足を洗われたイエス様:あなたのためにひざまずく愛

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はじめに

愛されたいと思わない人はいるでしょうか。誰もがそう願っています。それは人間として当然のことです。でも、話はそれだけでは終わりません。「私は十分に愛されている」と胸を張って言える人がいるでしょうか。人間というものは、多かれ少なかれ、いつかは、いえ、もしかしたら毎日のように、「自分は十分に愛されていない」と感じてしまうものです。私たちはただ愛されればいいのではなく、たくさん愛される必要があるのです。人生が順調なときでさえ、心の奥からこんなささやきが聞こえてきます。「私は十分に愛されていない」と。

エドゥアール・ネルソンは、アメリカ軍で行われたお世辞についての心理学的な研究を紹介しています。目的は、褒め言葉の限界を見つけることでした。25回目の心地よい言葉で、その効果は止まるのでしょうか。答えはとてもシンプルでした。限界はなかったのです。愛する友よ、人間の心とは底なしの井戸なのです。もう一つの例を挙げましょう。歌手のロビー・ウィリアムズは、何万人もの観客がいるスタジアムで、絶えずこう求め続けました。「拍手してくれ。愛していると言ってくれ。」二万人の観客に、一度、二度、三度と求め続けたのです。いったい人間の心の愛への渇きに、限界はあるのでしょうか。

私たちは限りない愛によって愛される必要があります。もし、その愛に応えられる方がいるとしたら。もし、あなたのために愛の極みまで行ってくださる方がいるとしたら。ヨハネによる福音書13章は、まさにその物語を語っています。イエス様は弟子たちを、この上ない愛で愛されました。そして、それを一つの衝撃的な行為によって示されたのです。

メッセージの構成

1. ヨハネ13章1節:「彼らを最後まで愛し抜かれた」

「過越の祭りの前のことである。イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られ、世にいる自分の者たちを愛して、その愛を残るところなく示された。」

「最後まで(この上なく)」というギリシャ語の背後にある言葉「テロス」は、とても豊かな意味を持っています。成熟、完成、極み、成就、終わり、目的、これらすべてを含んでいるのです。イエス様は弟子たちを、ご自身の目的の極み、成就の極みまで愛されました。そして、この極みの愛をどのように示されたかというと、それは奴隷の行いによってでした。

2. 古代世界では考えられない行為

二千年前、大きな家を持っていれば、奴隷を抱えていました。そして、あらゆる奴隷の仕事の中で、足を洗うことは最も低い仕事とされていました。一世紀のユダヤ人の著述家の中には、ユダヤ人の奴隷と異邦人の奴隷がいる場合、ユダヤ人の奴隷に足を洗わせてはならないと言う人もいたほどです。それは異邦人の奴隷にだけさせるべき、それほど屈辱的な仕事だったのです。

エドゥアール・ネルソンは、研究者クリストフ・トマスの言葉を引用しています。トマスはイエス様の時代前後の何千ものギリシャ語やラテン語の文献を調べ尽くしましたが、地位の高い者が地位の低い者の足を洗ったという例は、ただの一つも見つけられませんでした。それは考えられないことだったのです。当時の道を思い出してください。踏み固められた土の道には、一日中、犬やロバや馬や鶏が歩き回っていました。足をきれいなまま帰宅することなど不可能だったのです。そんな中で、主人がかがみ込んでその足を洗うというのは、深く衝撃的なことでした。

3. 奴隷となられた主(ヨハネ13章2〜5節)

「夕食のときであった。悪魔はすでにイスカリオテのシモンの子ユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。イエスは、父がすべてのものをご自分の手にゆだねられたこと、また、自分は神から出て来て神に帰ろうとしていることを知り、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」

この行為を誰がしたのか、よく見てください。これは知恵ある哲学者ではありません。思想の師でもありません。父がすべてを委ねられた方です。神のもとから来て、神のもとへ帰ろうとされる方です。神の御子です。宇宙の主が、仕える者となられたのです。

この箇所には、悪魔がすでにユダの心に裏切りの思いを入れていたとも書かれています。もしかしたら、父からすべてを委ねられたイエス様が立ち上がり、ユダに「もうたくさんだ、出て行け」と言い、力と勇気をもって悪を打ち砕く、そんな場面を想像するかもしれません。しかし、そうではありませんでした。イエス様は奴隷の身なりをまとい、足を洗い始められたのです。そして本文には、誰一人として除外したとは書かれていません。ユダの足も洗われたのです。

ボクシングの試合を見ているときに、選手がパンチの代わりに花びらを投げ始めたら、あなたは驚くでしょう。しかし、それもここでイエス様がなさったことに比べれば何でもありません。悪を打ち砕く代わりに、イエス様は裏切ろうとしている者と、他のすべての弟子たちの足を洗われました。これこそ、この上ない愛です。

4. 行いによるたとえ話:そこに十字架が映し出される

神学者たちはこれを行いによるたとえ話と呼びます。動作によって語られる物語です。大切なのは動作そのものというより、その動作が語る物語です。イエス様はこの出来事で、どんな物語を語っておられるのでしょうか。それは十字架の物語です。

本文には三つの手がかりがあります。

  • 「過越の祭りの前のことであった」(1節)。過越とは、動物をほふって民を清める時です。
  • 「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たこと」(1節)。ヨハネによる福音書では、「時」とはイエス様の死の時を指します。2章では、母マリアに「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。12章になって、その時が来ます。そして、ここでその時が訪れているのです。
  • 「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、後でわかるようになる」(7節)。イエス様は弟子たちに前もって告げておられます。主人が奴隷となって示すこの愛の証しがどれほど衝撃的であっても、これから十字架で起こることに比べれば、ほとんど何でもないのだと。

ヨハネ12章24節を思い出してください。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一つのままである。しかし、もし死ねば、豊かな実を結ぶ。」イエス様の死は、地に落ちて実を結ぶこの麦粒のようなものです。足を洗うという出来事は、あなたの目を十字架へと向けさせる備えなのです。

5. ドナルド・カーソンが気づかせてくれること

注解者ドナルド・カーソンはこう述べています。イエス様が足を洗われたことは、神が約束された救い主であるメシアが、忌まわしく恥ずべき死、まさに呪われた者の死である十字架刑によって死なれるという出来事に比べれば、それほど衝撃的なことではない、と。父からすべてを委ねられたこの世の王が、蔑まれ、見捨てられ、辱められるのです。そしてその結果として、他の者たちが回復され、清められるのです。

十字架刑は、この上ない辱めのうちに行われました。罪人は裸にされ、さらされ、あざけられました。ヨハネによる福音書によれば、この徹底した辱めが清めをもたらすのです。足を洗うという出来事もまったく同じです。ある方がへりくだることによって、弟子が洗い清められるのです。

6. あなたは今週、何を踏みしめて歩きましたか

この問いは、あなた自身のことになります。あなたは今週、何の中を足を引きずるように歩みましたか。自己中心の中でしょうか。大小の嘘の中でしょうか。怠けの中、正当な理由のない怒りの中でしょうか。それとも、忍耐のなさ、ねたみ、不誠実、争い、下品な言葉の中でしょうか。あるいは、するべきだったのにしなかった良いことの中かもしれません。

足についた汚れは目に見えます。しかし、心の汚れはいつも見えるとは限りません。もし自分で自分の心を洗おうとするなら、何を使いますか。少しの石けんでしょうか。あなたには手に負えない問題です。イエス・キリストの死が必要なのです。あなたの恥を取り除くために、ご自身がへりくだってくださる方が必要なのです。あなたを祝福するために、愛の極みまで行ってくださる方が必要なのです。そして今日、御霊によって、イエス様はあなたの汚れた心を両手に取り、布と清い水を手にし、丁寧にこすり、その死によってすべての汚れを取り除いてくださいます。

7. ペテロとの対話(ヨハネ13章6〜10節):恵みの論理

ペテロは抗議します。「いいえ、決してわたしの足をお洗いにならないでください。」イエス様は答えられます。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関係もないことになる。」すると今度はペテロは反対の極端に走ります。「それでは、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエス様はこう正されます。「すでに体を洗った者は、足以外は洗う必要がない。全身がきよいのだから。」

ここには、繊細で、しかも心を軽くしてくれる区別があります。弟子たちはイエス様に従うことを選び、すでにきよめられています。しかし、彼らには足を洗う必要があります。汚れは再び戻ってくるからです。それはちょうど、体をお風呂で洗った人が、家に帰りついたときに足だけ洗ってもらう必要があるのと同じです。

あなたへの言い換えはこうです。イエス様に従うことを選び取るとき、それは一度きりのことで、あなたはきよめられます。そして日々、悔い改め、悪から離れ、足を定期的に洗ってもらうこと、それはキリストにあるあなたの根本的な立場を変えるものではありませんが、必要なことです。汚れは再び戻ってくるからです。あなたは悔い改めとキリストへの結びつきに、粘り強く歩み続ける必要があります。

8. 出来すぎた夢のような話

こう反論する人もいるかもしれません。「この話は、まさに人間の心が夢見ることそのものだ。最後まで貫かれる愛。完璧すぎて、作り話のように聞こえる。」しかし、よく考えてみてください。もし人間が神を作り出すとしたら、十字架を考え出すことはなかったでしょう。あの卑しく、屈辱的な側面を作り出すことはなかったでしょう。私たちの主であり救い主である方が、私たちを救うために苦しみを受けなければならないという筋書きを、私たちは作り出さなかったはずです。考えてみれば、これは屈辱的なことなのです。

そして、イエス様はご自分の弟子たち全員を清めてくださいます。あなたが使徒ペテロであっても、マザー・テレサであっても構いません。あなたが最悪の詐欺師であっても、人々に嫌われる銀行家であっても、人をだまして一生を送ってきた人であっても構いません。聖書はすべての人に同じことを告げています。あなたは洗われ、清められ、赦される必要があるのです。あなたが使徒パウロであっても、腐敗した政治家であっても、赦しが必要なのです。

9. ヒッポのアウグスティヌスと底なしの井戸

4世紀、歴史上最も偉大な神学者の一人であるヒッポのアウグスティヌスは、神に語りかけてこう書き記しました。「あなたは私たちをご自分のために造られました。それゆえ、私たちの心は、あなたのうちに安らぎを得るまで、休むことがないのです。」

あなたが心の中に抱えているこの底なしの井戸(決して消えることのない愛への渇き)を満たすことができるのは、キリストの御霊だけです。あなたをこの上なく愛してくださった、仕える王がここにいます。そして、人間の心を満たすことができるのは、この方だけなのです。

10. なぜ地域教会が必要なのか、なぜ共同体が必要なのか

ヨハネ13章17節にはこうあります。「これらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたは幸いである。」イエス様は、あなたがそれを実行することを望んでおられます。互いに仕え合う単純な行いこそが、あなたの心に迎え入れられた福音の直接の実なのです。

なぜ地域教会が必要なのでしょうか。YouTubeで説教を聞き、賛美歌を歌い、祈り、家で一人で聖書を読むこともできます。しかし、一人ではできないことがあります。それは、ヨハネ13章を実際に行うことです。この章の最後、35節でイエス様はこう言われます。「もしあなたがたの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が知るようになる。」

地域教会の目的は、あなたがイエス様に従う機会を与えることです。あなたの益のため、あなたの幸せのために存在しているのです。「それを行うなら、あなたがたは幸いである。」それは、犠牲を払ってでも教会に来ること、困難な時を過ごしている人の話に耳を傾けること、子供たちの保育を手伝うこと、音響設備を手伝うこと、あるいは単純な交流や助け合い、互いへの愛と祈りかもしれません。

11. 鏡の間:義の太陽を映し出す

もしヴェルサイユ宮殿を訪れたことがないなら、ぜひ行ってみてください。ミシュランガイドの三つ星で、行く価値があります。宮殿の中心には「鏡の間」があります。ルイ14世の時代、大きな鏡は財産に等しい価値がありました。それをこれほど多く所有することは、並外れたことだったのです。

その大きな鏡の一つを取り出して、小さな四角に切り分けたと想像してみてください。もし小さな鏡の破片を手に取り、くすんだ裏面を太陽に向けたら、ほとんど何も反射しません。しかし、輝く表面を美しい太陽の光に向けたら、その小さな破片は誰かの目をとても強くくらませることができます。

私たちが望むのは、イエス様に向き直ることです。彼は私たちの義の太陽(マラキ書4章2節)であり、これは聖書における彼の称号の一つです。あなたはほんの小さな鏡の破片にすぎないかもしれません。それでも、彼に向き直るなら、あなたはこの並外れた光、あなたの心を満たし、あなたの奥深くまで届き、そこから他者への祝福として流れ出し、他者を喜ばせるほどの強い光を、見事に映し出すことができるのです。

覚えておきたいポイント

  1. イエス様はあなたを「テロス」まで愛してくださいます。最後まで、成就まで、完成まで。足を洗うという出来事は、十字架を指し示す行いによるたとえ話です。
  2. 足を洗う出来事は、十字架に比べればほとんど何でもありません。主人が奴隷となることは考えられないことでした。十字架にかけられるメシアは、さらにつまずきとなるものでした。そして、そこであなたは深く洗い清められるのです。
  3. あなたの心は底なしの井戸です。どんなお世辞も、どんな人間の愛も、それを満たすことはできません。満たすことができるのは、キリストの御霊だけです。
  4. あなたがキリストにあるなら、あなたは完全にきよめられています。しかし、毎日足を洗う必要があります。日々の悔い改めは、あなたの救いを危険にさらすものではなく、キリストとの交わりを保つためのものです。
  5. 地域教会は、あなたが実践するために存在します。ヨハネ13章35節が現実のものとなります。互いへの愛によって、あなたが弟子であると人々に知られるのです。

あなた自身への適用

  1. あなたはどこで「もう少し愛されたい」と求めていますか。両親、友人、配偶者、子供たち、楽しみ、同僚でしょうか。キリストだけが与えることのできるものを、彼らに求めていないでしょうか。
  2. 今週、あなたは何の中を歩みましたか。イエス様に足を洗ってもらいたいと思うのは、自己中心、嘘、怒り、ねたみ、怠け、忍耐のなさでしょうか。それとも、するべきだったのにしなかった良いことでしょうか。
  3. あなたはどちらかというと、最初のペテロ(「いいえ、決して洗わないでください」と、恵みを拒む高慢)でしょうか。それとも二番目のペテロ(「それでは全部!」と、自分がすでにキリストにあって完全にきよめられていることをまだ理解していない姿)でしょうか。
  4. 今週、あなたは誰の足を具体的に洗うことができますか。つまり、あなたの時間や誇りを少し犠牲にする、単純でへりくだった奉仕はどんなものでしょうか。
  5. あなたの教会生活は、ヨハネ13章35節を実践する場になっていますか、それともただ受け取るだけの場になっていますか。この日曜日、何を変えられるでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

なぜイエス様はユダの足も洗われたのですか。

本文には、いかなる例外も記されていません。ユダはすでに裏切りを決意していました。それでもイエス様は彼の前にもひざまずかれたのです。この細部が、イエス様の愛の本質をすべて物語っています。それは「最後まで」の愛であり、ご自分を拒む者たちにさえ及ぶ愛なのです。これは、恵みを報酬としてではなく、値しない贈り物として見ることを、あなたに求めます。

「すでに体を洗った者は、足以外は洗う必要がない」とはどういう意味ですか。

エドゥアール・ネルソンは、ここにキリストにあるあなたの立場(すでに一度きりで完全にきよめられている)と、日々の実践(毎日汚れる足を悔い改めによって洗う必要がある)との区別を見出しています。あなたは二度救われる必要はありません。しかし、悔い改めとキリストへの結びつきに粘り強く歩み続けるよう召されているのです。

ヨハネ13章を具体的にどう実践すればよいですか。

二つの動きがあります。まず、洗われるままになること。今日の汚れをそのまま持ってイエス様のもとに来て、告白することです。次に、単純に仕えること。それは大きな偉業を求めません。犠牲を払ってでも教会に来ること、苦しんでいる人の話を聞くこと、保育を手伝うこと、兄弟姉妹のために祈ること。それが、義の太陽を映し出す小さな鏡の破片なのです。

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