はじめに
罪悪感から抜け出す、恐れから抜け出す ― 福音はさらにもう一つの出口を開いてくれます。それは、排除から抜け出すことです。ステファヌ・ギエは、マルコ7章24-30節を一緒に味わうよう勧めます。イエスがイスラエルの地を離れ、ティルスの異邦人の家に入り、シリア・フェニキアの一人の母親に近づかれる場面です。戸惑うようなやり取り、驚くべきへりくだり、そして崩れ落ちる一つの壁。この場面を通してイエスは、命を与える御言葉を求める者を誰一人排除しない教会への道を示してくださいます。
メッセージの構成
1. イエスは、場所よりもまず一つの対話から出発される
- マルコ7章24節の直前、イエスはパリサイ人たちや弟子たちと、清い動物と汚れた動物について論じ合っておられました。マルコ7章19節ははっきりとこう記します。「イエスはすべての食物をきよいとされたのである。」
- そう宣言された後、イエスは議論の場を離れ、非ユダヤ人の地、ティルス地方へと向かわれます。マルコの福音書がこの時点でイエスを行かせる、最も遠い場所です。
- 完全にユダヤ人でありながら、イエスは異邦人の家に入ることを妨げていたタブーを無視されます。御言葉を、そのまま行いへと延ばす一歩です。
2. なぜ「清い/汚れた」の区別が排除へと変わっていったのか
- 人類学者メアリー・ダグラスによれば、当時のユダヤの霊性は空間を三つに分けていました。中心に神が住まわれる神殿、その周りにイスラエルの地、そしてさらに外側に諸国民という円です。荒野の宿営や、ヘロデの神殿(異邦人の庭、イスラエルの庭、聖所、至聖所)にも同じ区分が見られます。
- 動物もまた三つに分けられていました。汚れた動物(イスラエル人が食べてはならないもの)、清い動物(民が食べてよいもの)、そして清い動物の中でも神殿でささげ、食することができるものです。
- 人の区分も同じ論理に従っていました。中心に祭司、その周りに選ばれた民、さらに外側に異邦の諸国民です。食事をするたびに、イスラエル人は自分が特別に選び分けられた者であることを思い起こしたのです。
- 時が経つにつれ、もともと霊的なしるしであったものが、アイデンティティのしるしへと変わっていきました。一部のパリサイ人やエッセネ派の人々は、異邦人の家に入ることや、共に食事をすることを拒みました。この考え方の危険は、やがて自分を他者より優れた者とみなすようになることです。
3. イエスは家に入り、目立たないようにされる
- 本文は、イエスがティルス地方の、つまり異邦人の家に入られたことを強調します。異例で、象徴的な行動です。
- マルコの福音書の中で、イエスが本当に人目を避けようとされる唯一の場面です。「だれにも知られたくないと思っておられた」とあります。
- 理由はいくつか考えられます。評判ゆえに追いかけてくる群衆から逃れるため、異邦人の家に入れば自分も汚れると考える人々からの非難を避けるため、あるいは単純に、へりくだりから ― いわゆる「汚れた者」たちの目にすら自分を汚れた者として映さず、越えられない壁を築かないためです。
4. シリア・フェニキアの女性と、心を揺さぶるやり取り
- そこへ、取り乱した一人の母親がやって来ます。幼い娘が汚れた霊に取りつかれているのです。彼女はイエスの足もとにひれ伏し、悪霊を追い出してくださるよう懇願します。
- イエスの答えは衝撃的に響きます。「まず子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って小犬に投げてやるのはよくない。」子どもたちとはユダヤ人であり、小犬とは異邦人のことです。注解者たちの見解はこの点で一致しています。
- 子どもたちのパンとは何を表しているのでしょうか。パンはイスラエルの主食であり、やがて神から与えられる糧の象徴となりました(詩篇105篇40節はマナを「天のパン」と呼び、イエスはヨハネ6章でご自分を命のパンと言われ、人はパンだけでなく神の口から出るすべての言葉によって生きる、とも言われます)。
- イエスはこう言おうとしておられるようです。「わたしはイスラエルへの使命を中断して、諸国民だけに専念することはできない。」ペテロの服を脱がせてパウロに着せるようなことをしてはならない、というわけです。
- イエスが選ばれた言葉も「小犬」でした(ギリシア語で愛情を込めた接尾辞のついた語)。野良犬ではありません。当時の「小犬」は子どもたちの遊び相手であり、家の中に迎え入れられていました。
5. 女性のへりくだりと信仰が、壁を崩す
- 「主よ、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずはいただきます。」当意即妙の答え、驚くべきへりくだりに支えられた言葉です。
- 彼女は、イエスが差し出された愛情のこもった言葉を、そのまま受け取ります。イエスが「子どもたち」と言われたところを、彼女は「幼子たち」と言い返します ― ギリシア語では異なる二つの言葉です。同じ調子で応じているのです。
- 彼女は小犬と幼子たちを結びつけます。遊びにおいても食べ物においても仲間であり、小犬は幼子たちがこぼすパンくずで養われるからです。
- 彼女はイスラエルの民の場所を奪おうとはしていません。ただ、イエスがこれまで幾度となく語ってこられた同じ御言葉 ― 救い、癒やすあの御言葉 ― を味わいたいだけなのです。
- イエスは彼女に答えられます。「その言葉のゆえに、行きなさい。悪霊はあなたの娘から出て行った。」彼女が家に帰ると、娘は床に横たわり、悪霊から解放されていました。
6. 転換点となる箇所 ― すべての人のための同じ食卓
- この物語は、二つのパンの奇跡に挟まれています。マルコ6章30-44節はユダヤ人の地での最初の給食を、マルコ8章はガリラヤ湖の向こう側、異邦人の地での二度目の給食を伝えます。イエスが与えられたしるしです ― 同じパンが、ユダヤ人にも異邦人にも与えられるのです。
- かつて民に特別な立場を思い起こさせるためのものでありながら、やがて分離の原因となっていた食物が、ここでは共通の食卓の食物となります。この段階ではまだ「食卓の上」と「食卓の下」という区別は残っていますが。
- この女性に励まされ、イエスはその後も異邦人の地への旅を続けられます。シドンへと北上し、それから異邦人が大半を占めるデカポリス地方へと南下されるのです。
心に留めておきたいこと
- イエスは場所よりも先に、一つの対話から出発されます。その足取りは、語られた言葉をそのまま行いへと延ばすものです。語ったことを、そのまま行われるのです。
- 本物の霊的なしるしが、排除のためのアイデンティティのしるしへと変わってしまうことがあります。これは、かつてのパリサイ人たちにも、今日の教会にも常につきまとう危険です。
- シリア・フェニキアの女性の信仰とは、受け取るへりくだりです。他人の場所を奪うへりくだりではなく、自分の分のパンくずを求めるへりくだりです。
- イエスはこの女性を、命の御言葉への道を開くことによって、排除から救い出されます。それが、ご自分の教会全体に示された道です。
- 出身、社会的立場、性別、志向、政治的な立場、過去や現在のいかんにかかわらず、命を与える御言葉を求める歩みを、誰にも妨げられてはなりません。
あなた自身への適用
- あなたの信仰生活の中で、もともと霊的なしるしだったものが、いつしか他者を排除するしるしへと変わってしまった「印」(習慣、確信、所属)はありませんか。
- ステファヌ・ギエが挙げたリスト(出身、社会的立場、性別、性的指向、政治的意見、重い過去…)を読むとき、あなたの心に真っ先に浮かぶ人々のカテゴリーは何ですか。その反応をどう受け止めますか。
- この女性のように、特別な扱いを求めることなく、ただへりくだってイエスに「パンくずだけ」を願う必要があるのは、あなたの生活のどの部分でしょうか。
- あなたの地域教会は、命の御言葉を求める人々を、無条件に受け入れていますか。今週あなたが崩す助けとなれる壁はありますか。
- 異邦人の家に入られたイエスに倣って、今週あなたが一歩を踏み出すよう招かれている場所、輪、あるいは人はいませんか ― たとえ安心できる「清さ」の領域を出ることになっても。
引用された聖句
- マルコ 7:24-31 ― イエスとシリア・フェニキアの女性
- マルコ 7:19 ― イエスはすべての食物をきよいとされた
- レビ記 11章 ― 清い動物と汚れた動物の区別
- 詩篇 105:40 ― イスラエルに与えられた天のパン
- ヨハネ 6章 ― 天から下った命のパンであるイエス
- イザヤ 2:2-3 ― すべての国民がエルサレムに来て神の言葉を求める
- マルコ 6:30-44 ― 最初のパンの奇跡(ユダヤ人の地)
- マルコ 8:1-10 ― 二度目のパンの奇跡(異邦人の地)
よくある質問
この女性へのイエスの答えは、なぜこれほど厳しく感じられるのですか。
一見すると、異邦人を「小犬」にたとえることに衝撃を受けます。しかしステファヌ・ギエは二つのことを思い起こさせます。イエスが用いられたギリシア語の「小犬」には愛情を込めた接尾辞がついており、家の中に住み、子どもたちと遊んでいた犬を指す言葉で、汚れたものとみなされる野良犬ではありません。そして、その言葉はご自分の使命の順序に関わるものです ― イエスはイスラエルへの奉仕を中断して、諸国民だけに専念することはできないのです。女性はこの機微を完全に理解し、差し出された愛情のこもった言葉をそのまま受け取ります。そしてイエスは、その信仰の言葉をたたえられます。
今日の教会にとって「排除から抜け出す」とはどういう意味ですか。
マルコ7章に照らして言えば、それは、命の御言葉を求める人が、誰であれ ― 出身、社会的立場、性別、性的指向、政治的な立場、過去や現在のいかんにかかわらず ― その探求を妨げられてはならない、ということです。これはあらゆる状況を祝福することではなく、探求そのものを無条件に受け入れることです。それは、異邦人の家に入り、壁を打ち壊されたイエスに倣う、キリストの教会の責任なのです。
この物語は、二つのパンの奇跡とどう結びついていますか。
マルコは、シリア・フェニキアの女性の箇所を、二つのパンの奇跡の物語で挟んでいます ― 最初はユダヤ人の地で(マルコ6:30-44)、二度目は異邦人の地で(マルコ8:1-10)。これは注意深く組み立てられたしるしです ― 同じパンが、ユダヤ人にも異邦人にも与えられるのです。この女性との対話が備えたもの ― すべての人のための同じ命の御言葉 ― を、二つのパンの奇跡が具体的に確証します。この女性のへりくだりは、シドン、そしてデカポリスへと続く、イエスの異邦人の地における宣教への道を開くのです。
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