はじめに
あなたは今、自分の母国語で書かれた聖書を手に取り、一日のどんな時間にでも開くことができます。それはごく当たり前のことのように思えるかもしれません。しかし、およそ四百年前、日本でもヨーロッパの多くの地域でも、ほとんどの信者は聖書のことばを一行たりとも自分自身で読んだことがありませんでした。1549年のフランシスコ・ザビエルの来日以来、福音は日本にも広まり、人口のおよそ十分の一にまで達したと言われています。しかし当時のカトリック教会は、聖書を民衆のことばに翻訳することを認めていませんでした。訓練を受けた聖職者だけが、ラテン語で聖書に触れることができたのです。迫害が襲いかかったとき、ほとんどのキリスト者の信仰はごく短い間に崩れ去ってしまいました。みことばという種が、彼らの心の奥深くには植えられていなかったからです。
マルティン・ルターらによる宗教改革は、一つの本質的なことを思い起こさせてくれました。神のことばこそ、私たちの信仰の唯一絶対の規範であり、すべての信者が自分自身のことばでそれを持つ必要がある、ということです。そのおかげで(そしてほぼ同時期に起こったグーテンベルクによる活版印刷の発明のおかげで)、あなたは今日、聖書を開いて台所の食卓の上に置いておくことができます。これは計り知れない恵みです。荻牧師は、テモテへの手紙第二3:14-17と、テモテへの手紙第二4:2から、この恵みを眠らせておかないようにと私たちを招きます。聖書に毎日親しむべき三つの理由を見ていきましょう。
説教の構成
1. みことばに親しむことは、あなたの信仰を養い、堅く立たせる
パウロはテモテにこう書き送っています。「しかし、あなたは自分の学んで確信したところにとどまっていなさい。それをだれから学んだかを、あなたは知っているのです。また、幼い時から聖書に親しんできました。この聖書は、キリスト・イエスを信じる信仰によって、救いを得させる知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(テモテへの手紙第二3:14-16、LSG)
「とどまっていなさい」という動詞に注目してください。みことばとは、日曜日の朝に訪ねる場所ではなく、日々親しむものです。食事のときに箸を手に取るのと同じ自然さで、日常生活の中であなたのそばに聖書があるべきなのです。ある年配の牧師は、聖書はスルメのようなものだと語っていました。最初は少し硬く、噛まなければなりません。しかし噛めば噛むほど味わいが出てきて、その味わいは尽きるどころか、時間とともにいっそう深まっていくのです。
六か月の間読み続けても、あなた自身にはさほど大きな変化を感じられないかもしれません。しかし一年、三年、五年、十年と忠実にみことばに親しみ続けるなら、あなた自身が気づいていなくても、周りの人々はその違いに気づくようになります。神があなたの中に刻んでおられることに、まず気づくのは、しばしば他の人々のほうなのです。
彼が自分自身の日々の聖書通読の中から取り出したこの一節に耳を傾けてください。「わたしは、だれの死をも喜ばない。神である主のことば。それゆえ、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:32、LSG)神は誰の滅びをも喜ばれません。神はあなたが向きを変えることを願っておられます。「悔い改め」を表すギリシア語メタノイアは、文字通りには「方向を変える」という意味です。キリストに向かって引き返すことは、決して恥ずかしいことではありません。それどころか、人がなし得る中でもっとも勇気ある、もっとも自然な行為なのです。
2. みことばに親しむことは、無理をせずともあなたを証し人にする
二つ目の招きは、テモテへの手紙第二4:2(LSG)から。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、忍耐強く、みことばを教え、責め、戒め、勧めなさい。」
これは何やら手強く聞こえるかもしれません。しかし日常生活における「みことばを宣べ伝える」とは、まず何よりも、イエスを見つめながら生きることを意味します。あなたの周りにいるほとんどの人々(家族、同僚、隣人、クラスメート)は、聖書についてほとんど何も知りません。彼らはどのようにして福音の真理を味わうのでしょうか。それは、あなたの言葉、態度、日々のあり方を通してです。彼らは、キリストと交わりの中に生きる人を通して、キリストの恵みを感じ取るのです。
荻牧師は、最近出会った近所の住民が、ごく素朴にこう語っていたことを紹介していました。「この地域にキリスト教会があるのは幸いなことです。その存在があるだけで、心の奥でどこか守られているような気持ちになるんです。」大げさな証明などなくても、みことばに親しむ共同体の存在そのものが、一つのあかしとなるのです。あなたはただ、祈りと感謝と絶えることのない喜びをもって、日々委ねられていることを精いっぱい行い、その一日一日を主にお委ねすればよいのです。それが、みことばを宣べ伝えるということです。
そしてあなたが、神が置かれた場所で、ただ素朴に生きている間にも、神はあなたの手の届かないところで働いておられます。その週、朝の礼拝に来始めていたある兄弟が、礼拝の後、イエスへの信仰告白をしました。誰も彼を「説き伏せた」わけではありません。私たちがみことばの中に生きている間に、主ご自身が働いてくださるのです。
3. あなたの信仰を建て上げるのは、あなたの力ではなく、みことばによって働かれる主である
三つ目はテモテへの手紙第二4:10-17(LSG)からです。パウロは生涯の終わりに、自分を見捨てた人々の名を挙げます。デマス、アレクサンドロ、そして最初の弁明のときに自分をひとり残して去っていったすべての人々です。そして11節で、パウロはこう書き添えます。「マルコを連れて、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つ人ですから。」
このマルコとは、福音書記者マルコのことです。エルサレムの裕福な家庭に生まれた青年で、イエスが最後の晩餐を取られたのも、五旬節に弟子たちが集まっていたのも、彼の家であったと考えられています。第一次伝道旅行のとき、マルコはパウロとバルナバに同行しましたが、途中で家に帰ってしまいました。一つの離脱です。第二次伝道旅行の際、パウロは彼を連れて行くことをきっぱりと拒みます。バルナバはなおも譲らず、二人の間に不和が生じて別行動を取ることになりますが、バルナバはそれでも、いとこであるマルコにもう一度機会を与えるために連れて行きます。後に、マルコはペテロのもとに身を寄せます。彼はペテロの説教を聞き、通訳し、自分の中に取り込んでいき、そこから、聖霊の導きのもとに、マルコの福音書が生まれることになります。
すべてに失敗したかに見えたこの青年は、最終的には、あのパウロ自身の目から見ても「務めのために役に立つ」者となりました。これこそ、みことばの力です。あなたの失敗がどれほどのものであっても、あなたのつまずきがどれほど大きくても、聖書から離れずにいる限り、みことばに親しみ続ける限り、主はあなたに絶えず語りかけ、あなたを建て直し、あなたを用いてくださいます。
あなたには、この地上で、神があなたのために備えてくださった使命があります。祈ること、賛美すること、感謝すること、他の誰にも代われない仕方で仕えること、他の誰にも届かない人々に届くことです。神はみことばを通して、そのためにあなたを形づくってくださるのです。
覚えておきたいこと
- 食事のときに箸を手に取るのと同じ自然さで聖書に親しみなさい。毎日、手の届くところに置いておくこと。
- 霊的な実は数週間では見えてこないが、数年にわたる忠実さの後には、神があなたの中に織り上げてこられたものを周りの人々が見るようになる。
- 「悔い改める」とは方向を変えることである。それは自然な行為であり、決して恥ずかしいことではなく、常に祝福されたことである。
- みことばに浸された日々のあなたの存在そのものが、宗教的な言葉を語らなくても、すでに一つのあかしとなっている。
- マルコも「務めのために役に立つ」者となる前に失敗した。あなたの失敗もあなたを排除するものではない。みことばがあなたを建て直す。
個人への適用
- 今週、聖書をより自然に手に取れるように、実際にどこに開いて置いておけるだろうか(机、ベッドサイド、かばんの中)。
- 最近、ある具体的な点について「方向を変える」必要を感じたのはいつだろうか。それを実行するのを、何のために先延ばしにしているだろうか。
- あなたが気づかないうちに、あなたの生き方を近くで見ている人は誰だろうか。その人は今週のあなたの態度について、何と言うだろうか。
- あなたの周りに「マルコ」と呼べる人、すなわちつまずいてしまった誰かがいて、あなたはバルナバではなくパウロのように振る舞いたくなっていないだろうか。
- 主がみことばを通して、このところあなたに思い起こさせておられる、具体的な使命は何だろうか。
引用された聖句
FAQ
一日にどれくらいの時間、聖書を読むべきなのでしょうか。
決まった規則はありません。大切なのは長さではなく、続けることです。毎日続けられる五分は、月に一度の一時間よりもはるかに重みがあります。できるところから始めてください。一つの詩篇、福音書の一章、パウロの手紙の一箇所からで構いません。
初めて読むなら、どの書から始めればよいのでしょうか。
福音書(多くの場合、短く生き生きとしたマルコの福音書)が、もっとも自然な入り口です。次に祈りのために詩篇を、そして教理のためにパウロの手紙を読んでいくとよいでしょう。
読んでいても味気なく感じるとき、どうすればよいのでしょうか。
スルメのことを思い出してください。噛みなさい、吐き出さないでください。聖書を開く前に祈ってください。声を潜めて読み返してください。心に留まった一節を書き留めてください。味わいは最初のひと口からではなく、噛み続けることによって生まれてくるのです。
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