はじめに
勉強でも、アルバイトでも、仕事でも、部活でも、さらには教会での奉仕や個人伝道、さまざまな働きの中でも、自分の努力が無駄に思えたことはありませんか。2026年10月22日の祈祷会で、中山聖伝道師が投げかけたのは、この問いでした。場所は福岡の油山シャローム教会です。
メッセージは九州大会の直後に語られました。中山聖伝道師は、準備、片づけ、祈りの場面で「水をくんだ僕たちのように」仕え、支えてくれたすべての人に感謝を伝えます。そして、中高生が青年の賛美チームに加わり、子どもたちまでが賛美をリードする姿に、新しい世代が起こされつつあることを喜びます。「権勢によらず、能力によらず、わが霊によるのである」。働かれたのは、自由に動かれる聖霊でした。
喜びをもって始めたはずなのに、気がつけば疲れ、渇き、むなしさを覚え、途中で喜びを失っている。このような状態への答えとして、ヨハネによる福音書2章1-11節、カナの婚礼を開き、「主の栄光を現す者」と題して語ります。ここで見つめるのは二つの姿勢です。イエスの時に向けて備えるマリヤの信仰と、水がめを満たした僕たちの従順です。
メッセージの流れ
1. ぶどう酒がなくなったとき
- 舞台はガリラヤのカナでの婚礼です。イエスが育ったナザレはすぐ近くの町でした。新郎新婦は、イエスの幼なじみや親戚、近所の人だったのかもしれません。
- マリヤは、招かれた客の側ではなく、客を迎える側にいたようです。
- 当時の婚礼は数日間、ときには一週間近く続きました。自分の結婚式を準備したばかりの説教者は、丸一週間は大変だと打ち明けます。礼拝後に教会が自分と妻のために開いてくれたお祝いの持ち寄りの食事や、前の日曜日の「コネクトランチ」を思い起こし、一度の食事だけでも大変な労力がかかると語ります。
- ぶどう酒は喜びの象徴であり、祝宴には欠かせないものでした。もしそれが足りなくなれば、客は「あの家は何も準備していなかった」と言い、うわさは町中に広まり、若い二人の新生活は暗い出だしになりかねません。家は自分たちの経済力を示す必要もありました。
2. イエスの意外な答え
- マリヤはイエスに助けを求めに行きます。「この子なら何とかしてくれる」と。息子を頼りにする母親として、ごく自然なことです。
- ところがイエスの答えは冷たく聞こえます。「婦人よ、あなたは、わたしと何のかかわりがありますか。わたしの時は、まだ来ていません」(4節)。
- 説教者は会衆を笑わせます。妻から卵を買ってきてと頼まれたり、ゴミを出してと頼まれたりして、「婦人よ、あなたは、わたしと何のかかわりがありますか」と答えたら、家族会議になるでしょう。三十歳を過ぎた息子が、牛乳を買ってきてと頼んだ母親にそう答えたら、母親は怒りを爆発させるか、言葉を失うか、泣き出すかのどれかでしょう。
- この言葉の意味は別のところにあります。イエスが見ておられるものは、マリヤが見ているものとは違うということです。十字架と復活と昇天の時、救い主としてご自身を現される時は、まだ来ていませんでした。
3. 主の時に備えるマリヤの信仰
- マリヤは落ち着いています。神の子であるイエスへの信頼は、自分の息子への信頼を超えています。彼女の信仰は、ものごとを心に納める信仰です。
- 感情的になることもできたはずです。しかしマリヤは、イエスの言葉を謙遜に受けとめ、言葉の奥にある本当の意味を探り、人々の心を整えます。「このかたが何かお命じになったら、そのとおりにしてあげてください」(5節)。主が働かれるために、すべてを備えたのです。
- この備えがなければ、イエスの最初の奇跡はその場所で起こらなかったかもしれません。
- 「奇跡を起こしてください、状況を変えてください、これをください」と祈るのは簡単です。求めることは悪いことではありません。けれども、奇跡は主の時に必ず来ると信じて、そのために備えているでしょうか。それとも「これで十分」と満足してしまっていないでしょうか。
- 祝福の新しいぶどう酒は、古い皮袋を破ります。用意したのが一杯の器だけなら、ぶどう酒はあふれます。器が汚れていれば、ぶどう酒は飲めなくなります。器がほこりにまみれたままなら、ぶどう酒を注ぐことはできません。
- 説教者は、家族や友人、地域、職場の同僚、学校の仲間の救い、福岡と日本のリバイバル、世界宣教の大きな波を思い描きます。それを古い皮袋で受けとめることはできません。
- 自分の時ではなくイエスの時を待ち、その言葉を受けとめて備える信仰を求めること、そしてその信仰への渇きを神に求めることを、説教者は呼びかけます。
4. 理解できない命令に向き合う僕たち
- 6節から8節は、僕たちに光を当てます。説教者にとって彼らは尊敬に値する人たちです。よく知らない男性から、意味の通らない命令を受けたのですから。
- 石の水がめが六つ。それぞれ二ないし三メトレテス入りです。メトレテスはギリシア語の単位で、「テストに出そうな言葉」だと説教者は言います。一メトレテスは約40リットルですから、水がめ一つが80から120リットル、小さな冷蔵庫ほどの大きさです。合計で普通の浴槽の二、三杯分、およそ700リットルになります。
- 「かめに水を満たしなさい」。「本当にひどい上司ですよね」。必要なのはぶどう酒であって、700リットルの水ではありません。
- 水道はありません。井戸まで行かなければなりません。途中で誰かがこう思ったかもしれません。「自分は何をしているんだ。あの婦人は、あの人の言うとおりにしなさいと言ったのに、水をくんでこいだなんて。明日は仕事を辞めよう」。
- それでも彼らは最後まで働き抜き、水がめを縁までいっぱいにしました。
5. 料理がしらのもとへ水を運ぶ
- ようやく休んだところに、その人が戻ってきます。僕たちはねぎらいの言葉や報酬を期待します。ところが彼が出したのは、さらに無茶な命令でした。「さあ、くんで、料理がしらに持って行きなさい」(8節)。
- これらの水がめには、ユダヤ人の習慣にしたがって手や足を清めるための水が入っていました。洗い清められた罪の象徴であり、それは同時に罪を思い起こさせるものでもありました。古い水が残っていたかもしれません。
- その水を宴会の責任者に持って行くのは、職を失う危険を冒すことでした。「辞めるまでもなく、クビになる」と。彼らにどれほどの信仰があったかはわかりません。つらいと感じていたかもしれませんが、それでもイエスの言葉だけに従い続けました。
- 説教者は彼らの思いを想像します。「なんてばかげた、無駄な仕事だ。ぶどう酒を用意しろと言われたのに、運んでいるのは水だ。クビになる、町中の笑い者になる。もういい、あの人のせいだ。今はとにかく言われたとおりにしよう」。
- 彼らは震えながら杯を差し出します。「まるで危機のさなかに爆弾を持ち込むようなもの」です。料理がしらは味わい、顔色を変え、花婿を呼びます。僕たちは思います。「もう終わりだ」。
- ところが、その顔に怒りはなく、喜びにあふれていました。「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出し、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」(10節)。僕たちは信じられません。確かめるために自分で味わったかもしれません。それは比べようもない上質のぶどう酒でした。
6. イエスは無名の人々を用いられる
- この奇跡を知っていたのは、マリヤと弟子たちと僕たちだけでした。こうした名もない僕たちが、イエスの手となり足となり、そのみわざの協力者となり、いちばん近くでそれを見ることになりました。
- イエスは、宣教をもっと早く進めるために、有名な人、有能な人、力のある人、裕福な人を選ぶこともできました。そうされることもあります。けれども、主の栄光が現されるために、名もなく力もない人々を喜んで用いられます。
- 今日も主は、御声に耳を傾ける従順な僕、導きに従う柔軟な人、「良い管」を探しておられます。そのような人を通して、ほかの人々が主の奇跡を見、主に出会い、主がどなたかを知るのです。
- 「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。弟子たちはイエスを信じた」(11節)。この日は転機となり、弟子たちは生涯イエスに従うと決心しました。
- 祝宴のさなかに、イエスはご自分の時が来ていることを示されました。あのぶどう酒のように、新しいぶどう酒が十字架で流されようとしていました。すべてにまさる喜びのぶどう酒です。説教者は、教会がこの喜びのぶどう酒を、友人や家族、そしてそれぞれの地域へ、新しい皮袋をもって届けることを願っています。
7. 御声に耳を傾け、ともに歩む
- 「主の栄光を現す者になりたいですか。それなら、イエスの御声に耳を傾けてください。」
- 主が与えられるものが、自分の求めていたものと違っても、不公平に思えても、無駄に、あるいは不条理に思えても、自分や周りの人の価値観とかけ離れていても、それが主イエス・キリストの御声であり、御言葉にかなっているなら、従いましょう。
- このようにして主の時に備えながら歩むとき、イエスご自身がすべての責任を、あなたの人生の責任を負ってくださいます。ですから、恐れずに、あるいは恐れや疑いを抱えたままでも、一歩ずつ進みましょう。
- ひとりでは進めないときがあります。僕たちもひとりではありませんでした。「隣の人を見てください。誰がいますか」。日本の宣教を託された友であり、福岡の救いのために仕える同労者です。
- 誰もが悩みや恐れやためらいを抱えて来ていますが、イエスの御声を聞きたいという願いを持っています。この集まりの中に、主の栄光はすでに現されています。説教者は、この栄光が福岡で、自分を通して、そしてシャローム教会を通して現されることを願っています。
- メッセージは招きで結ばれます。主を待ち望み、御言葉に信頼し、主を待ち、主に従うこと。僕たちのように、それぞれが自分の水がめを満たすこと。定められた時に、主は祈りに答え、栄光を現してくださいます。最後の祈りで説教者は、自分の力と手段ですべてを成し遂げようとする弱さを赦してくださるよう願いました。
ポイント
- 婚礼のぶどう酒は喜びの象徴でした。イエスは、尽きてしまった喜びよりも良い喜びを与えてくださいます。
- マリヤは戸惑う答えを受けても感情的になりません。イエスを信頼し、ほかの人々がイエスに従えるように備えます。
- 奇跡を求めることは悪いことではありませんが、それを受ける備えが必要です。新しいぶどう酒には新しい皮袋が必要です。
- 僕たちは不条理な命令にも最後まで従いました。最初の奇跡をいちばん近くで見たのは彼らです。
- イエスは名もない人々を用いて栄光を現されます。御声に従うなら、その先の責任は主が負ってくださいます。
個人的な適用
- あなたの人生のどの分野で、努力が無駄に思え、喜びを失っていると感じますか。
- 神が思いどおりに答えてくださらないとき、マリヤのように落ち着いて信頼していますか。それとも怒りで反応していますか。
- 祈りで求めていることを受ける備えをしていますか。それとも「これで十分」と満足してしまっていませんか。
- イエスのどの言葉が、今のあなたには無駄、あるいは不条理に思えますか。従うための最初の一歩は何でしょうか。
- ともに歩む人は誰ですか。今週、その人をどのように励ますことができますか。
引用した聖句
よくある質問
ヨハネ2章4節で、イエスの母への答えが冷たく聞こえるのはなぜですか。
中山聖伝道師によれば、イエスの言葉の意味は、ご自分が心にかけておられることはマリヤが見ているものとは違う、ということです。十字架と復活と昇天の時、救い主としてご自身を現される時は、まだ来ていませんでした。マリヤは落ち着いていました。彼女は、自分の息子としてよりも、神の子としてイエスを信頼していたのです。
カナの婚礼の石の水がめは何を表していますか。
この六つの水がめは、ユダヤ人の清めの儀式に使われ、手や足を洗うためのものでした。洗い清められた罪の象徴であり、同時に罪を思い起こさせるものでもありました。容量は一つあたり80から120リットル、合計でおよそ700リットルです。イエスは、この水を比べようもない上質のぶどう酒に変えられました。
ヨハネ2章1-11節によると、どうすれば主の栄光を現すことができますか。
イエスの御声に耳を傾けて従うことです。その言葉が無駄、あるいは不条理に思えるときも、水がめを満たし、その水を料理がしらに運んだ僕たちのように従います。説教者は、そのときイエスがその後のすべての責任を負ってくださり、名もない人々を用いてご自身の栄光を現されると語っています。