忠実な管理者として生きる(1)

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はじめに:年が終わる前に立ち止まる

今年もそろそろ終わりに近づいています。学校、仕事、家族、そして教会での奉仕の間で、日々は目まぐるしい速さで過ぎていきます。そして多くの場合、後回しにされてしまうのは、まだ後回しにできるうちは、と思われがちな最も大切なことなのです。今朝は少しの時間を取って、私と一緒にただ一つの問いに立ち止まってみましょう。忠実な管理者として生きるとはどういうことでしょうか。

聖書をマタイ25:14-30の箇所に開いてください。これから黙想するのは、有名なタラントのたとえ話です。この箇所全体を貫くシンプルな問いがあります。神を愛する人の人生は、具体的にどのような姿をしているのでしょうか。

私たちはみな、第一の戒めが、心を尽くし、いのちを尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛することだと知っています(マタイ22:37-38)。この言葉を、私たちは何千回も聞いてきました。しかし、神を愛することは決して単なる感情ではありません。それは目に見える愛です。それはみことばへの愛着の中に(ピリピ1:9)、神の戒めへの従順の中に(ヨハネ14:15)、神の他の子どもたちへの愛の中に(第一ヨハネ5:1)見られます。そして、この愛が試される最後の領域があります。それは、神が私たちに委ねてくださったものをどのように管理するか、ということです。

記事の構成

タラントのたとえ話は、忠実な管理者として生きるための四つの大きな原則を明らかにしています。この記事では、その最初の原則に焦点を当てます。残りの三つは、続く記事で取り上げます。

1. 文脈:イエスは戻って来られる。しかし、いつかは分からない

2. 二人の登場人物と二種類の「しもべ」

3. 第一の原則:神の前での自分の立場を思い起こす

4. これが私の日常生活をどう変えるか

本文

1. 文脈:イエスは戻って来られる。しかし、いつかは分からない

このたとえ話を読む前に、それがどこで語られたかを思い起こす必要があります。イエスはこれを、十字架にかけられる直前の日々、オリーブ山で語られました。この時点で、イエスはすでに弟子たちに何度も、ご自分が死に、よみがえり、天に昇り、いつか再び来られることを告げておられました。しかし彼はここで重要なことを付け加えます。その再臨の日時は、だれも知らない、ご自分でさえも知らない、と。

これがマタイ24章と25章全体の大きなテーマです。マタイ24:42-44を見てください。「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか分からないからです。……ですから、あなたがたも用意していなさい。人の子は、あなたがたの思いがけない時に来るのです。」だれも、泥棒が何時に押し入るかを知りません。同じように、だれも人の子がいつ再び来られるかを知りません。しかし、彼は必ず来られます。

タラントのたとえ話全体は、この問いに答えるために語られています。その日を待つ間、私たちはどう生きるべきなのでしょうか。私たちもまた、キリストの再臨を待っています。私たちに直接関わる問いはこうです。あなたは、その待つ間に、何をしていますか。

2. 二人の登場人物と二種類の「しもべ」

それではマタイ25:14-30を、落ち着いて読んでみましょう。二種類の登場人物が現れます。旅に出て、自分の財産をゆだねる主人と、その能力に応じて五タラント、二タラント、一タラントを託されたしもべたちです。

主人とは、イエスのことです。本文は、ある人が旅に出たと語っています。彼は引っ越すのではありません。どこかよそに定住するのでもありません。彼は旅立ち、そして戻って来るのです。イエスは天に昇られましたが、まるで私たちを決定的に去ってしまわれたかのように、永遠にそこに定住してしまわれたわけではありません。彼は栄光の再臨に向かう途上にあります。彼は罪と死に打ち勝たれた主であり、まもなく戻って来られます。

しもべたちとは、自分をクリスチャンだと言う人たちのことです。彼らは、イエス・キリストを信じていると告白する人たちです。しかし、このたとえ話は深刻なことを教えています。この名を名乗る人々の中には、実は二つのグループが存在するということです。一方には、本当に忠実なしもべたちがいて、彼らは主人の喜びの中に入ります。他方には、外見上は信仰を持っているように見えながら、その生き方が、実は一度も本当には信じていなかったことを明らかにする人たちがいます。主人が「悪い、怠け者の」しもべと呼び、外に投げ出す人々です。聖書は何度も私たちに警告します。口先でキリストを告白するだけでは、生き方がその告白と矛盾しているなら十分ではないのです。

3. 第一の原則:神の前での自分の立場を思い起こす

忠実な管理者として生きるための第一の原則がこれです。自分の立場を思い起こすこと。もしあなたが、主があなたに委ねてくださったものを正しく管理したいと願うなら、まず、あなたが主の前でだれであるかを思い起こさなければなりません。

ここで「しもべ」と訳されている言葉は、ギリシャ語でドゥーロスです。もともとは「結びつける」という意味の動詞から来ています。ドゥーロスとは、その主人に結びつけられた者、厳密な意味での奴隷です。彼はもはや自分自身のものではありません。彼には、自分自身の意志も、自分自身の時間も、自分の財産も、自分自身のいのちさえもありません。彼が所有しているすべてのものは、その主人に属しているのです。

これこそまさに、イエスと私たちの間にある関係です。イエスは主です。私たちはそのしもべです。この人生で私たちが手にするすべてのものは、私たちの主に属しています。「私のもの」と私たちが呼ぶもので、本当に私たち自身に属しているものは何一つありません。私たちの時間も、お金も、能力も、体も、いのちさえもです。

あなたは本当にこれを信じていますか。あなたは毎日、他者に属する者として生きていますか、それとも自分自身が自分の主人であるかのように生きていますか。

信仰の偉大な先人たちは、この称号を恥じませんでした。パウロは自らを「イエス・キリストのしもべ」と紹介しています(ピリピ1:1)。そしてこの言葉は、まさにドゥーロス、奴隷です。ペテロも第二ペテロ1:1で同じことをしています。ヤコブもそうです(ヤコブ1:1)。ユダもそうです(ユダ1)。彼らはみな、自分がもはや自分自身のものではないことを知っていました。そして、自分の立場を認めていたからこそ、彼らは自分の主のためにすべてを捧げることができたのです。

もしあなたが救われているなら、あなたも同じ動きを経ています。罪の奴隷から、神の奴隷へと移されたのです。キリストは大きな代価を払ってあなたを買い取ってくださいました。パウロは率直にこう書いています。「あなたがたは自分自身のものではありません。あなたがたは代価を払って買われたのです。ですから、あなたがたの体で神の栄光を現しなさい」(第一コリント6:19-20)。

このように生きることは、悲しいことではありません。それは牢獄ではありません。それは本当の喜びの源です。忠実なしもべを待っているものを見てください。「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊との御座がその都にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を見る。そして、彼らの額には神の名が記されている。もはや夜がない。彼らにはともしびの光も太陽の光も必要ない。神である主が彼らを照らされるからである。彼らは世々限りなく王として治める」(黙示録22:3-5)。

奴隷は自分自身のものを何も持ちませんが、主のしもべは、その主ご自身を所有しています。彼は主の御顔を見るのです。彼は主とともに、とこしえに王として治めるのです。これこそ私たちの立場です。そして、そこにとどまることから生まれる喜びなのです。

4. これが私の日常生活をどう変えるか

自分の立場を思い起こすことは、抽象的な考えではありません。それは、忠実な人生の具体的な出発点です。この自覚がなければ、神が委ねてくださったものを正しく管理することは不可能です。もしあなたが、自分がしもべであることを忘れるなら、あなたは遅かれ早かれ、主があなたに預けてくださったものを、まるで自分のものであるかのように扱うようになるでしょう。あなたは自分の賜物、時間、お金、家族、影響力を、主の栄光のためにではなく、自分自身の栄光のために用いるようになるでしょう。

自分の立場を思い起こすことは、反対に、毎日をこのシンプルな事実とともに始めることです。私は自分自身のものではない。私は、その血によって私を贖ってくださったイエス・キリストのものだ。そこから、すべてが変わります。あなたのスケジュールは預かりものになります。あなたの人間関係は預かりものになります。あなたの体、あなたの財布、あなたの召命は預かりものになります。何一つ小さなものはありません。なぜなら、何一つあなたに属するものはなく、すべてが主に捧げられているからです。

覚えておきたいポイント

  • タラントのたとえ話は、イエスがご自分の死の直前に語られたもので、その再臨を待ちながらどう生きるかを教えるためのものです。
  • 主人とはイエスであり、彼だけが知る日に戻って来られます。
  • しもべたちとは、自分をキリストの弟子だと言う人々ですが、すべての人が忠実であるわけではありません。
  • 忠実な管理者の第一の原則は、神の前での自分の立場を思い起こすことです。私たちは神のドゥーロイ、大きな代価によって贖われた奴隷なのです。
  • この立場は屈辱ではなく、永遠の喜びへの入口です。すなわち、神の御顔を見て、神とともに治めることです。

個人への適用

  1. 私は本当に、贖われた者として生きているでしょうか、それとも今なお自分自身に属する者として生きているでしょうか。
  2. 私の人生のどの領域(時間、お金、人間関係、計画)において、私は今なお自分自身が主人であるかのようにふるまっているでしょうか。
  3. 私はキリストの再臨を積極的に待ち望んでいるでしょうか、それとも、その再臨が決して来ないかのように生きているでしょうか。
  4. 私はパウロのように、「イエス・キリストの奴隷」と自分を呼ぶことを恥ずかしいと感じているでしょうか。なぜでしょうか。
  5. 今週、私が主に属する者であることを尊ぶために、具体的にどんな決断をすることができるでしょうか。

引用聖句

よくある質問

「忠実な管理者として生きる」とはどういう意味ですか。

忠実な管理者として生きるとは、私たちが所有しているすべてのもの(時間、賜物、財産、人間関係)が神に属していることを認め、キリストの再臨のときまで、それを神の栄光のために用いることです。タラントのたとえ話(マタイ25:14-30)が、その枠組みを描き出しています。

なぜパウロは自分をイエス・キリストの「奴隷」と紹介するのですか。

彼は、自分がもはや自分自身のものではないことを理解していたからです。キリストによって贖われた彼は、全面的にキリストのために生きていました。ギリシャ語のドゥーロスという言葉は、主人への完全な帰属を表しています。神の前でのこの立場を認めることが、忠実な人生の出発点なのです。

日々の生活の中で、どのようにキリストの再臨に備えればよいのですか。

マタイ24:42でイエスが言われるように、目を覚ましていることによってです。具体的には、私たちがキリストに属していることを毎日思い起こし、彼が委ねてくださったものを彼の栄光のために管理し、みことばを愛し、その戒めに従い、その子どもたちを愛することです。これらが、自分の主を待つしもべのしるしなのです。

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