二千年もの間、教会は主の再臨を待ち望んできました。多くの人が日付を定め、暦を作り、その日その時を告げようとしてきました。しかしイエスご自身が、どの弟子も忘れることのできないひとことによって、その扉を閉じられました。
「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:36)
キリストの再臨についての教えの第四回にあたるこのメッセージで、神戸栄光キリスト教会の菅原亘牧師はマタイ24章を開き、終わりの時についてイエスご自身が語られたことを振り返ります。それは預言者の予告ではなく、御子から弟子たちに直接語られた言葉です。この記事は、2025年10月19日になされたこの説教の要点を忠実にまとめたものです。
説教の構成
1. 再臨の日を知る者は誰もいない
2. 終わりの日々の大きな惑わし
3. 偽預言者を見分ける
4. 大患難と揺り動かされる天体
5. いちじくの木が芽を出した:再臨のしるしとしてのイスラエル
1. その日を知る者は誰もいない
マタイ24章は、主の再臨について最も多くの情報を含む章です。マルコとルカもこれについて語っていますが、最も完全な記述があるのはここです。そして菅原牧師は、決定的な点を強調します。この言葉は預言者から来たものではなく、イエスご自身の口から出たものだ、ということです。神の子は、世の終わりに何が起こるのかを尋ねに来た弟子たちに、直接語りかけておられます。
イエスの答えは、まず警告から始まります。主は突然、盗人のように、誰も予期していない時に来られます。そしてイエスはさらに踏み込みます。この言葉を語っておられるまさにその時点で、イエスご自身がその日を知らないと言われるのです。それを知っているのは父だけです。
その結論はシンプルです。今日、キリストの再臨の正確な日付を知っていると主張する者は、誰であれ退けなければなりません。その人の評判がどうであれ、カリスマ性がどうであれ、その働きに見える力があろうと、しるしや奇跡が伴っていようと関係ありません。もし誰かがイエスの再臨の年、月、日を定めるなら、その人は失格です。例外はありません。
私たちは、イエスが再び来られることを知っています。しかし、いつなのかは知りません。そして主は、まさにすべての人が平和と安全と経済的な繁栄を語っているそのときに、思いがけなく来られると明言しておられます。
2. 終わりの日々の大きな惑わし
終わりの時のキーワードは、と菅原牧師は繰り返します、それは惑わしです。イエスは同じ章の中で四、五回、こう繰り返しておられます。惑わされないように気をつけなさい、と。
「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起こって、大きなしるしと不思議を行い、できれば、選民をも惑わそうとするからです。」(マタイ24:24)
「選民」とは、ユダヤ人だけを指すのではありません。旧約聖書において、選ばれた民とはイスラエルのことです。しかし十字架の後、キリストを信じるすべての人は、パウロがガラテヤ人への手紙に書いているように、アブラハムの子どもたちなのです。つまり、あなたがクリスチャンであるなら、今朝イエスを賛美するために来たあなたなら、あなたは選民なのです。そしてイエスは、その選民でさえ惑わされる危険があると、はっきりと言われます。
菅原牧師は、日本で自分が見てきたことを語ります。六十四年前、統一協会がこの国に入ってきました。当時、反共産主義という立場が、一部の牧師たちをこの運動に近づけました。その結果は痛ましいものでした。神戸で、名の知れた牧師、尊敬されていた教師が、この組織に加わってしまったのです。その知らせは地域全体を揺るがしました。この人物が自分の誤りを認め、本来の召命に戻るまでには、四十五年、あるいは五十六年もの歳月がかかりました。
オウム真理教とその創始者、麻原彰晃の例もあります。この人物は名門の学歴を持っていませんでした。それにもかかわらず、その霊的な力は、日本で最も選抜の厳しい東京大学の医学部の学生たちをも惑わしました。どうしてそんなことが可能なのでしょうか。霊的な力が、知性を凌駕するからです。
菅原牧師は、この世には三つの力があると語ります。肉体の力(労働)、知性、そして霊的な力です。肉体の力は良いものです。親は子どもたちを大学に送り、知性の力を身につけさせようとします。しかし、この二つの上に霊的な力があります。それがすべてを支配するのです。だからこそ、霊的に強い力を持つ人物は、医者たちや、技術者たちや、教授たちさえも、自分の後について来させることができるのです。
バランスが取れているように見える牧師、「あの人だけは決してだまされないだろう」とあなたが思うような人物こそ、しばしば最初に倒れてしまう人なのです。菅原牧師は謙虚にこう語ります。「自分は決してだまされないと思っている人ほど、だまされるのです。」誰も例外ではありません。菅原牧師自身も含めてです。あなたの牧師たちのために祈ってください。自分自身のためにも祈ってください。守られるように祈ってください。
3. 偽預言者を見分ける
にせキリストや偽預言者をどうやって見分けるのでしょうか。イエスご自身が、マタイ7章でその方法を示しておられます。あなたがたは彼らの実によって彼らを見分けます、と。菅原牧師はそこから、シンプルでしっかりとした二つの基準を引き出します。
第一の基準:日々の生活
ある人は、美しい霊的な言葉を語り、強いカリスマ性を持ち、見かけ上のいやしを行うことができるかもしれません。しかし、その人がどのように生きているかを見てください。その実を見てください。
菅原牧師は現代の例を挙げます。ロンドンには、アフリカ系のかなり有名な説教者がいて、自分をクリスチャンとして紹介し、しるしやいやしを行い、多くの人を集めています。献金は次々と集まってきます。しかし彼は、それぞれ数千万円もするスポーツカーを何台も所有しています。宮殿のような家に住んでいます。「毎日うなぎを食べている」というレベルではありません。度を越した生活水準なのです。どんなメッセージであろうと、どんないやしが告げられようと、そのような人物は詐欺師とみなされうるのです。木は、その実によって見分けられます。
第二の基準:栄光が誰に帰されるか
真のしもべは、すべてをキリストにお返しします。「この奇跡は私によるものではありません。イエスの御名によるものです。イエスに感謝をささげてください。」偽預言者は、イエスの名を用いながらも、その力が自分自身から来ているかのように、自分こそが不可欠な管であり、自分自身の王国を築いている者であるかのように、言葉の端々でほのめかします。
もしあなたが、この重心のさりげない移動に気づいたなら、そこから離れてください。この二つの基準、すなわちその人が送っている生活と、その人がキリストに帰す栄光さえあれば、見分けるのに十分です。
4. 大患難と揺り動かされる天体
イエスは、聖なる場所に立つ「荒らす忌まわしいもの」について語る際、ダニエル9:27を引用しておられます。神のご計画のこの最後の一週は、七年間に及びます。その後半の三年半が、大患難にあたります。
「そのころ、艱難が起こるが、その艱難は、世の初め、神が万物を創造されたときから今に至るまで、かつてなく、今後も決してないほどのものである。」(マタイ24:21)
ノアの洪水よりもひどいものです。イエスがそう言われます。しかし、そこには慰めも加えられています。選民のために、その日々は短くされる、と。この患難は、無期限に続くものではありません。聖書はこれを、意味の等しい四つの異なる表現で呼んでいます。
- 三年半
- ひと時とふた時と半時
- 1260日
- 42か月
注目すべき事実があります。イエスの公の宣教活動もまた、およそ三年半続いたということです。三十歳頃、イエスは御国を宣べ伝え始め、その三年六か月後に十字架で命を捨てられました。反キリストによる全世界的な支配も、まったく同じ期間続くことになります。
そしてイエスは、宇宙規模の激変を告げられます。
「その日の苦難が終わるとすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」(マタイ24:29)
もはや地が揺れるだけではありません。宇宙そのものが揺らぐのです。菅原牧師は、恐竜の絶滅について科学が想定していることを引き合いに出します。直径およそ十キロメートルの隕石がユカタン半島に落下し、空を暗くし、植物を枯らし、食物連鎖を断ち切ったと考えられています。十キロメートルというのは、地球の規模から見れば小さな石ころにすぎません。しかし、宇宙的な衝突の速度をもってすれば、その小さな石ころがすべてを変えてしまうのです。イエスが告げておられるのは、そのレベルの出来事です。
そしてその時、全世界が人の子が天の雲に乗って来られるのを見ることになります。イエスの時代には、これは不可能なことのように思えました。もし主がエルサレムに降りて来られたとして、日本にいる人々がどうやってそれを見ることができるでしょうか。今日、スマートフォン、インターネット、テレビがある時代には、その問いはもはや成り立ちません。昨日、全世界がロサンゼルスで大谷翔平選手が三本のホームランを打つ様子を、生中継で見ました。主は地球上のどこにでも来られることができ、全人類が同じ瞬間にそれを見ることになるのです。
5. いちじくの木が芽を出した:再臨のしるしとしてのイスラエル
そこでイエスは、実にシンプルなたとえを語られます。
「いちじくの木からたとえを学びなさい。枝が柔らかくなって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。」(マタイ24:32)
このイメージを正しく理解するためには、聖書の中でいちじくの木がイスラエルを表していることを思い起こす必要があります。二つの箇所がこれを明らかにしています。
いちじくの木の下にいたナタナエル
ヨハネ1章で、ピリポはナタナエルをイエスのもとへ連れて行きます。ナタナエルは疑います。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」しかしイエスは、彼を見てこう宣言されます。「見よ、まことのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」驚いたナタナエルは、イエスがどうして自分を知っているのかと尋ねます。主はこう答えられます。「ピリポがあなたを呼ぶ前、あなたがいちじくの木の下にいるのを、わたしは見ていた。」(ヨハネ1:45-49)
なぜここでいちじくの木が語られているのでしょうか。ユダヤの文化では、ユダヤの地の厳しい暑さの中で、人々はいちじくの木の陰に集まり、瞑想し、祈り、民の将来について考えたからです。ナタナエルは、ローマに支配された自分の国の重荷を背負いながら、自分の国のために祈りながら、いちじくの木の下にいました。いちじくの木の下にいるとは、心の中にイスラエルを担っているイスラエル人であるということです。イエスはそこにいる彼をご覧になり、ナタナエルは即座に心を動かされます。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
のろわれた実のないいちじくの木
マタイ21章で、イエスは町へ戻る途中で空腹を覚えられます。いちじくの木を見つけて近づかれますが、葉しか見つからず、こうのろわれます。「今後いつまでも、おまえに実がならないように。」いちじくの木はたちまち枯れてしまいます。(マタイ21:18-22)
表面だけ読むと、この箇所には驚かされるかもしれません。しかし、いちじくの木がイスラエルを表しているとすれば、すべてが明らかになります。イエスは、ご自分の民であるイスラエルのもとに来られました。イスラエルこそ、真っ先にご自分のメシアを迎え入れるべきだったのです。しかしイスラエルはイエスを受け入れず、十字架に引き渡してしまいました。いちじくの木は実を結びませんでした。いちじくの木は枯れてしまいました。そして二千年もの間、ユダヤの民は世界中に離散し、苦しめられ、迫害されてきました。
1948年:枝が再び柔らかくなる
しかし神は、イスラエルを永遠に見捨てられたわけではありませんでした。1948年、今からおよそ77年前、二千年にわたって離散していたこの民が再び集まり、イスラエル国家が再建されました。枝が再び柔らかくなります。葉が出てきます。そしてイエスは言われます。これが起こるとき、夏が近いことを知りなさい、と。
夏とは、主の再臨のことです。国家としてのイスラエルの再生は、多くの人によって、このたとえの成就として理解されています。それは、キリストの再臨が近づいているというしるしなのです。そして最後には、イスラエルもまた救われ、御使いたちが天の四方から集めてくる贖われたすべての者たちとともに、その救いにあずかることになります。
覚えておきたいポイント
- イエスご自身が、ご自分の再臨の日を知る者は誰もいない、御子でさえも知らないと宣言されました。日付を定めようとする者は、どんなしるしを見せようとも、退けなければなりません。
- 惑わしは、終わりの日々における最大の危険です。選民でさえその標的になります。霊的な力は知性を凌駕します。誰も、賢すぎて惑わされないということはありません。
- 偽預言者を見分けるための二つの基準があります。日々の生活(その実)と、その人がキリストと自分自身のどちらに栄光を帰しているかです。
- 大患難は三年半続きます。この期間は、選民のゆえに、神のあわれみによって限られています。
- 芽を出すいちじくの木とは、イスラエルのことです。1948年の再建は、夏、すなわち主の再臨が近いことを告げています。
個人的な適用
- キリストの再臨の日付を定める教師がいたら、たとえその人が人気があり、力があるように見えたとしても、あなたはそれを退ける備えができていますか。
- あなたの生活や周囲の中で、イエスが示されたこの二つの基準というふるいにかけるべき教えや霊的な指導者はいますか。
- 惑わしから守られるために、あなたの牧師たちのため、そして自分自身のために、定期的に祈っていますか。
- キリストの再臨の約束は、あなたが今日生きる姿勢をどのように変えますか。
引用された聖句
FAQ
キリストの再臨の日付を知ることはできますか。
いいえ、できません。イエスはマタイ24:36で、その日を知る者は誰もいない、御使いたちも、この言葉を語っておられるまさにその時点での御子でさえも知らないと宣言しておられます。それを知っているのは父だけです。今日、イエスの再臨の正確な日付を知っていると主張する人は、その評判や奇跡がどうであれ、偽預言者とみなされるべきです。
偽預言者をどうやって見分けますか。
イエスはマタイ7章でその基準を示しておられます。あなたがたは彼らの実によって彼らを見分けます。ここから二つの具体的な基準が浮かび上がります。まず、その説教者の日々の生活です。献金によって支えられた度を越した豪華な生活水準は、重大な警告のサインです。次に、その人が帰す栄光です。すべてをキリストにお返ししているか、それとも巧妙に自分自身のために名誉を取り込んでいるか。
なぜいちじくの木はイスラエルを表しているのですか。
二つの箇所がこれを裏づけています。ヨハネ1章では、ナタナエルが、ユダヤ人たちが自分たちの国の将来を思い巡らすために集まっていた場所である、いちじくの木の下にいます。マタイ21章では、イエスが実のないいちじくの木をのろわれますが、これは、自分たちのメシアを迎え入れるという実を結ばなかったイスラエルの姿です。マタイ24章でイエスが、いちじくの木が芽を出すと告げられるとき、それは1948年に成就したイスラエルの再生について語っておられるのです。
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