あなたの傷が金に変わる神の国
神の国は、この世で一番エコな国です。人生のがらくたさえも、金にリサイクルされる唯一の場所だからです。主は私たちが経験してきたことを取り上げ、私たちを癒し、そして今度は私たちを誰かの癒しの道具として用いてくださいます。
この説教は、長い間「浮き沈み」を繰り返してきたシルヴィーヌ姉妹の証しから生まれました。幼少期の深いトラウマ、14歳までの記憶の欠落、変性疾患のため15年近くの車椅子生活、目を痛めていたためのサングラス、うつ状態。今の彼女は教え、寄り添う存在です。これは癒しについての理屈ではありません。神が接ぎ直してくださった、割れた器の証しです。
メッセージの構成
1. がらくたが金に変わる神の国
日本の文化には「金継ぎ」と呼ばれる技法があります。大切な器が割れても、それを捨てません。金粉を混ぜた漆で接ぎ合わせるのです。仕上がった器は、直っているだけではありません。以前よりも価値が上がります。ひび割れは見えるまま残ります。それが器の物語を語り、そして輝くのです。
これは、主が私たちの人生になさることを表す一つの姿です。神の国は、がらくたを金にリサイクルできる唯一の国です。主はあなたの傷を隠しません。まるで何もなかったかのように消し去りもしません。主はその傷を取り上げ、そこに恵みを注ぎ込み、あなたを今度は他の人を大切にできる者へと変えてくださいます。
シルヴィーヌ姉妹の証しを見てください。今の彼女に会えば、大きな笑顔と穏やかな表情、教会の前で教える一人の女性を目にするでしょう。もし10年前の彼女に会っていたら、車椅子に乗り、サングラスをかけ、病気と、幼少期の記憶さえ奪うほどのトラウマに刻まれた女性を見ていたはずです。その間にあったのは、主がいつもなさっていることです。割れた器を直し、そのひびに金を流し込んでくださったのです。
2. なぜ自分の反応が自分でコントロールできないのか
この説教の一つの柱は、脳の仕組みについてです。これは心理学が聖書に対立するという話ではありません。ただ、私たちは純粋な霊だけの存在ではなく、肉をまとった存在であり、主が私たちを癒してくださるとき、そのことも踏まえてくださる、というだけのことです。
子どもの頃に劇的な出来事(車、雨、命に関わるようなスリップ)を経験すると、脳はその出来事全体を記憶するだけでなく、それぞれの要素も別々に記憶します。車。雨。滑ったこと。その後、これらの要素のどれか一つだけでも、恐怖を呼び覚ますのに十分になってしまいます。車に乗って、雨が降っている、それだけで、考える暇もなく体が先に反応してしまうのです。
脳には「扁桃体」と呼ばれる小さな部位があります。これは警報システムです。海馬に蓄えられた記憶をもとに感覚を判断し、一瞬のうちに「心地よい」か「危険だ」かを決めてしまいます。もしその記憶が痛みで刻まれていると、思考をつかさどる前頭前野へとつながる回路が傷ついてしまいます。情報はもう思考を経由しません。直接、感情へと向かってしまうのです。そしてそこでは、考える代わりに反応してしまいます。些細なことで怒ってしまう。ほとんど何でもないことで不安になる。自分でも驚くような決断をしてしまう。「どうして自分はこんな反応をするのだろう」と思うのです。
これは罪の言い訳ではありません。ただ、何が起きているのかを説明しているだけです。そしてこの説明には解放の力があります。なぜなら、そこには理由があり、だからこそ癒しへの道があると教えてくれるからです。
3. イエスはすべてを経験された、しかし罪はなかった
ヘブライ人への手紙4章は、私たちが普段あまり受け止めきれていない力強さでこう語ります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されなかったが、あらゆる点で私たちと同じように試みに遭われたのです」(ヘブライ 4:15)。
イエスは侮辱を受けられました。最も親しい友の一人に裏切られました。打たれ、疲れ、飢え、ゲツセマネの園では苦悶を味わわれました。あなたを苦しめるあらゆることを、イエスは経験されました。それでも、罪を犯されませんでした。
ここで「罪」と訳されているギリシャ語は、もともと弓の射手が的を外し、そのために褒賞を受け取れなかった状態を表す言葉でした。聖書の語彙において、罪を犯すとは、まず抽象的な道徳違反のことではありません。的を外すことなのです。主があなたに与えようとしていた報いから外れてしまうことなのです。私たちの傷、私たちの生き延びるための仕組み、的外れな反応、そのすべてが、主が私たちの人生でなさろうとしていたことを、私たちからしばしば奪い取ってしまいます。しかしイエスは、まったく同じ試練を通られながら、一度も的を外されませんでした。だからこそ、イエスは同情することも、癒すこともできるのです。
4. 腐った肉と生き延びるための仕組み
パウロは、傷ついた肉が何を生み出すかを見事に描いています。ローマ人への手紙7章で彼はこう書いています。「私は自分が望む善は行わず、望まない悪を行っています。ああ、私はなんとみじめな人間なのでしょう」。誰もがこの言葉に自分を重ねられるはずです。
私たちの傷は、生き延びるための仕組みを生み出します。目に見えるものもあれば、とても巧妙なものもあります。教会の中で異様に熱心な兄弟になってしまうことがあります。それは主のためというより、自分がようやく認められる必要があるからかもしれません。幼少期に受けた苦しみをそのまま繰り返させるような相手と結婚してしまうこともあります。なぜなら、知っている苦しみのほうが、未知のものより安心できるからです。どうしても大きな車を買わなければならない、学校で一番でなければならない、流行に少しも遅れてはならない。すべては、先ほど触れた三つの根本的な欲求、愛されること、認められること、安全であることを満たそうとする試みなのです。
腐った肉とは、自分で自分を愛そう、自分で自分を認めよう、自分で自分を守ろうとして立てる、こうした一連の戦略の総体です。それは、神が本来人生を通して与えようとしていたものを、私たちが一度も受け取れなかったからです。そして悪魔は、主がそこに金を流し込む前に、まさにこのひび割れに好んで住みつくのです。
5. 四段階の癒しの道
主は、触れて立ち去る施術者のようには癒されません。主は世話をしてくださいます。いくつかの箇所で「癒す」と訳されているギリシャ語は、私たちの言う「セラピー」の語源となった言葉で、疲れ果てた人に寄り添い、世話をするという意味です。神の癒しは、その人のペースを尊重します。
その道筋は、パウロがローマ人への手紙6章から8章で示唆しているものであり、ヤコブが要約してこう書いている通りです。「だから、互いに罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。そうすれば癒されます」(ヤコブ 5:16)。とても具体的な四つの段階があります。
- 認める。聖書における「告白する」とは、嘆くことではありません。名前をつけることです。「主よ、私はこれを経験しました」「主よ、私はこう反応しました」「主よ、それをしたのは私です」。聖霊があなたの罪を明らかにされるとき、あなたを押しつぶすことは決してありません。恵みが必ず先に来るのです。
- 理解する。主とともに、そしてしばしば兄弟姉妹の助けを借りて、どんな生き延びる仕組みが働いていたのかを探ります。その反応はどこから来ているのか。どんな傷を守ろうとしているのか。自分を憐れむためではなく、それを光のもとにさらけ出すためです。
- 手放す。その背後にある考え方、悪魔があなたの頭に忍び込ませた嘘、生き延びるために採用した戦略に対して、ノーと言うことです。これは具体的な権威の行使です。「すべての思いを捕らえて、キリストに従わせる」(第二コリント 10:5)。
- 置き換える。まさにその点について神があなたに語っている真理の御言葉を探し、それを嘘の代わりに据えることです。思いの戦いは、御言葉一つひとつによって勝ち取られていきます。
6. 傷が癒えていくプロセスに似た癒し
魂の傷は、体の傷とよく似ています。時間がかかります。取り組み続ける必要があります。時には消毒が必要です。心の中の苦い思いは、化膿した傷のようなものです。自分でも制御できなくなった性格の癖は、多くの場合、化膿してしまった古い傷であり、その根元から手当てする必要があります。
この癒しは一人では成し遂げられません。主は、私たちが共に進み、共に成熟へと向かうために教会を置かれました。パウロはテモテにこう書いています。「あなたの成長がすべての人に明らかになるようにしなさい」(第一テモテ 4:15)。完璧さではありません。成長です。一歩また一歩、それぞれが自分の人生の中で、それぞれが自分の傷の中で。そしてその成長が、みんなを励ますのです。
聖書で「完全」と訳されている(それを読むたびに私たちを落胆させがちな)ギリシャ語は、もともと「成熟した、成し遂げられた、目的に達した」という意味です。熟した実のように。少しずつ満ちていくコップのように。指を鳴らすように一瞬で成熟するわけではありません。それは一つのプロセスであり、主はそのプロセスを最後まで導き通すと約束してくださっています。
覚えておきたいポイント
- 神の国は、がらくたを金にリサイクルします。あなたが経験したことは何一つ無駄になりません。主はあなたのトラウマ、失敗、ひび割れを取り上げ、それを他の人のための美しさへと変えることができます。
- あなたの反応の多くは、選択ではなく、傷跡です。それを理解することは、恥から解放され、癒しへの道を開きます。それは決して、そのままとどまるための言い訳ではありません。
- イエスはすべてを経験されたのに、決して的を外されませんでした。イエスはあなたを見下ろすことも、遠くから眺めることもありません。あなたの弱さに同情してくださいます。なぜなら、それをご自身で担われたからです(ヘブライ 4:15)。
- 癒しは四つの段階をたどります。認める、理解する、手放す、置き換える。近道も、魔法のような奇跡もありません。恵みのもとでの忍耐強い取り組みです。
- 聖化とは一つの出来事ではなく、一つの道です。あなたの成長が目に見えるように、これが主の呼びかけです。そしてこれは、みんなを落胆させてしまう「即座の完璧さ」という理想よりも、はるかに現実的なことです。
あなた自身への適用
- 自分でもコントロールできず、自分自身を驚かせるような反応が、私の中に繰り返し起きていないでしょうか。それを、延々と自分を責める代わりに、過去の傷と結びつけて考えることができるでしょうか。
- 三つの根本的な欲求(愛されること、認められること、安全であること)のうち、どれが私を最も、主を求める代わりに人間的な戦略に走らせているでしょうか。
- ヤコブ5:16の意味での「告白」を、誰にできるでしょうか。恥じることなく、はっきりと声に出して自分の抱えているものを名づけ、兄弟姉妹に共に祈ってもらうために。
- 今週、どの具体的な思いに対して、長い間信じてきた嘘を置き換えるために、真理の御言葉を当てはめるでしょうか。
- 私の目には見えなくても、主がすでに私の人生の中で起こしてくださっている小さな成長にはどんなものがあるでしょうか。まだできていないことで自分を裁く代わりに、それを感謝する時間を取っているでしょうか。
引用された聖句
- ヘブライ 4:14-16 — 同情してくださる大祭司
- ローマ 7:14-25 — 望む善を行わない私
- ヤコブ 5:16 — 互いに罪を告白し合いなさい
- 第二コリント 10:5 — すべての思いをキリストに従わせる
- 第一テモテ 4:15 — あなたの成長がすべての人に明らかになるように
- イザヤ 63:9 — 主は愛によって彼らを贖い、担ってくださった
よくある質問
このアプローチは心理学と信仰を混ぜているのですか。
これは、聖書が昔から語ってきたことを踏まえています。私たちは純粋な霊だけの存在ではなく、肉をまとった存在であり、主はそのことを踏まえてくださっている、ということです。傷ついた脳の働きを理解することは、恵みの代わりになるものではありません。恵みがどこで、どのように働くのかを知るための助けです。土台はあくまで御言葉と、イエス・キリストご自身です。
自分の傷を認めることは、自分の罪の言い訳になりませんか。
いいえ、なりません。ある反応がどこから来ているかを理解することは、神の前でその責任を負わなくてよいということではありません。しかし、この理解はあなたの告白の仕方を変えてくれます。もう延々と恥の中にとどまるのではなく、何が起きたのかを正確に名づけ、主にその実だけでなく、根っこを癒してくださるようお招きするのです。
なぜこの癒しには時間がかかるのですか。
聖化とは一つの出来事ではなく、一つの道だからです。体の傷が治るのに時間がかかるように、魂の傷にも時間がかかります。主は、触れて立ち去る施術者のようにではなく、その人に寄り添うセラピストのように癒してくださいます。共に歩む教会の中で、少しずつの成長を期待してください。
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