ヨセフと兄弟たち:赦しから本当の和解へ

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はじめに

ヨセフのシリーズを語るある場面で、説教者はほっとした様子でこう漏らします。「ついに、本当の意味での和解を語る箇所に来た」と。機能不全な家族についての厳しい章が続いた後、創世記44章、45章、50章は、ヨセフとその兄弟たちが古い傷から縫い合わされた関係へと歩んでいく様子を語っています。ここで投げかけられる問いはとても率直です。「あなたは本当に和解しているだろうか、それとも少し目をそらしているだけだろうか」。ヨセフの物語(兄弟に売られ、エジプトの宰相となり、その同じ兄弟たちの前で涙を流す)は、あなたが今どこに立っているのかを見極め、そこから動き出すための具体的な手がかりを与えてくれます。和解は一瞬で成し遂げられるものではありません。それはひとつの過程であり、聖書は私たちにその歩みを始める者となるよう招いています。

メッセージの構成

1. 恵みによって再び始まる関係

  • 状況を振り返ってみましょう。ヨセフは兄弟たちに奴隷として売られましたが、今やエジプトの宰相に相当する地位に就いています。その前の週、彼は息子にマナセ(「神が私の苦しみを忘れさせてくださった」という意味)と名づけていました。ところが、十人の兄弟たちが穀物を買いに彼の前に現れると、彼の心は張り裂けそうになります。苦しみはそれほど忘れられてはいなかったのです。
  • ヨセフはどう振る舞えばよいのか、まだよく分かっていません。兄弟たちを迎え入れ、穀物の代金を取らずにいながら、同時に彼らをスパイだと責め立てます。再び始まろうとする関係の、感情の入り混じった混乱です。
  • 彼は兄弟たちを試すためにシメオンを牢に入れますが、それでも何よりも悪に対して善をもって報いることを選びます。最初のやり取りは裁判ではなく、宴でした。
  • 正しい方向へ向かって再び動き出す関係には、ある特徴があります。それは、際限のない復讐の連鎖を断ち切ることです。「もう悪に悪で応じない。悪には善で応じる」ということです。
  • あなたが和解できたと思っている関係の中に、この特徴が見当たらないなら、まだ赦されていない何かが残っている可能性があります。

2. 責任を引き受け、自分の過ちを認めること

  • ヨセフは二つ目の試練を仕組みます。自分の銀の杯をベニヤミンの袋にこっそり入れさせるのです。これはまさに、かつて自分自身が味わった出来事、お気に入りとされ、不当に責められ、奴隷にされると脅されたことを再現するためでした。兄弟たちが以前と同じように反応するのか、それとも変わったのかを見極めようとしたのです。
  • 今度は、彼らはベニヤミンを見捨てません。衣を裂き、ベニヤミンとともに全員で町へ戻ってきます。語り出すのはユダです。かつて、いくらかの金を得るために、ヨセフを殺すのではなく売ることを提案した、あのユダです。
  • ユダは本当に変わりました。彼は責任を引き受けて言います。「私たちは主に何と申し上げましょうか。何を話し、どう自分たちの正しさを訴えればよいのでしょうか。神があなたのしもべたちの咎を明らかにされたのです」(創世記44:16)。彼は自らベニヤミンの代わりに奴隷になることを申し出ます。
  • この箇所に見られる、本物の赦しを求める言葉の三つの特徴です。
    • 「でも」がないこと。過ちを軽く見せるための「でも」がありません。「ごめんなさい」という言葉は、決して「でも」で終わってはいけません。「でも」はいつでも罪なのです。
    • 「なぜなら」がないこと。自分を正当化するための言い訳がありません。説明を加えるほど、あなたの信用は落ちますし、相手が「ああ、それなら私を傷つけてよかったんだ」と言うことは決してないのです。
    • 神に対しても罪を犯したと認めること。相手だけでなく、神に対しても、です。私たちが互いに傷つけ合うとき、それは自分の子どもたちを愛しておられる父なる神をも悲しませることになります。
  • これに加えて、可能であれば償いをすることも大切です。誰かに害を与え、それを取り返せる余地があるなら、そこに取り組むべきです。

3. 過去を贖いの視点から捉え直すこと

  • 45章で、ヨセフはもう自分を抑えきれなくなります。その場にいた全員を外に出させ、エジプト人たちに聞こえるほど激しく泣き、そして兄弟たちに自分の正体を明かします。「私はあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です」(創世記45:4)。
  • そのうえで、彼は決定的なことをします。自分の身の上を捉え直すのです。「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神です」(創世記45:8)。彼はもはや、ひどい扱いや奴隷生活、牢での歳月については語りません。今、神が自分を通して家族全体を救うために何をなさろうとしているか、そのことを語るのです。
  • 過去を贖いの視点から捉え直すというのは、起きたことを忘れたり、否定したり、軽く見たりすることではありません。神が混沌の中でどのように働いてくださったかを認め、神が一度もあなたを見放されなかったことを知り、結局のところ、すべてのことが神を愛する者たちの益となるように働くのだと悟ることです。
  • 説教者自身の体験談もあります。十八年以上、姉との間にわだかまりが続き、双方に多くの傷がありました。それがある日、和解に至ったのです。今、姉のことを思うとき、真っ先に浮かぶのはもう失われた時間ではなく、奇跡のほうです。神はフランスの正反対の地域にいた二人を呼び戻し、一緒に教会を開拓させてくださったのです。
  • 50章で、ヨセフはすべてをこうまとめます。「私が神に代わることができるでしょうか。あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを良いことに変え、今日のように多くの民の命を救うために、このことを成し遂げてくださったのです」(創世記50:19-20)。彼は自分の立場をわきまえ、すべてを理解しているとは主張しませんが、始まりと終わりを見ているのです。

4. 自分の正しさよりも、相手の解放を求めること

  • ヤコブが亡くなった後、兄弟たちはヨセフが復讐するのではないかと恐れます。そこで彼らは、父からの伝言だと称するものを作り出し、赦しを乞います。ヤコブが実際にそのような言葉を残したという記述は本文にはなく、これはおそらく恐れがそうさせているのでしょう。
  • ヨセフはこのことを聞いて泣き出します(創世記50:17)。兄弟たちが、自分が彼らに対して抱いている愛のすべてを、まだ感じ取れていないことに、彼は胸を痛めるのです。
  • 兄弟たちが震えながら彼の足もとにひれ伏したとき、彼の口からまず出た言葉は「恐れることはありません」でした。彼は「もう十分にやった、これまで何度も赦してきた」と言うこともできたでしょう。しかしヨセフは正しさを競っているのではなく、和解の中にいるのです。彼は関係が満ち足りた、完全なものになることを望んでいます。
  • イサクとイシュマエル、続いてヤコブとエサウの時代から、アブラハムの家系にはずっと兄弟同士が引き裂かれるという問題が流れていました。ヨセフは初めて「私のところで、これを終わらせる」と言った人物です。私たちの家庭にも、何世代にもわたって繰り返される罪のパターンがあります。それに「もうやめよう」と言うのは、私たちの責任です。私のところから、当たり前を変えていくのです。

5. 和解を妨げる三つの言い訳

  • 赦しの問題。「和解する用意はあるけれど、相手はまだ私に赦しを求めていない」。この考え方はイエス様から来るものではありません。主の祈りは「自分の過ちを認めた人たちを、私たちが赦すように」とは言っておらず、「私たちに罪を犯した者たちを」と言っています。ローマ人への手紙12章は明確です。「できることなら、あなたがたの側では、すべての人と平和に過ごしなさい」(ローマ12:18)。これは選択肢のひとつではありません。
  • 距離の問題。傷ついたときの人間的な反応は、距離を置くことです。しかしイエス様は、私たちがまだ罪人であったときに、ご自身から私たちを探しに来てくださいました(ローマ5:8)。ただし誤解のないように言うと、これは虐待的な状況にとどまり続けることを意味するものではありません。とはいえ、すべての橋を断ち切ってしまったなら、どうやって敵を愛する(マタイ5:44)ことができるでしょうか。もう一切話さないのなら、どうやって自分を呪う者を祝福する(ローマ12:14)ことができるでしょうか。時には、和解を妨げているのは最も過ちを犯した側ではなく、関係はもう修復できないと思い込み、距離を置いている私たち自身なのです。
  • 恐れの問題。「また同じことが起きたらどうしよう」。この恐れ自体は当然のものです。しかし恐れによって行動することは、信仰によって行動することの正反対です。イエス様は、七回を七十倍するまで赦しなさいと言われます(マタイ18:22)。恐れは良い助言者ではあっても、決して良い主人ではありません。信仰によって生きるとは、再び傷つく可能性があることを受け入れながらも、愛するリスクを取ることです。それによって神が変え、祝福してくださるためです。

6. すべての人間同士の和解は、神との和解を指し示している

  • 人間と神との関係ほど、深く壊れた関係はありません。私たちが犯した悪はあまりにも大きく、私たちはエデンの園から追い出さなければならなかったほどでした。聖なる神の御前に、聖くない私たちがそのまま留まり続けることは、私たち自身の破滅にしかつながらなかったのです。
  • ヨセフの兄弟たちがヨセフ(罪のない迫害された者)にしたことを、人類はイエス・キリストに対して行いました。それでもなお、十字架に至るその迫害を通して、イエス様はすべての人を救い、和解へと導くことがおできになるのです。ヨセフの物語は小さなかたちで、イエス様が大きなかたちで成し遂げられたことを映し出しています。
  • ヨセフの物語における和解は、兄弟たちがひざを折り、自分の罪を認め、ヨセフを主と呼んだときに初めて実現しました。私たちも同じです。自分が行った悪に気づき、そこから離れる決断をして、イエス様を救い主・主と呼ぶまでは、神との和解は成立していないのです。
  • すでにクリスチャンであるあなたに、二つの問いが残っています。あなたは自分の歩みを贖いの視点から捉え直しただろうか、それとも、あなた自身の「エジプト」となる出来事について、神に対して静かな怒りを抱き続けているだろうか。そして、あなたはその和解を実際に生きているだろうか、それとも罪悪感がまだあなたを蝕んでいるだろうか。あなたの確かさは、あなた自身の中にあるのではなく、キリストが十字架で成し遂げてくださったこと、あなたの過去・現在・未来のすべての罪のためになされたこと、その中にあるのです。
  • 聖餐の食卓は、ヨセフの兄弟たちのように、自分には救い主が必要だと悟った人たち、完全ではないけれど変えられることを望む人たちのための食卓です。もしイエス・キリストがあなたを父なる神と和解させてくださったのなら、あなたの結婚は、修復できないほど壊れてはいませんし、両親との関係も、そこに美しいものが生まれ得ないほど有害な状態にはとどまっていません。そして、兄弟姉妹との関係も、苦しみの思い出でしかなくなる運命にあるわけではないのです。

まとめのポイント

  • 本当に和解した関係は具体的に再び動き出し、その最初のしるしは悪に善で報いることです。
  • 本物の赦しを求める言葉には「でも」も「なぜなら」もなく、相手だけでなく神に対しても罪を犯したことを認めます。
  • 過去を贖いの視点から捉え直すことは、傷ついた出来事を否定することではなく、神が混沌の中でどのように働かれたかを見ることです。
  • 本当の和解は、自分の正しさよりも相手の解放を求めます。
  • 相手が赦しを求めてくるのを待つこと、距離を置くこと、恐れによって行動することは、和解の過程を妨げる三つの罠です。
  • あなたのところから、家族に代々続く罪のパターンを終わらせることができます。それはあなたの責任です。
  • まずイエス・キリストの十字架によって神と和解していなければ、人間同士の深い和解は成り立ちません。

個人への適用

  1. 家族の中に、まだ善ではなく悪をもって応じてしまっている関係はありませんか。
  2. あなたが赦しを求めるとき、言葉のどこかに「でも」や「なぜなら」が隠れていませんか。
  3. 今週、「贖いの視点から捉え直す」必要がある、あなたの過去の痛ましい出来事は何でしょうか。
  4. 本当は神があなたに、探しに行くようにと招いておられる相手に、距離を置いてしまっていませんか。
  5. あなたは神との和解を本当に生きていますか、それとも十字架があるにもかかわらず、まだ罪悪感に蝕まれていますか。

引用された聖句

  • 創世記 44章・ベニヤミンの袋に入れられた杯、ヨセフによる試み。
  • 創世記 44:16・ユダによる赦しの願い。
  • 創世記 45:1-15・ヨセフが兄弟たちに正体を明かす。
  • 創世記 45:8・「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神です」。
  • 創世記 50:15-21・「私が神に代わることができるでしょうか」。
  • ローマ 12:14-21・迫害する者を祝福し、すべての人と平和に過ごす。
  • ローマ 5:8・私たちがまだ罪人であったときに、キリストは私たちのために死なれた。
  • マタイ 5:44・敵を愛し、呪う者を祝福する。
  • マタイ 18:22・七回を七十倍するまで赦す。

よくある質問

赦すことと和解することの違いは何ですか。

赦しはその瞬間に下す決断です。悪に悪で応じないと選ぶことです。和解はひとつの過程です。関係が具体的に再び動き出し、双方が責任を引き受け、過ちを認め、時には償いを伴います。ですから、和解がまだ難しい状況でも赦すことはできますが、関係が実際に再び動き出していないなら、本当に和解したとは言えないのです。

相手が赦しを求めようとしない場合はどうすればよいですか。

ローマ12:18はこう教えています。「できることなら、あなたがたの側では、すべての人と平和に過ごしなさい」。相手の応答をコントロールすることはできませんが、自分の側でできることをする責任はあります。それでも赦すこと、原則として距離を置くのをやめること、そして相手の益を求め続けることです。その先は神と相手との間のことです。

「赦す」ことは、虐待的な状況に戻ることを意味しますか。

いいえ、違います。赦すとは、復讐をあきらめ、裁きを神に委ねることです。悪を否定することでも、あなたを傷つける環境に再び自分をさらすことでもありません。安全のために距離が必要な場合もあります。このメッセージで問われているのは、そうした正当な保護ではなく、傷や恐れから内側で保ってしまう逃避のための距離のことです。

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