2026年5月31日(日)の説教 ジュディット アガペ教会(東京) 聖書箇所:使徒の働き8:26〜40(口語訳)
「主の使いがピリポに『立って南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け。そこは寂しい道である』と言った。ピリポは立って行った。」
使徒の働き8:26〜27(口語訳)
サマリヤでは群衆全体が回心しますが、神はこのリバイバルからピリポを引き離し、人けのない道を通ってただひとりの人のもとへと遣わされます。このめまいがするような対比から、2026年5月31日、アガペ教会でのジュディットの説教は始まります。使徒の働き8:26〜40を通して、彼女は、主が従順なしもべをどのように備えられたひとつの魂へと導かれるか、そしてこの場面が、あなたにもわたしにも、神が求めておられる生きた信仰について何を教えているかを示します。
1. ひとつの魂で、天を動かすのに十分
使徒の働き8章は、サウロによって引き起こされた迫害と、ステパノの殉教から始まります。弟子たちは散らされますが、福音は前進し続けます。ピリポはサマリヤに下り、そこでキリストを宣べ伝え、多くのしるしが彼のことばに伴います(使徒の働き8:4〜8)。おびただしい群衆が福音を受け入れます。
そして、まさにこの目に見えるリバイバルのただ中で、主はピリポを引き離し、ただひとりの人のもとへと導かれます。ジュディットは強調します。多くの人の救いは、ひとりの失われた魂の救いよりも、神の心をより強く動かすわけではないのです。「同じように、あなたがたに言うが、悔改める罪人ひとりのことで、神の御使たちの前によろこびがあるであろう」(ルカ15:10、口語訳)。羊飼いは九十九匹の羊を残して、いなくなった一匹を捜しに行きます。
同じ愛があなたの上にも置かれている
ジュディットは会衆に力強くこう語ります。イエスがこの名もないエチオピア人に注がれたまなざし、関心、そして愛を、イエスは、この日曜日にここにいるひとりひとりの上にも、まったく同じように注いでおられます。これを読んでいるあなたの上にもです。あなたは群衆の中のひとつの番号ではありません。あなたは、神が遣わされる者を動かし、出会いを備え、ふさわしいときに読むべき箇所を用意してくださる、まさにその魂なのです。
2. ピリポの従順が道を開く
人間的に見れば、この指示は困惑させるものです。「南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け。そこは寂しい道である。」ガザということばは、セム語系の言語では猛々しい力、あるいは傷ついた者への包帯を思わせます。ジュディットによれば、この地域は一世紀の時点ですでに人けのない場所であり、二千年後の今もなお人けがありません。
なぜ神は、進行中のリバイバルからピリポを引き離し、何もない道へと遣わされるのでしょうか。神の計画は、わたしたちの理解をはるかに超えているからです。箴言はこう思い起こさせます。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよるな」(箴言3:5、口語訳)。
キリストとともにくびきを負う
ジュディットは、前週に教えたことに立ち返ります。イエスのくびきを負うということです。ピリポは議論しませんでした。「主よ、サマリヤでうまくいっているのですから、これを終わらせてください」とは言いませんでした。彼は立ち上がり、出発したのです。この種の従順があってこそ、この約束が実現するのです。「神を愛する者たち、すなわち、御旨によって召された者たちのためには、万事が益となるように、共に働くということを、わたしたちは知っている」(ローマ8:28、口語訳)。
もしピリポが、サマリヤでの働きについての自分の考えに固執していたなら、使徒の働き8:26〜40のこの箇所全体が、そもそも記録として残らなかったでしょう。エチオピア人はイザヤ53章を膝の上に置いたまま家へ帰り、だれもその箇所を開いてくれる人はいなかったでしょう。
3. 長い間備えられていた宦官
この旅人は、エチオピアの女王カンダケの高官でした。カンダケとは、エジプトにおけるパロと同じように、称号です。彼は王国の財政を管理しており、エルサレムで礼拝するために1500キロメートルもの旅を成し遂げたばかりでした。ジュディットは、当時の状況の中で、この移動にどれほどの時間、費用、そして内側からの動機が必要であったかを指摘します。
律法によれば救われないはずの人
ここに悲劇があります。申命記23:1〜2によれば、宦官は主の集会に加わることができませんでした。この人物は、自分が技術的には排除されていることを知りながら、神殿を目指して1500キロメートルの道のりを歩んだのです。
しかしジュディットは、この宦官が知っていたと思われるイザヤ56章の箇所を開きます。
「宦官はまた『見よ、わたしは枯れ木である』と言ってはならない。主はこう言われるからである。わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官には、わたしの家のうちに、わたしの垣のうちに、息子、娘にまさる記念の柱と名前を与え、これを絶えることのない永遠の名にする」(イザヤ56:3〜5、口語訳)
律法による見かけ上の排除に反して、この約束はすでに存在していました。エチオピア人はそこにしがみついたのです。もし神が異邦人と、神を求める宦官たちに、ご自分の家を開いてくださるのなら、この旅には価値があったのです。
宦官は自分の馬車の中でイザヤ53章を読む
帰り道、馬車の中で、この宦官は声に出して(当時、黙読という習慣はありませんでした)イザヤ53章を読んでいました。屠り場に引かれて行く小羊のような「苦しむしもべ」についての箇所です。彼が発する問いは決定的です。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。自分自身のことですか、それともだれかほかの人のことですか」(使徒の働き8:34、口語訳)。
ジュディットは、この人物がどれほど内側で備えられていたかを強調します。彼はイザヤ書の巻物、当時としては貴重で高価な、手書きの品物を所有していました。彼は読んでいました。意味を探し求めていました。彼の魂は、まさにその入り口に立っていたのです。
4. たったひとつの説明で、福音は受け入れられる
ピリポは文字どおり馬車の側を走ります。ジュディットはこの細部にユーモアを交えて注目します。日本語訳、英語訳、韓国語訳、いずれもこの「走る」という動詞をそのまま残しているのです。御霊が必要な力を彼に与えられます。見ているだけで息が切れそうなほどのその宦官は、ピリポを馬車に招き入れます。
イザヤ53章から出発して、ピリポは彼にイエスを告げ知らせます。たったひとつの説教で十分でした。なぜでしょうか。この人物は、聖書を読むこと、神殿までの旅、イザヤ書の黙想という、ひとつのまとまった教育の過程を経て、ここまで導かれてきていたからです。旧約聖書はイエスを告げ知らせています。旧約を受け入れる者は、だれかがそれを開いてくれるとき、自然に新約をも受け入れるのです。
聖書を理解することは、イエスを理解すること
ジュディットは、ある根本的な原則を思い起こさせます。旧約聖書は告知の書であり、新約聖書は成就の書です。キリストを理解するとは、神がだれであるかと、御前における自分がだれであるかを、同時に理解することです。みことばによって正しく備えられたひとつの魂は、迷うことなく回心するのです。
5. その瞬間をとらえる信仰
「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんの差支えがありますか」(使徒の働き8:36、口語訳)。提案するのはピリポではありません。主導権を握るのは宦官のほうです。彼は決断を後回しにせず、もっと快適な状況を待たず、エチオピアに戻ってからにしようともしません。主が差し出してくださるものを、今この場で受け取るのです。
ジュディットは、この場面からあなたにとって決定的な教訓を引き出します。神は道を備え、使者を遣わし、あなたの目の前に水を置いてくださいます。しかし、最後の一歩は、神があなたに委ねておられます。あなたが敷居を越えるか、それとも二度と来ない「もっと良いとき」を待ち続けるかを決めるのは、あなたの自由な選択なのです。
生きた信仰は体を伴う
この人は服を着たまま水の中に降り、それに伴う泥やにおいをものともせず、濡れたまま長い旅の続きを進んでいきます。そのどれも彼を引き止めません。救われた喜びが、そのほかのすべてを覆っているのです。ピリポが御霊によって取り去られたとき(使徒の働き8:39)、この宦官はうろたえもしません。「彼は喜びながら旅を続けて行った」のです。
これこそが、行いを伴う信仰と呼ばれるものです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(ヘブル11:6、口語訳)。しかしヤコブは、行いのない信仰は死んでいると付け加えています。ジュディットは、生きた信仰と、名ばかりの信仰とをはっきりと対比させます。名目上のクリスチャンであるだけでは十分ではないのです。
6. ひとつの魂が救われ、ひとつの大陸が動かされる
この人物の名前は記されていません。彼はただ「カンダケの高官である宦官」とだけ呼ばれています。しかし彼は、コルネリオ(使徒の働き10章)よりも前に、教会に受け入れられた最初の異邦人となります。ジュディットは、二世紀か三世紀には、エチオピアがアフリカで最初期のキリスト教が多数を占める国のひとつになることを思い起こさせます。この旅人の道の先で、ひとつの民族全体がキリストへと開かれていったと考えても、決して不自然ではありません。
救われたひとつの魂は、決してそれだけで終わる魂ではありません。それは主が置かれるひとつの環です。イザヤ56章の約束は、まさにこの人物の人生の中で文字どおり成就しています。彼の名前は記録の中にはありませんが、いのちの書の中にはあるのです。
7. 避けるべき二つの危険:受け身の預言と早すぎるあきらめ
ジュディットはさらに、主の第一の計画を妨げるものについて警告を続けます。彼女は、集会で受けた預言のことばの例を挙げます。「あなたは偉大な宣教師として用いられる。」ここには二つの危険な逸脱があります。
受け身のまま成就を待つこと
約束を受け取り、それを喜び、そしてそれがひとりでに展開するのを待つこと、自分を打ち砕くこともなく、みことばを読むこともなく、自分を整えることもなく、備えを持つこともなく待つことは、その召しを取り落とすことです。主は、あなたに主とともに備えるようにと求められたことを、主おひとりだけで行われることはありません。
しるしがないからといって疑い、あきらめること
反対に、三年、四年、五年たっても何も成就しないとき、「あの預言は何でもなかった」と言いたくなる誘惑があります。しかし、うそをついたのは神ではありません。約束を受け取った側が、それを受け入れる備えをしなかったのです。受け取ったことばは、応答を求めているのです。
8. ひとりの人のために遣わされる者になる
この説教の題名がそれをまとめています。「ひとりの人のために、ひとりの人を通して。」ジュディットは話を締めくくります。わたしたちはそれぞれ、遠回りをしてわたしたちのもとに来てくださった主の使者によって、個人的に見いだされたのです。今度はわたしたちが、主がわたしたちに託されるあの人、この人のために、遠回りをするように召されているのです。
それには、みことばの中で、思いの中で、境遇の中で語られる御霊の声に耳を傾け、そして一歩ずつ従うことが必要です。こうして、まことのぶどうの木であるイエスは、その枝を通して実を結ばれるのです(ヨハネ15:5、口語訳)。
覚えておきたいポイント
- ひとつの魂の救いは、多くの人の救いと同じくらい、天を動かします。
- ピリポの従順が、神の計画の一章全体を可能にします。
- 宦官は、ピリポに出会う前から、すでにみことばによって備えられていました。
- 人間の自由な選択は、神が恵みをつかみ取るためにあなたに委ねられる、最後の手段です。
- 行いを伴う信仰は、完璧な状況を待つことなく、決断と体と喜びを伴います。
個人適用
- 御霊があなたを遣わそうとしている「人けのない道」で、あなたが避けて通っているものは何ですか。
- ここ数週間、主があなたの道に置かれた「ひとりの人」とはだれですか。
- もっと良いときを待つといって、後回しにしている従順の決断はありませんか。
- 神から受け取ったことばの中で、あなたの内で具体的な備えを待っているものはありませんか。
- 旧約聖書に対するあなたの態度は、あの宦官の飢え渇きに似ていますか。
引用聖句
- 使徒の働き8:26〜40(口語訳)
- 使徒の働き8:4〜8(口語訳)
- イザヤ53:7〜9(口語訳)
- イザヤ56:3〜7(口語訳)
- 申命記23:1〜2(口語訳)
- ローマ8:28(口語訳)
- 箴言3:5(口語訳)
- ヘブル11:6(口語訳)
- ルカ15:10(口語訳)
- ヨハネ15:5(口語訳)
よくある質問
なぜ神は、リバイバルからピリポを引き離し、ただひとりの人のもとへ遣わされるのですか。
主の目には、ひとつの魂の価値が、多くの人の価値より劣ることはないからです。羊飼いは、いなくなった一匹を捜しに、九十九匹の羊を残して行きます。ジュディットは、この同じ愛が、わたしたちひとりひとりの上にも置かれていることを強調します。
ある「指示」が本当に御霊から来ているかどうか、どうすればわかりますか。
それは、みことばとの一致、その奇妙さにもかかわらず与えられる内なる平安、そしてその実によって確かめられます。ピリポの従順にはそれとわかるしるしがあります。それは自分の快適さを求めるのではなく、神の計画に仕えるということです。
生きた信仰とは、本当に、待たずに今日行動することを求めるものですか。
それを示しているのが、この宦官です。彼はバプテスマをエチオピアへの帰国後まで先延ばしにしません。生きた信仰は、状況が完璧でなくても、差し出された機会をつかみます。逃してしまった恵みは、必ずしも同じ形で取り戻せるとは限りません。
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