はじめに
この記事は、イエス・キリストの十字架刑を語るマルコ15:15-39についての、受難日の説教をまとめたものです。受難日とは、まず第一に悲しい日ではありません。それは、神の子が私たちのために最後まで歩みぬかれたことを思い起こす日です。イエスは引き渡され、むち打たれ、嘲られ、釘打たれました。そしてそれを、ご自分の意思で行われたのです。
説教者は最初から私たちに警告します。「もう知っている」というところで立ち止まらないでください。十字架は、本当に見つめられるとき、決して人を平安なままにはしません。それはあなたを、あなた自身の罪へ、あなた自身の救いの必要へ、そしてあなたが想像しうるすべてを超える愛へと向き合わせるのです。
この記事の構成
- イエスがあなたのために耐えられたローマの刑罰
- クレネ人シモンとゴルゴタへの道
- 十字架の上での六時間:嘲りと、揺るがない愛
- 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
- 「完了した」と、裂かれた幕
1. イエスがあなたのために耐えられたローマの刑罰
マルコ15:15は、ピラトが群衆を満足させようとして、バラバを釈放し、イエスを「むちで打たせてから、十字架につけるために引き渡した」と伝えています。このことばは、私たちの口から簡単に出てしまいます。しかし、ローマのむち打ちは、私たちが想像するものとはまったく異なるものでした。
ローマのむちは、革ひもの先に骨や石、金属の破片が編み込まれたものでした。一打ちごとに皮膚が裂け、肉がえぐれ、骨が露わになりました。たった一打ちでさえ凄まじいものでした。ユダヤ人の律法は、人を殺さないよう、打つ回数を39回までに制限していました。しかしローマ人には、そのような制限はありませんでした。囚人が見分けもつかなくなるまで打ち続けられ、ただ十字架まで立って歩けることだけが配慮されていたのです。
そして忘れてはならないのは、イエスがこのむち打ちの前に、すでに大祭司のもとで一夜を過ごしておられたということです。イエスは打たれ、顔につばを吐きかけられ、頭に覆いをかぶせられ、殴りつけられました。眠っていません。食べていません。ピラトがイエスをむちに引き渡したとき、その体はすでに打ち砕かれていたのです。
その後、兵士たちはイエスを官邸に連れて行き、部隊全体、すなわち数百人を集めます。彼らはイエスに紫の衣を着せ(当時、紫は王の色であり高価なものでした)、頭に茨の冠を押し込みます(十から十五センチメートルもある硬い茨です)。手には葦を王笏のように持たせます。そして嘲ります。「ユダヤ人の王様、万歳。」葦でイエスの頭を打ちます。数百人の兵士がイエスにつばを吐きかけます。彼らはあざ笑いながらひざまずき、イエスの前にひれ伏すふりをします。その後、彼らはイエスから衣を剥ぎ取り(すでにむき出しになった皮膚から)、もとの服を着せ直します。この本文には、何ひとつ手心が加えられていません。人間の残酷さが、そのままそこにあるのです。
2. クレネ人シモンとゴルゴタへの道
21節で、マルコはある詳細を書き記しています。「そして、アレクサンドロとルポスとの父、クレネ人シモンという者が、いなかから出て来て通りかかったので、人々は彼にイエスの十字架を無理に負わせた。」シモンが負わされたのは十字架全体ではなく、パティブルム、すなわち横木でした。重さはおよそ40キロ、大きな水の容器二つ分です。健康な男性にとってさえ重い荷でした。
イエスご自身は、公の宣教に出る前、ナザレで大工をしておられました。その後、三年半にわたってイスラエル、フェニキア、ツロとシドンの地方を歩き続けてこられました。イエスの体は頑丈でした。しかし、一晩の暴行、際限のないむち打ち、茨の冠、そして数百人の兵士による嘲りの後では、これ以上進むことができませんでした。だからこそシモンが徴用されたのです。
ゴルゴタに到着すると、イエスに没薬を混ぜたぶどう酒が差し出されます。これは麻酔薬であり、痛みを和らげるものでした。イエスはそれを拒まれます。この細部は決して些細なことではありません。もしそれを飲めば、感覚が鈍くなります。しかしイエスは、罰の半分だけを受けるために来られたのではありません。私たちに下るべき刑罰を、百パーセント担うために来られたのです。イエスは、いかなる減刑も、いかなる値引きも望まれませんでした。イエスはその杯を、底まで飲み干されたのです。
3. 十字架の上での六時間:嘲りと、揺るがない愛
「そして彼らはイエスを十字架につけた。それは午前九時であった。」(マルコ15:24-25)朝の九時です。彼らはイエスの両手首を横木に釘打ちます(体の重さを支えられない手のひらではなく)。それから両足も、長い釘で打ちつけます。十字架の上での死は、多くの場合、窒息によって訪れます。体は前に沈み込み、息を吐くことができなくなり、呼吸をするためには釘打たれた足で体を支えなければなりません。ひと呼吸ごとが拷問となります。そしてそれを、何度も何度も繰り返さなければならないのです。
イエスは午前九時から午後三時まで、十字架の上にとどまり続けられました。六時間です。ピラトでさえ、イエスが「もう」死んだと知って驚くことになります。つまり、十字架刑はこれよりもはるかに長く続くこともあり得たということです。
その間、兵士たちはイエスの衣をくじで分け合います(千年前にダビデが預言していた詩篇22:18の成就です)。これは、イエスが十字架の上で裸であったことを意味します。肉体的な苦痛に、公然たる恥辱が加わったのです。
通りかかる者たちは頭を振ってこう言います。「神殿を打ちこわして三日で建てる者よ。十字架から降りて自分を救ってみろ。」祭司長たちや律法学者たちも嘲ります。「ほかの人は救ったのに、自分は救えない。」イエスの両側に十字架につけられた二人の強盗も、初めはイエスをあざけりました。
ここに、最も重い事実があります。イエスは降りることがおできになりました。神の子は、いつでもこの場面を終わらせることができたのです。しかしもし降りられたなら、誰も救われません。あなたも救われません。私も救われません。イエスの隣にいた強盗、この六時間の苦しみをイエスが耐え抜かれるのを見て、最後には信じるようになり、イエスから「今日、あなたはわたしとともにパラダイスにいます」と言われることになるあの強盗も、救われないのです。ヘブル人への手紙12:2は、イエスが「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに」十字架を耐え忍ばれたと告げています。それは、私たちが救われるのをご覧になる喜びです。イエスを喜ばせたのは苦しみそのものではありません。私たちの救いなのです。
4. 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
「昼の十二時になったとき、闇が全地をおおい、それが三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。』訳すと『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコ15:33-34)
正午から午後三時まで、闇がその地を覆いました。この真昼の夜は、下る神の怒りが目に見える形で現れたしるしです。それは御父が気まぐれに御子に対して怒りを向けられたということではなく、私たちの罪に対するさばきが、そのときイエスの上にのしかかっていたということです。第二コリント5:21ははっきりとこう語ります。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
だからこそ、この瞬間、イエスは「父よ」とは言われません。弟子たちに祈りを教えられたとき、イエスは「このように祈りなさい。私たちの父よ」と言われました。しかしここでは、イエスは「わが神、わが神」と叫ばれます。子から父への関係が、あたかも断ち切られたかのようです。それは神が御子を愛することをやめられたからではなく、イエスが私たちの罪を担っておられ、罪が人を神から引き離すからです。イエスはこの見捨てられる経験を通り抜けてくださいました。あなたが決してそれを経験することがないようにするためです。
イエスの周りにいた者たちの中には、見当違いの理解をした者たちもいました。「エリヤが降ろしに来るかどうか見てみよう。」彼らは、キリストとエリヤを結びつけるだけの聖書知識は持っていましたが、目の前にいる方が誰であるかを認めるだけの知識は持っていませんでした。中途半端な知識は、イエスを見えるようにはしません。イエスを見えるようにするのは、隣にいた強盗のように、自分に救いが必要だと認める心なのです。
5. 「完了した」と、裂かれた幕
「しかし、イエスは大声をあげて息を引き取られた。」(マルコ15:37)ヨハネ19:30は、この叫びをこう伝えています。「完了した。」何が完了したのでしょうか。救いのみわざです。罪は担われ、刑罰は飲み干され、怒りの杯は最後の一滴まで空にされました。それからルカ23:46によれば、イエスはこう付け加えられます。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」イエスは再び「父よ」と言われます。関係は回復されました。犠牲は受け入れられたのです。
まさにこの瞬間、二つのことが起こります。「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスに向かって立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『まことに、この方は神の子であった』と言った。」(マルコ15:38-39)
神殿の幕は、聖所と至聖所、すなわち大祭司だけが年に一度入ることを許されていた場所とを隔てるものでした。それは、人間がそのようにして神に近づくことはできないということを示すものでした。この幕が上から下へと裂けたのは、神ご自身がそれを裂かれたことを意味します。道が開かれたのです。イエスによって、あなたは今や、確信をもって恵みの御座に近づくことができます。
そして、十字架の上で多くの人が死ぬのを見てきたローマの百人隊長は、この方がほかの人とは違うと認めます。誰も、このような仕方で死んだ者はいませんでした。彼は信じます。十字架につけられたあの強盗と同じように。イエスを見る備えなど何ひとつなかった二人の男が、イエスを見たのです。
覚えておきたいポイント
- 受難日は、敬虔な悲しみの日ではありません。神の子が、私たちには決して支払えなかったものを、百パーセント支払ってくださった日です。
- イエスは麻酔を拒まれました。値引きなしに、あなたのために刑罰の全体を担おうとされたのです。
- イエスは十字架から降りることがおできになりました。もしそうしておられたら、誰も救われなかったでしょう。
- 「わが神、わが神」という叫びは、私たちがキリストにあるなら決して味わうことのない、見捨てられることの代価です。
- 上から下へと裂かれた幕は、神の署名です。門を開かれたのは、神ご自身です。
個人への適用
- 私は十字架を、感動した傍観者として眺めているでしょうか。それとも、自分の罪とともに、そこに自分自身の姿を見ているでしょうか。
- 受難日を思うとき、私はイエスの痛みで立ち止まっているでしょうか。それとも、なぜイエスがそれを担われたのかを思い起こしているでしょうか。
- ピラトのように、自分の立場を守るために真理を犠牲にすることが私にはないでしょうか。
- あざけった者たちのように、私には議論するには十分でも、信じるには足りない聖書知識しかないのではないでしょうか。
- あの強盗や百人隊長のように、私は今日、「この方はまことに神の子であり、私にはこの方の救いが必要だ」と認める備えができているでしょうか。
引用聖句
- マルコ15:15-39・十字架刑の記録
- 詩篇22:18・分けられた衣
- マタイ27章・並行記事
- ルカ23:46・「父よ。わが霊を御手にゆだねます」
- ヨハネ19:30・「完了した」
- 第二コリント5:21・私たちのために罪とされた方
- ガラテヤ人への手紙3:13・キリストは私たちをのろいから贖い出された
- ヘブル人への手紙12:2・ご自分の前に置かれた喜び
- ヨハネ3:14-16・上げられた蛇と神の愛
FAQ
拷問を記念するこの日を、なぜ「受難日」(良い金曜日)と呼ぶのですか。
それは、この金曜日が、イエスが私たちの救いを可能にしてくださった日だからです。祝われているのは、正しい人の死それ自体ではなく、罪の赦しと神への道を開く、この犠牲なのです。英語の「グッド・フライデー」ということばには、「良い」金曜日という考えが残っています。それは、イエスがその日に成し遂げてくださったことのゆえに、私たちにとって良い日だという意味です。
なぜイエスは没薬を混ぜたぶどう酒を拒まれたのですか。
それは、囚人に差し出される麻酔薬でした。それを拒むことで、イエスは意識を鈍らせることなく、刑罰の全体を担うことを選ばれました。イエスは近道を取られませんでした。私たちに下るべきであった杯を、最後まで飲み干されたのです。
神殿の幕が裂かれたことは、何を意味するのですか。
この幕は、神がご自分の臨在を現される至聖所を、神殿のほかの場所から隔てていました。そこに入ることができたのは大祭司だけであり、しかも年に一度、血を携えてのことでした。幕が上から下へと裂かれたことは、神ご自身が道を開かれたことを意味します。イエスの死によって、すべての信じる者は今や、人間の仲介者なしに、確信をもって神に近づくことができるのです。
メモを取ったり質問したりするにはサインインしてください。