ルカによる福音書6章:イエスを人生のすべての主とする

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はじめに

「イエスを救い主として受け入れるほうが、おそらく簡単です。自分にはイエスが必要だと分かっているからです。けれども、イエスを主としてあり続けることは、もっと難しいのかもしれません。」ウッドランズ教会の主任牧師レイチェルは、ナイジェル・サベージとともにこの教会を導いています。教会で洗礼を受ける人が増えていることをきっかけに、すでにイエスに従っている人たちに、シンプルな問いを投げかけます。どうすれば、イエスを主として選び続けられるのでしょうか。

前の日曜日、教会ではイエスを救い主として語りました。今回のメッセージのテーマは、イエスが主であることです。中心となる聖書の言葉は、ルカによる福音書6章のイエスの言葉です。「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」

レイチェルは、家庭での出来事、息子から借りた車のハンドル、そしてイエスの足もとにひれ伏した二人の人を通して、イエスが主であるということは、日曜の朝の賛美の中だけの話ではなく、あなたが自分で握っていたい領域にこそ関わることだと語ります。

メッセージの流れ

1. 救い主であり、主でもあるイエス

  • 今学期、十人ほどが夜の礼拝で洗礼を受ける予定です。多くは若い世代の人たちです。約400人の前で、YouTubeの生配信も行われる中、イエスへの献身を表明します。
  • 家族や友人の前で、ときには「少し戸惑っている」同僚の前で、その決意を語ります。
  • 洗礼を受ける人への問いははっきりしています。罪と悪を捨て、イエス・キリストを主また救い主として歩みますか。
  • 私たちは、救い主としてのイエスの恵みを喜んで受け取ります。けれども、「あなたは私の主でもあります」と言い続けることには、代価が伴い、難しいこともあります。

2. 「主」とは何を意味するのか

  • イエスは新約聖書の中で700回以上、訳によっては約740回、「主」と呼ばれています。福音書でもパウロの手紙でも、人々はイエスの前にひざまずき、イエスを主と呼んでいます。
  • これは、「〇〇さん」と呼ぶような軽い呼び名ではありません。イエスがどなたであるか、そしてその方が何を担っておられるかを告白する言葉です。
  • クリスマスの物語では、御使いが羊飼いたちに告げます。「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」(ルカ2:11)。
  • ピリピ人への手紙2章の賛歌で、パウロは、神がイエスにあらゆる名にまさる名を与えられたと書いています。それは「イエスの御名によって、…あらゆるものがひざをかがめ」、「あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して」、栄光を父なる神に帰するためです。
  • ギリシャ語のキュリオスは、主人、つまり他の者に対して最高の権威をもつ方を意味します。イエスに当てはめると、被造物、霊的な世界、病、死、罪、そして私たちに対する、イエスの完全な権威を表します。「私たちが信じようと信じまいと、イエスはすべての主です。」

3. 「お母さんが決めるんじゃない」:争われる領域

  • ここが、争いの起こる場所です。「私は自分の人生の主でいるのが好きです。正直になれば、皆さんのほとんども、そうだと思います。」
  • レイチェルは、子どもが小さかったころの出来事を話します。我が家のルール(年齢と同じ分数だけ座る)に従って、反省の階段に座らされた子が、階段から叫びました。「お母さんが僕のことを決めるんじゃない!」彼女は答えます。「いいえ、決められます。好むと好まざるとにかかわらず、私はあなたの母親だからです。」
  • 彼女は、そのとき自分が悪い手本を見せていたことを認め、そのうえで安心させます。「今は大丈夫です。すべて癒やされ、赦されています。」けれども、その子は私たち皆が感じていることを口にしていたのです。自分のことは自分で決めたい、決定権は自分にほしい、ということです。
  • 私たちは、お金、仕事、誰と話すか、誰を赦して誰を赦さないか、誰と平和に暮らすかを、自分で握っていたいのです。「ひどい人を愛しなさいなんて言われたくありません。そんなの意味が分かりません、神様。」
  • イエスはそこでも主でありたいと願っておられます。賛美しているときだけでなく、「火曜日の午後3時半、職場で」、同じ空間を共有している気難しい人のそばでも、です。

4. ルカ6章:岩の上に家を建てる

  • イエスは言われます。「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞いて行う人は、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている、と言われます(ルカ6:46-49)。
  • イエスは、自分を主と呼ぶ人が、イエスの言うことを行うことを求めておられます。イエスの教え、イエスの生き方、イエスが示されたことに従うのです。「ほとんど簡単すぎるくらいです。本当にそんなに簡単なのですか、イエス様。本当に? はい。」
  • 嵐は来ます。ときには容赦なく吹き荒れます。今まさに嵐の中にいる人もいれば、過ぎ去ったばかりの人もいれば、次の嵐が地平線に見えている人もいます。岩の上に建てた家の周りでも、風は吹き、窓はがたがた鳴り、すきま風は入ってきますが、家は揺らぐことも流されることもありません。
  • 聞くだけで行わない人は、土台なしで家を建てる人です。「そんなことをする人がいるでしょうか。」その家は倒れてしまいます。
  • イエスを主とするとは、イエスの権威のもとに入り、聖霊の助けによって従順に歩むことです。「イエスが私たちの権威のもとに来られるのではありません。私たちが権威のもとに入るのです。イエスは主であり、私たちはそうではありません。」

5. ハンドルを握っているのは誰か

  • レイチェルは十代のころに教わったたとえを取り上げます。息子から借りたハンドルを手にして、こう語ります。私たちの人生は車のようなもので、私たちは運転席に座っていたいのです。
  • 私たちは、お金のこと、何を献げて何を献げないか、仕事のことを、自分で決めたいのです。結局のところ、それは主導権の問題です。
  • そこで、イエスには後ろの席に乗っていただきます。「子どもたちや犬、そして床にくっついたお菓子の包み紙と一緒に」です。イエスは景色について話してくださいます。ときには助手席に移っていただきます。道案内が上手で、渋滞のときには慰めてくださるからです。事故を起こせば、イエスは降りてきて、問題を片づけてくださいます。
  • 「でも皆さん、イエスは助手席の同乗者ではありません。運転手なのです。」
  • イエスが主であるかどうかは、イエスがあなたのしたくないことを求められるときに分かります。もっと寛大になること、保留にしている人を赦すこと、行動を改めること。イエスはすべての主であるはずです。「一部分だけの主ではありません。」
  • イエスもゲツセマネでその瞬間を経験されました。苦しみの中で祈られます。「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)。イエスは、ゆだねることの葛藤を知っておられます。けれども、それは自由と愛へ向かう道です。

6. なぜイエスを主として選び続けるのか

  • イエスはどのみち主です。では、なぜそれを選ぶことが大切なのでしょうか。第一の理由は、それが真実であり、自由は真実の中にあるからです。レイチェルは、大きな代価を払って自分の人生のある領域でイエスを主としたとき、そこに「力と自由」を見いだしました。
  • この真理は私たちを縛るのではなく、人生を広げてくれます。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:31-32)。
  • 第二の理由は、イエスはあなたよりもよくあなたの人生を導いてくださるからです。あなたが自分を愛する以上にあなたを愛し、より信頼でき、より広い視野をもち、あなたの中に実を結ばせたい賜物を置いておられます。「イエスはあなたが自分を知っている以上に、あなたを知っておられます。なんという安心でしょう。」
  • 私たちは主導権を握ることに安全を求めますが、主導権は幻想です。思いがけない出来事が一つ起これば、自分には何も制御できないと気づきます。私たちの安全は、イエスから来ます。
  • それは一度きりではなく、何度も繰り返す必要があります。人間関係、仕事、行動、選択、お金、子どもたち、将来、健康、病。「すべてをイエスにゆだねるとき、そこに自由があります。」

7. イエスの足もとにひれ伏す

  • ルカによる福音書を読み進める中で、レイチェルはある点に心を打たれました。十二年間病んでいた女性は、イエスの衣にさわって癒やされ、イエスの足もとにひれ伏します。同じ場面で、娘が病気だったヤイロも、イエスの足もとにひれ伏します(ルカ8:40-56)。
  • イエスの足もとにひれ伏すことは、弱さに見えるかもしれません。しかし実際には、力と信頼とゆだねる心のしるしです。「イエス様、私にはこれができません。あなたにしていただく必要があります。私ではなく、あなたが。」
  • 「イエスの足もとにひれ伏すとき、良いことが起こります。」女性は癒やされ、ヤイロの娘も癒やされました。
  • 敵が「気にしなくていい、大丈夫、無視すればいい」とささやくところで、イエスは言われます。「わたしはあなたの人生のその領域の主になりたい。」従順は窮屈に見えますが、「従順のあるところに、自由があります。」
  • パウロは、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない、と書いています(1コリント12:3)。「ああ、安心しました。」こぶしを握りしめて頑張る必要はありません。力を与えてくださるのは聖霊です。
  • イエスは「いばる人でも、自己中心的な人でも、独裁者でもありません。」これは、あなたの人生のその領域で、イエスに運転席に座っていただくための招きです。レイチェルはそのあと、聖霊があらゆる領域でイエスを主とする自由と力を与えてくださるよう祈ります。

心に留めたいこと

  • イエスを救い主として受け入れることと、イエスを主として選び続けることは別のことです。そして後者は、何度でも繰り返すものです。
  • 「主」は丁寧な呼び名ではありません。被造物のすべてとあなたの人生に対する、イエスの最高の権威を表す言葉です。
  • ルカ6章によれば、イエスを主と呼ぶとは、イエスの言うことを行うことです。嵐の中で家を立たせるのは、この従順です。
  • イエスは、あなたの人生の同乗者ではなく、運転手であるはずです。
  • 従順のあるところに自由があります。そして「イエスは主である」と言えるようにしてくださるのは聖霊です。

自分に当てはめてみましょう

  1. あなたの人生のどの領域(お金、仕事、人間関係、赦し、将来)を、まだ自分のものとして握っていますか。
  2. 今、あなたの車の中で、イエスはどこにおられますか。後部座席、助手席、それともハンドルを握っておられますか。
  3. 最近イエスから求められたのに、保留にしていることは何ですか。
  4. 職場などで、イエスがあなたの態度の主となりたいと願っておられる、気難しい相手は誰ですか。
  5. 今週、どの領域で、イエスの足もとにひれ伏して「私ではなく、あなたが」と言う必要がありますか。

引用された聖書箇所

よくある質問

イエスを「主」と呼ぶとは、どういう意味ですか。

ギリシャ語のキュリオスは、主人、つまり他の者に対して最高の権威をもつ方を意味します。レイチェルにとって、これは単なる丁寧な呼び名ではありません。イエスを主と呼ぶとは、被造物、病、死、罪、そしてあなた自身の人生に対するイエスの権威を認めることです。

ルカ6章の「岩の上に建てた家」のたとえは、何を教えていますか。

イエスは問われます。「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」イエスの言葉を聞いて行う人は、岩の上に家を建てる人です。嵐が来ると、風は吹き、窓はがたがた鳴りますが、家は流されません。イエスを主とするとは、イエスに従うことです。

なぜイエスに従うと自由になれるのですか。

イエスはどのみち主であり、真理の中に生きることが私たちを自由にするからです。イエスはあなたよりもよくあなたの人生を導き、あなたが自分を愛する以上にあなたを愛し、あなたが自分を知っている以上にあなたを知っておられます。主導権は幻想にすぎません。安全は、自分で握ることからではなく、イエスから来ます。

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