2026年2月22日の日曜日、ルッツ牧師はマタイの福音書16章13〜27節を開き、あなたにとてもシンプルでありながら、めまいがするほど深い問いを投げかけました。あなたが自分の人生や選択、身に降りかかる試練、人間関係を見つめるとき、それを肉の目で見ているでしょうか、それとも御霊の目で見ているでしょうか。あなたが祈るとき、決断するとき、人のことを思っているでしょうか、それとも神のことを思っているでしょうか。
イエスはこのことでペテロを戒められました。最も身近な弟子であり、福音全体の中でも最も美しい真理を告白したばかりのペテロが、そのわずか数分後には「サタン」と呼ばれてしまったのです。なぜでしょうか。彼はイエスを愛していると信じながらも、出来事を自分自身の人間的な論理で判断していたからです。この説教は、あなたにも歩んでほしいと招かれている、その尾根のような境界線についてのものです。
1. ピリポ・カイサリアにて:「あなたがたはわたしをだれと言うか」
イエスはパンを増やし、盲人の目を開き、ガリラヤで数々の奇跡を行われた後、ピリポ・カイサリアに来られました。群衆はどこでもイエスのことを話していました。そこでイエスは弟子たちのほうを向いて、こう尋ねられます。「人々はわたしをだれと言っているか。」弟子たちは答えます。ある人はバプテスマのヨハネと言い、ある人はエリヤと言い、またある人はエレミヤか預言者のひとりだと言っています、と。
そこでイエスは問いをさらに絞り込まれます。「では、あなたがたはわたしをだれと言うか。」シモン・ペテロが答えます。「あなたは生ける神の子キリストです。」イエスは彼にこう言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。あなたにこれを明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父なのです。」
この告白は、ペテロ自身の人間的な思考から出たものではありません。父なる神の啓示によって与えられたものです。これこそ、イエスがご自分の教会を建てられる岩です。すなわち、イエスが生ける神の子キリストであるという告白です。そしてイエスはこう付け加えられます。「よみの門もこれに打ち勝つことはできません。」
2. 御国の鍵:弱い人間に託された霊的権威
イエスは続けてこう言われます。「わたしは、あなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、地上で解くことは天においても解かれます。」イエスはこれほど大きな霊的権威をペテロの手に委ねられました。しかもこのとき、ペテロはまだ弱い人間であり、まもなく師であるイエスを三度も知らないと言うことになる人物だったのです。
しかし主は、あなたの今の姿だけを見ておられるのではありません。十字架を経て、ペンテコステを経て、聖め(せいめ)の道を経たあとの、あなたの将来の姿もすでに見ておられます。主はあなたの中に、ご自分が完成させようとしている男性、女性の姿をすでに見ておられるのです。これはあなたへの慰めとなるはずです。あなた自身に失望するときも、周りの人たちに失望させられるときも、イエスは道のりの全体と、その行き着く先をしっかりと見ておられます。
この権威が本当の意味を持つのは、イエスがマタイ18章18〜20節でこれを再び取り上げられるときです。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのふたりが、どんな事でも、地上で心を合わせて求めるなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。ふたりまたは三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるからです。」あなたが他の信者たちと心を一つにして、イエスの名によって祈るとき、天が地上に向かって開かれます。御国において当たり前のことが、それが不可能とされているこの世界のただ中に降りてくるからこそ、奇跡が起こるのです。
3. どんでん返し:ペテロがイエスをいさめ、イエスが彼を「サタン」と呼ぶ
この輝かしい告白が語られたばかりだというのに、イエスはご自分の受難、すなわちエルサレムに上り、長老たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえることを、はっきりと語り始められます。するとペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めます。「主よ。とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずはありません。」
イエスの答えは、まるで刃物のように鋭く下されます。「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をする者です。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っているのです。」他の訳では、仕掛けられたわな、道に置かれたつまずきの石として語られています。人間的に見れば、ペテロは善意にあふれています。イエスを愛しているからこそ、彼に危害が及んでほしくないのです。ペテロはイエスより年上でもあり、ほとんど父親のような気遣いをもって語っています。それでもなお、この人間的な優しさの動きが、霊的なわなとなってしまうのです。
なぜでしょうか。受難こそ、人類を救うという神のご計画の核心そのものだからです。イエスが三年半の間になさったすべてのこと、すなわち奇跡、教え、御国の啓示は、すべて十字架を指し示していました。十字架を避けようとすることは、救いそのものを崩そうとすることなのです。イエスはまことの神であると同時に、まことの人でもあられました。ご自分を待ち受けているものを恐れ、ゲツセマネでこう祈られたほどです。「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のままになさってください。」十字架を避けるようにと勧める人間の言葉はどれも、実はご自分への誘惑となっていたのです。
4. わたしたちの「良い」祈りのどれほどが、神のご計画の妨げになっているか
この箇所は、あなたに厄介な問いを突きつけます。クリスチャンでない人々の多くも、善意をもって良いことを行っています。そしてクリスチャンの多くもまた、人間的な価値観、常識、「自分にとって正しいと思えること」に基づいて祈り、行動しています。しかし、たとえ善意から出たものであっても、人間から出るものは、神のご計画の妨げになりうるのです。
あなたがあることを良いと思っているからといって、それが神の目にも良いとは限りません。しばしば、人間的な直感と神のご計画は、正反対の方向を向いています。だからこそ、行動する前に、熱心に祈り求める前に、いったん立ち止まり、静まって、主にこう尋ねる必要があるのです。「あなたのお考えは何ですか。」
問題は、わたしたちがすでに答えを知っていながら、それを聞きたくないと思っていることが多いという点です。心の中では、すでに自分が何をしたいかを決めてしまっています。神は決して無理強いなさいません。わたしたちの心がすでに別の方向を向いているとき、神は黙っておられます。確実な不従順へと、あなたをこれ以上落ち込ませたくないからです。
5. 自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい
イエスはそれに続けて、すべての弟子を定義することばを語られます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
自分を捨てるとは、自分の計画、野心、自分なりの判断をいったん脇に置き、何よりもまず主が望んでおられることを求めることです。それは生きること自体をあきらめることではなく、自分自身の人生の中心であり続けることをあきらめることです。
自分の十字架を負うとは、あなたを引き下ろす特有の弱さ(人をさばく傾向、怒り、高慢、貪欲、恐れなど)を見きわめ、それを毎日イエスとともに十字架につけることです。人はそれぞれ違う十字架を負いますが、約束は同じです。それは勝利です。
この土台がなければ、教会に十年、二十年と通い続けても、病んだ信仰のままでいることになりかねません。イエスははっきりと言われます。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。」あなたがどうしても守りたいと思っているもの(成功、快適さ、評判、計画)、まさにそれこそが、永遠のいのちを見出すために手放さなければならないものなのです。
6. 神が関心を寄せておられること、寄せておられないこと
主が第一に関心を寄せておられるのは、あなたが永遠のいのちを受けることです。あなたの給料も、学歴も、家も、それ自体には関心をお持ちではありません。主が望んでおられるのは、あなたの救いです。もちろん主は、あなたが健康で、平安のうちに、ある程度の豊かさをもって生きることも望んでおられます。神はあなたが苦しむのをご覧になりたいわけではありません。しかし、あなたの救いは、あなたの快適さよりも大切なのです。
だからこそ神は、ご自分でそらすこともできる試練を、時にお許しになります。神が試練を送られるのではなく、多くの場合、わたしたち自身の選択が、敵が付け入るすきを開いてしまうのです。しかし神は試練をお許しになります。なぜなら、それを通してあなたは神のもとに立ち返り、断ち切るべきものに気づき、神と結びつく聖さを取り戻すことができるからです。
27節でイエスが語られる最後のさばきは、天国に入るか入らないかだけに限られるものではありません。天国に入る者たちの間でも、あなたがどのように生き、どのように聞き、どのように従ったかによって、報いに違いが生じます。あなたが主に求めることのできる最も尊い賜物は、悔い改めの霊です。すなわち、自分の罪を顕微鏡でのぞくように見つめ、心から悔い改める恵みです。そうすれば主は、その罪をただちに取り除いてくださいます。
7. 世の価値観とは正反対の御国の価値観
神の考えがわたしたちの考えとどれほど違うかを実感できるように、ルッツ牧師は他の聖書箇所へとあなたを導きます。
マタイ18章4節。「ですから、この幼子のように自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」天の目から見て一番偉大なのは、学識ある者でも力ある者でもなく、自分を低くする者です。
マルコ10章42〜45節。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、あなたがたに仕える者になりなさい。あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人のしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり」
マルコ12章41〜44節。献金箱にレプタ二枚を入れた貧しいやもめは、イエスの目には、有り余る中から献げた金持ちたちよりも多くを献げたことになりました。神に語りかけるのは金額ではなく、献げ物の背後にある心です。
マタイ18章8〜9節。両足がそろったままゲヘナに投げ込まれるよりは、片足を失っても御国に入るほうがよいのです。これは単なるたとえ話ではありません。罪を捨てることにどれほど痛みが伴おうとも、救いの限りない価値がそれに勝るという、真剣な警告なのです。
8. 「人に従って」ではなく「神に従って」生き、そして死ぬこと
人間的には、誰もが健康なまま、一息のうちに人生を終えることを夢見るものです。それは実際、ある人々にとっては本当の恵みです。しかし時に、忠実なクリスチャンが長い病、あるいは突然の病に襲われることがあり、周りの人々は「なぜだろうか、これは不幸なことなのだろうか」と考えてしまいます。
それは必ずしも不幸なこととは限りません。備える時間のない突然の死は、赦されないままの赦し、告白されないままの罪、なされなかった和解を、そのままにしてしまうことがあります。反対に病は、主のもとに立ち返り、赦しを与え、身近な人たちと和解し、家族とついに本当の対話をするための時間を与えてくれることがあります。それは人間の論理では見えない、隠された恵みなのです。
9. 失われた羊:ただひとりのための神の心
マタイ18章12〜14節。羊飼いは九十九匹の羊を残して、迷い出た一匹を捜しに出かけます。そして、無事だった他の羊たちよりも、見つかったその一匹の羊のことを喜びます。「同じように、これらの小さい者がひとりでも滅びることは、あなたがたの天の父のみこころではないのです。」
人間は、人をその価値と見なされるもので選り分けます。しかし神はそのようなことをなさいません。どの魂も神にとって尊いのです。もしあなたが今、迷い出た羊であるなら、神はすでにあなたを捜しに向かっておられることを知ってください。もしあなたが九十九匹の側にいるなら、神が捜しに行かれるその人をさばいてはいけません。その動きの中にこそ、神ご自身の御心を見出してください。
覚えておきたいポイント
- ペテロの告白は、啓示から生まれました。「イエスは主です」とは、人間の知恵だけで言えることばではありません。それを明らかにされるのは父なる神です。
- 人間の善意は、霊的なわなになることがあります。それが神のご計画に反しているなら、たとえ愛情に満ちていても、それはつまずきとなります。
- 弟子はまず自分を捨てることから始まります。これがなければ、教会に十年、二十年通っても、健全な信仰は築かれません。
- 神は人を選り分けたりなさいません。神は九十九匹を残して、ただ一つの魂を捜しに行かれます。
- 求めるべき最も尊い賜物は、悔い改めの霊です。それはあなたに自分の罪を見させ、それを十字架に委ねさせてくれます。
個人への適用
- 今日、あなたはどんな決断において、神の御心を本当に尋ねることなく、自分の計画を神に押し付けようとしていますか。
- あなたが長い間続けている「良い」祈りの中に、実はあなたの状況において主がしようとしておられることと矛盾しているものはないでしょうか。
- 今のあなたの十字架は何ですか。ひとりで抱え込むのをやめて、毎日イエスとともに十字架につけるべき弱さは何でしょうか。
- あなたの人生の中に、赦すべき人、なすべき和解、手遅れになる前に伝えるべきことばはありませんか。
- あなたは具体的に悔い改めの霊を求め、神が次に示してくださることに、すぐに従う備えができていますか。
引用された聖句
- マタイ16:13-27(LSG) ・ ペテロの告白、受難の予告、十字架を負う召し。
- マタイ18:18-20(LSG) ・ 祈りにおける一致とイエスの臨在。
- マタイ18:4(LSG) ・ 御国で一番偉いのは幼子のように自分を低くする者。
- マタイ18:8-9(LSG) ・ 罪に対する徹底した決別。
- マタイ18:12-14(LSG) ・ 失われた羊のたとえ。
- マルコ10:42-45(LSG) ・ 支配するのではなく仕えること。
- マルコ12:41-44(LSG) ・ 貧しいやもめの献げ物。
- エペソ5章(LSG) ・ 結婚のモデルとしてのキリストと教会。
よくある質問
イエスはペテロを愛しておられたのに、なぜ「サタン」と呼ばれたのですか。
ペテロは知らず知らずのうちに、イエスを十字架からそらそうとしていたからです。しかし十字架こそ、人類を救うという神のご計画の核心です。ペテロの人間的な優しさは、霊的な妨げとなってしまいました。それは、荒野でサタンがすでに試みたのと同じ種類の妨げです。イエスはことばを正されたのであり、その人自身を退けられたのではありません。
ある決断が自分の人間的な考えから出たものか、神から出たものかを、どうすれば見分けられますか。
役に立つ三つの目安があります。みことば(聖書はその方向を裏づけているか)、神の前での沈黙(あなたは本当に手を止めて神に尋ねたか)、そして真に信仰に生きる兄弟姉妹の助言(単なる教会の友人ではなく、本当に神を求めている人たち)です。この三つが一致するとき、あなたはたいてい主の道を歩んでいます。
「毎日自分の十字架を負う」とは、具体的にどういうことですか。
繰り返し現れる弱さ(さばき、怒り、恐れ、高慢、貪欲など)を見きわめ、聖霊の助けによって、それを育てることを拒むことです。そしてそれを毎日、イエスの十字架につけることです。これは一度きりの決断ではなく、日々の戦いです。良い知らせは、あなたが決してひとりでそれを負うのではないということです。
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