罪の報酬は死、それでも神は命をくださる

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はじめに

子どもの頃に学んで、一生忘れない真理があります。1+1=2です。足し算と交渉することはできませんし、混ぜ合わせて出てきた色を変えることもできません。ある種の法則は、ただそこにあるのです。聖書は、霊的な世界にもそうした法則があると教えています。そして、そのもっとも根本的な法則は、刃物のように短く鋭いひと言に凝縮されています。「罪の支払う報酬は死です。」

これは、サミュエル・ローマ人への手紙6章23節から会衆に語りかけたメッセージです。厳しい言葉ですが、そこで終わりません。恐ろしい足し算から始まり、すべてを変える「しかし」へと展開していくのです。前半に心が揺さぶられてよいのです。ただし、後半を決して手放さないでください。なぜなら、罪が死をもって報いるのに対し、神は無償でイエス・キリストにある永遠の命を与えてくださるからです。

アウトライン

1. 罪の報酬:足し算のように揺るがない霊的な法則

2. 聖書が示す現実:すべての人が罪を犯し、どんな善い行いもそれを消せない

3. 恵みの「しかし」:神からの無償の賜物、イエス・キリストにある永遠の命

1. 罪の報酬:足し算のように揺るがない霊的な法則

霊的な世界は、それぞれが勝手に自分なりの真理を作り上げるような漠然とした場所ではありません。サミュエル・マブー牧師によれば、それはむしろ物理的な世界よりもさらに秩序立っています。そこには法則があり、その中には二者択一のものもあります。ローマ人への手紙6章23節はまさにそのひとつです。罪の報酬は死。これは意見ではありません。方程式なのです。

「報酬」ということばは軽い意味ではありません。聖書の中では、傭兵に支払われるもの、つまり働いた分の給料を指しています。あなたが月末に、その月働いた分の給料を受け取るのと同じです。言い換えれば、あなたの仕事が罪であるなら、あなたの雇い主は神ではありません。悪魔です。そして悪魔が最終的に支払うのは、死なのです。

この現実と議論しようとしても、動かすことはできません。まいたものは、必ず刈り取ることになります。罪があなたの雇い主であるかぎり、最後には同じ封筒が開かれるのです。

2. 聖書が示す現実:すべての人が罪を犯し、どんな善い行いもそれを消せない

そこで、どこでも聞かれる反論が出てきます。「そうは言っても、私はまともな人間だ。盗みもしないし、ズルもしない。周りの人にも良くしている」と。そうかもしれません。ここで誰もあなたの人生を裁こうとしているわけではありません。しかし聖書は、別の基準を示しています。

ローマ人への手紙3章23節ははっきりとこう告げます。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けることができず。」人類最初の罪は、盗みでも殺人でもありませんでした。ただの不従順です。そして、そのただの不従順が、世界を一変させるのに十分だったのです。神から離れたまま、神のもとに来ることを拒むこと自体が、すでに罪なのです。

「罪」と訳されるギリシャ語は、文字どおり「的を外す」という意味です。罪のうちに生まれるとは、神があなたを創造した目的から外れて生まれることです。そして、それを埋め合わせる霊的な計算方法など存在しません。善い行いをしたからといって、悪が消えるわけではないのです。聖書的に、霊的に見て、それは誤りです。世界中の善行を積み重ねても、神の前でのひとつの過ちさえ帳消しにはできません。パウロ自身も、同じ手紙の中で、罪が「自分のうちに住んでいる」と認めています(ローマ人への手紙7章)。使徒本人がそう言うのですから、誰が自分だけは安全だと思えるでしょうか。

ヨハネによる福音書8章34節で、この論理を徹底して語っています。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を犯す者は、みな罪の奴隷です。」罪はただの出来事ではありません。ひとりの主人なのです。外からの介入がなければ、奴隷は決して自分ひとりの力で自由にはなれません。

3. 恵みの「しかし」:神からの無償の賜物、イエス・キリストにある永遠の命

だからこそ、ローマ人への手紙6章23節は最後まで読む必要があります。この節は死で終わってはいません。小さく、それでいて途方もなく大きなひと言、「しかし」を軸に展開していくのです。「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

この対比をよく見てください。一方には報酬があります。自分で稼ぐもの、自分にふさわしいもの。もう一方には無償の賜物があります。それを得るために何もしていないのに、ただ与えられるものです。一方は、罪の当然の結果としての死。もう一方は、神からの思いがけない贈り物としての永遠の命。そして、この贈り物には名前があります。イエス・キリストです。

あなたは働いて永遠の命を買い取ることはできません。それは善行の積み重ねの先にあるものではなく、贈られるものです。それが福音です。神は十字架の上で、あなたが受け取るはずだった報酬をご自分に引き受け、代わりに、あなたが決して勝ち取ることのできなかったものを差し出してくださいました。あなたにのしかかっていた有罪判決は取り除かれます。ローマ人への手紙8章1節はこう叫びます。「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることが決してありません。」もう恐れるべき永遠の裁きの法廷はありません。もう積み重なっていく借金もありません。

ここでサミュエル・マブー牧師は、本当の問いを投げかけます。あなたはこの「しかし」をどうしますか。あなたを死で報いる雇い主のために、これからも働き続けますか。それとも今こそ、両手を開いて、神がイエスにあって差し出してくださる賜物を受け取りますか。今夜、あなたはあまりにも長く引きずってきたその罪の荷物を、十字架の前に置きに来ることができます。それを再び持ち帰るためではなく、それなしで帰るためにです。

覚えておきたいポイント

  • 霊的な世界には法則があります。ローマ人への手紙6章23節は、その中でももっとも二者択一的な法則のひとつです。罪は死をもって報い、この方程式は交渉できません。
  • 誰も自分の行いによって義とされることはありません。すべての人は罪を犯しました(ローマ3:23)。どんな善い行いも、負っている負債を消すことはできません。「自分はまともな人間だ」と思うだけでは、神の前では十分ではないのです。
  • 罪は奴隷状態です。イエスはヨハネ8:34でこう言われます。罪を犯す者は、その奴隷になると。外から来る解放者だけが、その鎖を断ち切ることができます。
  • 神の「しかし」がすべてを変えます。あなたが自分で勝ち取れないものを、神は与えてくださいます。イエス・キリストにある永遠の命です。それは報酬ではなく、賜物なのです。
  • キリストにあって、もはや罪に定められることはありません。ローマ8:1がそれを保証しています。イエス・キリストにある者は、もう永遠の裁きを恐れる必要がありません。十字架がすべての勘定を清算したのです。

個人へのアプリケーション

  • 私は今、誰のために働いているだろうか。私の生き方は実際のところ、罪に仕えているのか、それとも神に仕えているのか。そして、その果てにどんな報酬を受け取ることになるのだろうか。
  • 私はまだどんな「荷物」を引きずっていて、それを家に持ち帰るのではなく、今週、十字架の前に置いてくるべきだろうか。
  • 私は本当に、永遠の命を自分の力で「勝ち取る」ことなどできないと信じているだろうか。それとも、心のどこかで、善い行いによって自分の救いを買い取ろうとし続けているだろうか。
  • 私はイエス・キリストにある神の無償の賜物を、個人として受け取っただろうか。それとも、理屈を知っているだけで、まだ「はい」と答えたことのない傍観者のままだろうか。
  • 私の周りにいる誰に、ローマ6章23節の「しかし」を伝えることができるだろうか。もしかすると、この節の前半だけを聞いて、後半をまだ知らない人がいるかもしれない。

引用された聖句

  • ローマ人への手紙6:23・「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
  • ローマ人への手紙3:23・「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けることができず。」
  • ヨハネ8:34・「罪を犯す者は、みな罪の奴隷です。」
  • ローマ人への手紙7章・パウロは、罪が自分のうちに住んでいることを認めています。
  • ローマ人への手紙8:1・「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることが決してありません。」

よくある質問

「罪の支払う報酬は死である」とは、本当はどういう意味ですか。

「報酬」ということばは、聖書の中では労働者、特に傭兵に支払われる給料を指しています。パウロはこの表現を用いて、罪があなたの雇い主であるなら、人生の終わりに必ず死、肉体的な死と霊的な死を支払うことになると語っています。これは神が気まぐれに脅しているのではなく、神から離れた人生の当然の結果なのです。

私がまともな人間なら、本当に救われる必要があるのでしょうか。

はい、必要です。ローマ人への手紙3章23節で、すべての人が罪を犯したと断言しています。盗みやズルをしないことは良いことですが、それは神から離れて生まれたという事実を埋め合わせるものではありません。どんな善い行いも神の前での過ちを消すことはできません。それは積み重ねて得る功績ではなく、受け取るべき賜物なのです。

神のこの「無償の賜物」を、具体的にどうすれば受け取れますか。

神の前で自分が罪人であることを認め、イエス・キリストに向き直り、赦しを願い、あなたの人生の主となっていただくよう求めることによってです。聖書はこれを悔い改めと信仰と呼んでいます。賜物はすでに、十字架で神によって差し出されています。あとは、それを受け取るために手を開くだけです。

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