罪人と共に食卓を囲むイエス:物議を醸した食事

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罪人と共に食卓を囲むイエス:物議を醸した食事

人々の間で語り草になる食事があります。この食事はまさにスキャンダルでした。イエスは新しい弟子を招いたばかりで、その弟子はイエスのために自分の家を開きます。すばらしい夕べになるはずが、宗教指導者たちにとっては侮辱そのものになりました。イエスが町で最も評判の悪い人々と食事を共にしていたからです。そして、イエスはそれを喜んでおられました。

Momentumチャンネルでのメッセージ「物議を醸した食事」の中で、マット・マーヴェインはマタイ9章のこの場面を読み解き、逆説的なイエスの姿を見せてくれます。罪人にとっては近づきやすい子羊であり、イエスから引き離そうとする者たちには吠えるライオンでもある方です。この食卓は、実はあなたの食卓でもあることが分かるでしょう。

1. イエスが軽蔑されていた取税人マタイを召される

これはイエスの公生涯のごく初期の出来事です。イエスは30代です。家族との静かな生活を後にして、後にご自分の働きを継いでいくことになる弟子たち、マットが「ドリームチーム」と呼ぶ人々を集め始めておられました。

そこでイエスは、ユダヤ文化の中でおそらく最も嫌われていた職業の人のもとに行かれます。取税人です。徴税人と言ってもいいでしょう。当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、ローマ人はユダヤ人を雇って同胞から税を取り立てさせていました。収入の約40パーセントです。多くの取税人はそこにさらに上乗せして請求し、差額を懐に入れていました。人々からは、裏切り者、泥棒と見なされていました。

この人の名はマタイです。イエスは彼に、ついて来なさいと声をかけられます。するとマタイは立ち上がり、すぐに仕事を捨てて、イエスと共に歩み始めました。当時、イエスに従うということは、スケジュール表の一項目ではありませんでした。毎日を懸ける、全面的な献身だったのです。

2. マタイがイエスを招く、これまでの人生ごと

マタイにはある考えがありました。「今すぐ、イエスと一緒に何かをしたら素晴らしいだろう」と。彼はイエスを自宅に招きます。しかも、一人で招いたのではありません。同僚の取税人たちや、「素行の悪い人々」、町中で公然と罪人と呼ばれていた人たちを一緒に集めたのです。

いわば、これはマタイの送別会のようなものでした。彼は同僚たちにこう告げます。「仕事を変えたんだ。これから新しい師について行く。彼がここにいるよ」。そして、その機会を使ってイエスを紹介し、他の人たちもまたイエスを知るようになってほしいと願ったのです。

イエスはためらうことなくその招待を受け入れられます。「イエスは食卓を囲む機会を決して逃されません」とマットは言います。そして、こっそり行かれたわけでもありません。中に入り、席に着き、食事をし、その時間を心から喜んでおられました。

3. 遠くから眺めるパリサイ人たちのスキャンダル

イエスが食事をしている間、別のグループがそれを見ていました。パリサイ人たちは食卓についていませんでしたが、誰がそこにいるかが分かるほど近くにいました。そして憤慨します。「なぜこの人はあのような者たちと食事をするのか。泥棒や詐欺師、犯罪者たちと、しかも弟子たちまで一緒にいるとは。恥ずべきことだ」。

当時の文化において、共に食事をすることは単なる中立的な出来事ではありませんでした。それは、あえて選び取られた交わりでした。相手にこう伝えることだったのです。「私はあなたを大切に思っている。あなたには価値がある。私はあなたと和解している」と。この評判の悪い罪人たちと食卓を共にすることで、イエスは公然と、自分は彼らを愛していると宣言しておられたのです。

4. イエスの答え:「わたしが喜ぶのは憐れみである」

イエスはその声を耳にされます。イエスはいつもすべてを聞いておられます。隠れているつもりでも、決して隠れきれることはありません。そしてイエスは、パリサイ人たちに真正面から、はっきりと答えられます。

「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく病人です。『わたしが喜ぶのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ 9:12-13)

ここでは二つのことが同時に起こっています。まず、イエスはパリサイ人たちに、その立ち位置をはっきりと示されます。「あなたがたは自分が健康だと思っていて、わたしを必要としていないのですか。それなら結構。どうぞそのまま行きなさい」。そして同時に、食卓についている人々を守り、安心させておられます。イエスは彼らを覆ってくださいます。その時間が妨げられることを、決して許されないのです。

さらにイエスは、宗教指導者たちが熟知していると自負している聖書そのものへと彼らを送り返します。「行って、もう一度読み直しなさい。わたしはいけにえよりも憐れみを喜ぶのだと分かるはずだ」。イエスが問題にしておられるのは、彼らの傲慢さです。パリサイ人たちは、自分たち自身も到達できていない基準を、他人に押し付けることで知られていました。これには名前があります。律法主義です。自分自身が守れていないもので人を縛り付けることです。そしてイエスはまさに、この律法主義に打ち勝ち、恵みと赦しと憐れみを差し出すために来られたのです。

5. 子羊とライオン:逆説的なイエス

この箇所は、逆説的なイエスの姿を私たちに見せてくれます。聖書はイエスを、子羊であると同時にライオンとして描いています。マタイの食卓では、この両方の姿を同時に見ることができます。

イエスは子羊として、近づき、触れ、捕らえることができる方です。罪人たちと共に座り、自分の姿を見せ、近づかれることを許しておられます。同時にイエスはライオンとして、ご自分のもとに来ようとする罪人を妨げようとする者に対して吠えられます。イエスはあなたが近づくことを、決して妨げられることはありません。へりくだって立ち返る者に対して、イエスはいつも近づきやすい方であり続けられます。あなたの過去がどうであれ、その距離がどれほど遠くても、今日あなたが一歩踏み出すなら、あなたを迎え入れる子羊と、あなたを守るライオンに出会うことになります。

6. イエスは恵みを近づきやすくし、宗教は罪を目立たせる

マットはこの対比を一つの言葉でまとめています。「イエスは恵みを近づきやすくする。宗教指導者たちは、罪を目立たせる」。イエスが赦しを差し出すところで、宗教的な霊は非難を助長します。イエスが「あなたを救うことがわたしの喜びだ」と言われるところで、宗教は「告発し、裁き、断罪しなければならない」と言うのです。

問いはとても具体的なものになります。あなたはこの場面のどちら側にいるでしょうか。赦された罪人たちと共に食卓につく側でしょうか、それとも外に立って眺め、憤慨する側でしょうか。赦された罪人たちの側にとどまってください。それが正しいグループです。

7. すでに整えられた食卓、そして開くべき扉

マットはヨハネの黙示録 3:20から取られたイメージで締めくくります。

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその者のところに入って、彼と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう。」

イエスは無理強いをする神ではなく、ご自分を差し出される神です。イエスは優しくノックしてくださいます。扉を打ち破ることもできたはずです。実際、墓の石を転がしてもらう必要もなく、墓から出て来られた方なのですから。それでもイエスは、あなたが自分で扉を開けるのを待たれます。そして、あなたに最初にかけてくださる言葉は、「あなたの罪を思い出させよう」ではありません。「一緒に食事をしよう」なのです。

あなたがイエスに扉を開ける日、あなたは食卓がすでに整えられていることに気づくでしょう。すべてを用意したのはあなたではありません。食事も、食器も、豊かさも、すべてがすでに準備されています。あなたは神の超自然的な領域に、あなたのためにあらかじめ整えられた恵みの中に入っていくのです。

神の恵みはスキャンダルです。パウロはコリント人への第一の手紙 1:22-24でこう言っています。「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、召された者たちには、神の力、神の知恵であるキリストなのです」。あなたが赦されたことは、他の人にとってはスキャンダルに見えるかもしれません。しかしあなた自身にとっては、それはあなたの人生を変えた神の力なのです。

まとめ

  • イエスは社会から軽蔑されている人々のもとへ自ら出向き、喜んで彼らと食卓を共にされます。
  • 聖書の文化において、誰かと共に食事をすることは、その人を大切に思い、愛していると公然と宣言することです。
  • イエスは、近づきやすい子羊であると同時に、ご自分のもとに来た罪人を守るライオンでもあります。
  • 宗教は罪を目立たせますが、イエスは恵みを近づきやすくしてくださいます。
  • 食卓はすでに整えられています。あとは、イエスがたたかれるとき、あなたがその扉を開くだけです。

あなたへの適用

  • 私は、赦された罪人たちと共に食卓につく側にいるだろうか。それとも、外に立って眺め、裁く側にいるだろうか。
  • 私の人生の中で、「この食卓に招くには遠すぎる」と思っている人はいないだろうか。もし私がイエスの立場だったら、どうするだろうか。
  • 私は受けた恵みの中を生きているだろうか。それとも、自分自身が実践していないことを他人に求める律法主義へと傾いていないだろうか。
  • 私は、イエスが私と共にいることを喜んでおられると信じているだろうか。それとも、ただ我慢されているだけだと思っているだろうか。
  • 今日、イエスは私の心のどの扉をまだたたいておられ、私はそれをまだ開けていないだろうか。

引用聖句

よくある質問

なぜパリサイ人たちは、イエスが罪人と食事をすることに憤慨したのですか。
当時のユダヤ文化において、共に食事をすることは中立的な行為ではなく、あえて選び取られた、公然の交わりだったからです。取税人や「素行の悪い人々」と食卓を共にすることで、イエスは彼らを受け入れ、大切に思い、愛していると宣言しておられました。それは宗教指導者たちにとって、彼らの罪を認めることに等しく思えたのです。

「わたしが喜ぶのは憐れみであって、いけにえではない」とは、どういう意味ですか。
これはイエスが聖書(ホセア書 6:6)を引用し、パリサイ人たち自身が持っている聖書に立ち返らせている言葉です。イエスはこう言っておられるのです。「行って、もう一度読み直しなさい」と。神は、儀式を積み重ねる宗教よりも、恵みを与える心を喜ばれます。すでに自分は正しいと思っている人々のいけにえよりも、立ち返って来た罪人への憐れみのほうが尊いのです。

今日、具体的にどのようにイエスに「扉を開ける」ことができますか。
自分が罪人であり、救い主を必要としていることを認め、赦しを与えるために来られたイエスを迎え入れることによってです。イエスは無理強いをされません。ただたたかれるのです。あなたにできることは、「はい、どうぞ入ってください」と伝え、自分の人生をイエスに委ね、その食卓がすでにあなたのために整えられていることを知ることです。

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