マルコ2章:イエスは安息日の主、そして毎日の主

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はじめに

ある安息日、イエスの弟子たちは麦畑を通っていきます。お腹がすいていた彼らは、穂を何本か摘み、手でもんで、その実を食べました。するとすぐに、パリサイ人たちが抗議します。「ごらんなさい、なぜ彼らは安息日にしてはならないことをするのですか」。

千歳福音キリスト教会(日本)の牧師は、ここでマルコの福音書の連続講解を続けています。二週間前には断食について語りました。この日曜日は、人のために与えられた戒めが、宗教指導者たちの手によって、束縛だらけの日になってしまったことを示しています。

イエスの答えはたった一言です。安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。そして、あなたの一週間すべてに関わる宣言が続きます。人の子は安息日にも主である、と。

メッセージの流れ

1. 断食は、信仰を測る当てにならない物差し

  • 断食とは、一定の期間、飲み食いを控えることです。健康法でも体の鍛錬でもなく、霊的な領域、信仰に属する行いです。
  • レビ記16章29節で、神はモーセを通して、イスラエルに年に一度、七月の十日に断食するよう求めておられます。
  • ところが人は、信仰の場面でも、できるだけ良い姿を見せたがるものです。パリサイ人や律法学者たちは、定められた時以外にも断食し、それを人に知らせました。やつれた顔、青ざめた表情で、人々の前に現れたのです。
  • 断食の回数は信仰の物差しではありません。たくさん断食したからといって、他の人より神を信頼しているという証拠にはなりません。
  • こうした人々を笑うのは簡単です。しかし私たちも、霊的なレベルを比べたり、自分の熱心さをひそかに誇ったりすることがあります。牧師は、目を覚ましているよう勧めています。

2. 安息日に摘まれた穂

  • 宗教指導者たちは、律法を細部に至るまで守ろうとしていました。特に安息日の過ごし方については、一歩も譲りませんでした。
  • イエスと弟子たちは旅の途中です。弟子たちはお腹がすいて、穂を摘み、手でもみ、もみ殻を吹き飛ばして、白い実を口に入れます。
  • 牧師は東京での子どものころを思い出します。歩いて教会に通い、「あまり良い生徒ではなかった」こと、長椅子を飛び越えたこと、冬には石炭ストーブを真っ赤にして遊んだことなどです。そんな中でも、教会学校の先生が話してくれたこの出来事は覚えているそうです。のちに麦畑のそばを通ったとき、牧師は弟子たちとまったく同じことをしました。味はもう覚えていませんが、思っていたほど「悪くなかった」こと、少し甘かったかもしれないということは覚えているそうです。
  • その行為自体には、何も問題はありませんでした。申命記23章24-25節は、隣人のぶどう畑や麦畑に入って、好きなだけ食べてよいと認めています。ただし、何も持ち出さず、麦に鎌を入れてはいけません。つまり、食べるのに必要な分だけ取り、それ以上は取らない、ということです。
  • 問題となったのは日でした。その日は安息日だったのです。

3. 戒めが重荷になるとき

  • 第四の戒めははっきりしています(申命記5章12-14節)。六日間働き、七日目は誰も働かない。子どもも、しもべも、家畜も、寄留の外国人もです。これは良いことです。今日でも私たちは、七日に一日は休むのが普通です。
  • 問題はそのあとに起こりました。戒めが「ひとり歩きを始め」、宗教指導者たちは、何が労働にあたるのかを細かく定めたのです。人々の安全と健康と平和のために与えられた戒めが、とても守りにくいものになってしまいました。
  • 禁じられた労働は39の分類にわたっていました。種まき、耕作、刈り入れ、束ねること、脱穀、あおぎ分け、収穫物を洗うこと、ひくこと、こねること、パンを焼くこと、二本の糸を織ること、結び目を作ったりほどいたりすること、二針縫うこと、二文字書くこと(一文字なら許されました)、二文字書くために消すこと、などです。
  • パリサイ人にとって、穂を摘むことは刈り入れであり、手でもんで実ともみ殻を分けることは脱穀でした。それが彼らの抗議の理由です。
  • 当時のユダヤ人たちは、何も破らないようにという、声にならない重圧の中で生きていました。本来は、主がともにおられることを皆で思い出す喜びの日であるはずの安息日が、息苦しい日になっていたのです。神が律法を与えられたときの願いは、そうではありませんでした。
  • 牧師は、聞いた話を紹介します。ユダヤ人が多く住む一部の建物では、安息日(金曜の夜から土曜の夜まで)の間、エレベーターが各階に止まるそうです。ボタンを押すことが労働にあたるからです。十五階なら、十五回止まります。

4. イエスの答え:ダビデが行ったこと

  • イエスは問いかけで答えます。「ダビデとその供の者たちが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのか。」 そしてダビデが神の家に入り、祭司のほかは食べてはならない供えのパンを食べ、供の者たちにも与えたことを思い出させます。
  • この出来事はサムエル記上21章にあります。紀元前10世紀ごろ、ダビデはサウル王に追われていました。反乱を企てていると、誤って疑われたのです。彼は部下たちとともに、何度も逃げ続けます。
  • ダビデは聖所に行き、そこで祭司アヒメレクに会います。アヒメレクはダビデの窮状を察し、聖別されたパンを渡しました。そのパンは、主の前から下げられたあとは、祭司の家の者だけが食べられるものでした。こうしてダビデは部下たちを養うことができました。
  • ダビデが規定を超えてこのパンを受けたのなら、神の御子が弟子たちに穂を摘むことを許されたとしても、人が作った決まりを超えているからといって、どうして責められるでしょうか。
  • イスラエルの民にとって、ダビデは過去の人物ではなく、絶対的な英雄です。おそらく誰も彼を非難しなかったでしょう。ダビデを認めながら弟子たちを責めるのは、自己矛盾です。

5. イエスは安息日を廃止せず、その制定者である

  • 牧師は誤解のないよう強調します。イエスは安息日も第四の戒めも軽んじてはおられません。
  • 福音書を読むとき、イエスがどなたであるかを忘れないでください。イエスは全世界の創造主です。父と聖霊とともに、十戒を含むこれらの戒めをご自身で定め、モーセを通してイスラエルに伝えられました。ご自分が与えたものを軽んじることなどできません。
  • むしろ牧師は、主がこの戒めが誤って伝えられ、誤って理解されていることに心を痛めておられたのではないかと考えています。
  • 「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。」 安息日とは、人が自分の手の働きをすべて置いて、生ける神を礼拝する日です。休み、収穫とそれを得るための仕事を与えてくださった方をほめたたえる日です。
  • 「ただ休むことではありません。」 休み、神をほめたたえ、神にあって喜ぶ。それが安息日です。
  • 農耕や牧畜を営む民にとって、七日に一日手を止めるには勇気が要りました。人手がどうしても必要な最盛期に、定期的に仕事をやめることは、経済的にも本当のリスクを伴う冒険です。外から見れば、愚かなことに見えるかもしれません。

6. 安息日にも主である方:すべての日は主のもの

  • 東京の神学校の旧約聖書の教師が、十戒についての本の中で、安息日とは七日目に仕事をやめることだけではないと書いています。六日間働き、七日目にやめるということ。したがって広い意味では、七日間すべてをどう生きるかという問題なのです。
  • 牧師はこうまとめます。安息日の決まりは、働く六日間も含め、毎日を神との関係の中でどう生きるかを示している。月曜から土曜まで、安息の日のように神とともに生きることが大切なのだ、と。
  • イエスは言われます。「人の子は安息日にもまた主なのである。」「人の子」は、イエスがご自分について用いる称号で、特に、ご自分がメシアであることを示すときに使われます。
  • イエスは、安息日の主であると言っただけではありません。安息日「にも」主であると言われました。この小さな言葉はとても大切です。イエスは日曜から土曜まで、すべての日の主なのです。
  • 多くのクリスチャンは日曜日を主の日として過ごしており、それは健全なことです。けれども月曜日はどうでしょう。学校の日、会社の日、家庭菜園に水をやる日。「もう終わった、あれは昨日のこと、今日は私の日だ」と思っていないでしょうか。いいえ。月曜日も、火曜日も、水曜日も、主の日です。
  • あなたの一日の主人は誰でしょうか。あなたを導き、あなたの人生を導いておられるのは誰でしょうか。牧師は教会の人々に、始まる一週間を、心を主に向けて過ごすよう招いています。

心に留めたいこと

  • 宗教的な行いの回数は、信仰の物差しではありません。霊的に見られたいという願いは、私たちにも忍び寄ります。
  • 人が付け加えた決まりが、喜びの日を束縛の日に変えてしまいました。それは神のみこころとは正反対です。
  • 安息日は人のために作られました。休み、仕事を置き、神を礼拝し、神にあって喜ぶための日です。
  • イエスは戒めを廃止するのではなく、父と聖霊とともに、その制定者です。
  • 人の子は安息日にも主です。日曜日だけでなく、あなたの一週間のすべての日が主のものです。

個人への適用

  1. あなたの信仰生活の中に、他の人と自分を比べたり、人に見せたりするために使っている行いはありませんか。
  2. あなたは信仰に、書かれたものであれ、書かれていないものであれ、どんな決まりを付け加え、自分や他の人を息苦しくさせていませんか。
  3. あなたの休みの日は、ただの息抜きでしょうか。それとも、神を礼拝し、神にあって喜ぶ時間でしょうか。
  4. 職場でも、学校でも、家庭でも、あなたの月曜日が主の日でもあるとしたら、具体的に何が変わりますか。
  5. 今週、一日のうちのどんな時に、あなたの人生を導いておられる方を意識して思い出すことができますか。

引用された聖句

よくある質問

なぜパリサイ人は、弟子たちが穂を摘んだことを責めたのですか。

他人の畑で穂を何本か摘むことは、律法で認められていました(申命記23章24-25節)。問題はその日でした。安息日だったのです。宗教指導者たちは、禁じられた労働を39の分類に定めていました。穂を摘むことは刈り入れ、手でもむことは脱穀にあたるとされたのです。

「安息日は人のためにある」とはどういう意味ですか。

神は人の益のために安息日を与えられました。六日間働き、その後はしもべも家畜も含め、皆が休む一日です。安息日は単なる休みの日ではなく、自分の手の働きを置いて、生ける神を礼拝し、神にあって喜び、ほめたたえる日です。

なぜイエスは、安息日「にも」主であると言われたのですか。

牧師はこの小さな言葉を強調します。イエスは、安息日の主であると言っただけでなく、安息日にも主であると言われました。ですからイエスは、一週間のすべての日の主です。学校や仕事や家庭菜園の日である月曜日も、日曜日と同じようにイエスのものです。

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