誰が夢を見るのでしょうか。「夢を見るのはつらすぎる。夢をかなえるために、あまりにも苦しんだ。残りの人生は、もう少し楽に生きたいんだ。」
  • 牧師はここから教訓を得ました。「夢と試練はセットで売られています。別々には売っていません。」夢があるところには、試練があります。
  • 夢に犠牲が必要でも、あきらめないでください。今の試練の向こうに、すばらしいことがあなたを待っています。夢を最後まで持ち続けましょう。
  • 牧師は結論を語ります。笑いは「花の中の花」であり、最良の薬です。そしてどんな伝道戦略よりも力があるのは、主から受けた喜びです。

心に留めたいこと

  • あなたの思いが、あなたの人生の向きを決めます。どの筋肉を鍛えるか、批判か信頼かを選びましょう。
  • 罪責感、比較、恐れが、あなたの喜びを奪います。人を責めるのではなく、神のもとに行きましょう。
  • あなたはすべてを受けています。与える喜びは、受ける喜びよりも大きいのです。
  • ヨハネ15:11のイエスの喜びは、前もって見る喜びです。イエスは十字架の向こうに、救われる大勢の人々を見ておられました。
  • 夢と試練はセットです。苦しみのただ中で夢を手放さないでください。

自分への問いかけ

  1. 今、あなたが最もよく抱いている思いは何ですか。築き上げる思いですか、壊す思いですか。
  2. 今日、あなたの指は誰に向けられていますか。自分に戻ってくる三本の指を見たら、何が変わるでしょうか。
  3. あなたは長い間、どんな恐れを「夢見て」きましたか。その代わりに、何を神にゆだねられるでしょうか。
  4. 神にささげる姿勢は、骨を抱え込むビーグル犬に似ていますか。それとも、自分が何を受けたかを知っている人に似ていますか。
  5. まだ答えが見えていない祈りは何ですか。神がすでに見ておられることを、今から喜ぶことができますか。

引用された聖書箇所

よくある質問

ヨハネ15:11の「前もって見る喜び」とは何ですか。

金容俊牧師にとって、それは預言的な喜びです。まだ何も見えないうちに、神がこれから成し遂げられることを信仰の目で見ることです。イエスは十字架の直前に自分の喜びを語られました。救われる大勢の人々をすでに見ておられたからです。

イエスは十字架の前に、どうして喜びを語ることができたのですか。

ゲツセマネで、イエスは杯を過ぎ去らせてほしいと願い、そのあと父のみこころにゆだねられました。説教者によれば、イエスの喜びは状況から来たものではありません。自分の日を見たアブラハムのように、イエスは苦しみの向こうに、ご自分の死の実を見ておられたのです。

このメッセージによれば、クリスチャンの喜びを奪うものは何ですか。

牧師は三人の泥棒を挙げます。神のもとに行く代わりに人を責めさせる罪責感。劣等感と高慢が同じ手の表と裏である比較。そして、まだ起きていない不幸を長い間夢見る不安です。

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