赦すことは大目に見ることではない:あなたを解き放つ三つの段階

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はじめに

教会で、あまりに軽く「赦さなければいけません」と言われた経験が、あなたにもきっとあるのではないでしょうか。そして痛みはそのまま残り、受けた不正は認められないまま、まるで何もなかったことにしろと言われているような気持ちで、その場を後にしたはずです。ある日曜礼拝で、説教者はそれとは違う視点を語ります。赦しとは、忘れることでも、大目に見ることでも、必ずしも和解することでもないのです、と彼女は言います。それは神の前での正義の行為であり、いくつかの段階を経る道であり、命令ではなく招きなのです。彼女はアフリカを何度も訪れ、想像を絶する経験をした女性たちと出会ってきました。ここで語られる内容は聖書に根ざしていて、しかも現実にしっかり寄り添っているので、あなたを本当に助けてくれるはずです。神様が「赦す」という言葉に込めた意味を理解するとき、あなたは自分が経験したことを否定せずに、あなたを蝕んでいるものから自由になれるのです。

メッセージの構成

1. 赦しとは何ではないか

  • 赦しは「しなければならないこと」ではありません。聖書の中で神様は「あなたはこうしなければならない」という律法の言葉をほとんど用いません。神様は招き、勧め、そしてそれを行う力を与えてくださいます。「赦さなければならない」という考えから抜け出すだけで、律法から来る重荷から、つまり福音ではないものから、心はすでに解放されます。
  • 赦しは大目に見ることではありません。神様は決して「かわいそうな人間たち、大変な人生を送っているのだから」とはおっしゃいません。神様ははっきりと言われます。「あなたは罪を犯した、あなたのしたことは正しくない」と。深刻な行為を赦すことと、それを大目に見ることとは、まったく別のことなのです。
  • 赦しは和解ではありません。和解には、関係の回復と、告白と、面と向かっての赦しの求めが必要です。相手がそれをしないなら、関係を取り戻すことなく赦すことができます。神様ご自身も、ご自分に赦しを求める人としか和解なさいません。
  • 赦しは忘れることではありません。集団で暴行を受けた女性や、自分の子どもが殺されるのを見た女性が、加害者を抱きしめるようなことはあり得ません。赦しと和解を混同することは、最初の暴力にもう一つの暴力を重ねることになるのです。

2. 赦しは正義の問題です(マタイ18章)

  • イエス様は、清算をする王のたとえを語られます。ある家来が王に六千万デナリ、つまり一生分の給料に相当する借金をしていました。王はその借金をすべて帳消しにしてやります。ところがこの家来は、外に出るとすぐに、自分に百デナリの借金がある仲間の首を絞め、待ってやることを拒み、牢に入れてしまいます。
  • 王はその家来を呼び出し、憤って言います。「わたしがおまえを憐れんだように、おまえも自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そして怒りをもって、借金を全部返すまでその家来を獄吏に引き渡します。
  • イエス様は締めくくります。「あなたがたも、それぞれ心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」ここで赦しは、負債と、判決と、その免除という、法的な行為として描かれています。
  • 主の祈りでは、ギリシャ語で「赦す」は文字どおり「解く」を意味し、「罪」は「負債」を意味します。祈りはこう言い換えられます。「私たちの負債の結果から私たちを解いてください、私たちも他の人の負債の結果からその人を解くように。」
  • ですから赦しは、感情でも、単なる内面的な解放でもありません。それは神の前での正義の行為であり、悪を認めながらも、罪そのものを消し去るのではなく、負債という結びつきを断ち切るものなのです。

3. 第一段階:正義を神様に委ねる

  • まずあなたが経験したことを神様の前に言い表すところから始めます。「あなたには私にそんなことをする権利はありませんでした。天のお父様は、あなたが私にしたことを良しとはなさっていません」と言ってよいのです。不正はあいまいにされることなく、はっきりと名指しされます。
  • 詩篇の呪いの詩の中でダビデがしているように、神様に対して剥き出しの怒りを表すこともできます。「あなたが私を打ちのめしたように、あなたも打ちのめされて当然だ。私を辱めたように、あなたも辱められて当然だ。」神様はこの言葉を受け止めてくださいます。神様はすでにあなたの心の奥底をご存じだからです。
  • そのあとで、すべてを神様の手に委ねます。「復讐はわたしのすること、報復はわたしのすることである、と主は言われる。」この重荷を自分の肩に背負い続けている限り、あなたはたとえの中の獄吏に引き渡されたままです。裁くことはあなたの役目ではありません。あなたにはその肩の力がないのです。
  • 実践として勧められる方法があります。三枚の紙を用意してください。一枚目には告発状として、相手があなたにしたこと、あなたの人生に及んだすべての影響を書きます。二枚目には判決、つまり相手はどんな報いを受けるべきかというあなたの思いを書きます。三枚目は免除の証で、あなたは正義を神様に委ね、その糸を断ち切ります。
  • 赦しは正義に関わるものであって、感情に関わるものではありません。あなたが正しく考えるようになれば、感情は後からついてきます。魔法のようにではなく、少しずつです。

4. 第二段階:相手を赦してくださるよう神様に願う(十字架上のイエス様)

  • 十字架の上で、イエス様は「わたしはあなたがたを赦す」とはおっしゃいませんでした。こう言われたのです。「父よ、彼らをお赦しください、彼らは何をしているのか分かっていないのです。」イエス様は父なる神様に願われました。これは第一段階よりもさらに深い、第二段階です。
  • その条件ははっきりしています。「彼らは何をしているのか分かっていないのです。」自分が何をしているかを完全に分かっている人たち、悪を行うことに喜びを見出すような人たちは、この祈りの対象ではありません。聖霊による識別力が、その見分けを助けてくれます。イエス様を十字架につけた群衆の中には、自分が何をしているか分からない人たちもいれば、預言を熟知していた指導者たちもいました。
  • あなたを傷つけた相手を赦してくださいと神様に願うことができるとき、あなたはもう自分自身を解くだけにとどまりません。相手の負債も取り除くのです。「あなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは天でも解かれる。」
  • この段階は義務ではありません。時間がかかることもあります。自分を無理に追い込まないでください。これは神様が与えてくださる力であって、新しい律法ではないのです。

5. 第三段階:敵を祝福する

  • 「あなたがたをのろう者を祝福し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。」ボウリングで言うところのストライクです。ボールを投げれば、すべてが一度に倒れます。
  • 敵を祝福することは、相手のしたことを是認することではありません。相手が変えられ、御国のために勝ち取られ、敵の手から救い出されるようにと願いながら、神様に委ねることです。これはまさに本物の霊的戦いに入ることであり、人を滅ぼすのではなく取り戻すことなのです。
  • この段階に至るとき、あなたはキリストとともに天上の座に着いています。物事を高いところから見ることができます。あなたはもう被害者ではなく、イエス様の兵士なのです。
  • 急がないでください。この三段階の道には時間がかかります。神様はあなたを急かしません。あなたのペースに寄り添ってくださいます。

6. いくつかの大切な補足

  • 赦すことは、訴えを起こさないことを意味しません。人間の正義と神の正義は同じものではありません。内面的な復讐心は神様に委ねながら、地上の法律にはその働きをさせておいてよいのです。
  • 赦すことは、何年も毎日加害者のために祈り続けることを意味しません。一度その祈りを神様の前に置いたなら、神様はそれを覚えていてくださいます。糸を断ち切って、神様に信頼してよいのです。あなたをつなぎ止めている罪悪感は、神様から来るものではありません。
  • 基準となるのは、神の言葉です(アモス書)。どんな文化も、どんな家族からの重圧も、どんな宗教的な圧力も、あなたに悪を受け入れさせたり、黙らせたりする権利はありません。絶対的な基準は、慣習が言うことではなく、神様が言われることなのです。

覚えておきたいポイント

  • 赦しとは、大目に見ることでも、忘れることでも、和解することでもありません。それは神の前での法的な行為です。
  • 神様は「赦さなければならない」と命じません。招き、勧め、そしてその力を与えてくださいます。律法から抜け出すだけで、すでに心は軽くなります。
  • 赦しには三つの段階があります。正義を神様に委ねること、(相手が何をしているか分からなかった場合に)相手を赦してくださるよう神様に願うこと、そして敵を祝福することです。
  • 主の祈りのギリシャ語ははっきり示しています。赦すとは解くことであり、罪とはその結果を帳消しにする負債のことです。
  • この道のりには時間がかかります。神様はあなたを急かしません。自分のペースで歩みながら、でも一歩を踏み出してください。

あなたへの適用

  1. この記事を読んで、真っ先に思い浮かんだ人は誰でしたか。紙を一枚用意して、その人があなたにしたことを、飾らずに、まるでその人に語りかけるように書き始めてみましょう。
  2. あなたは「赦さなければならない」という思いにとらわれて止まっていませんでしたか。その命令は神様から来たものではないと神様の前で認め、無理に自分を追い込むのではなく、招きに応じてみましょう。
  3. どこで赦しと和解を混同していますか。壊れた関係を断ち切る権利があるのに、その関係を続けないことに罪悪感を抱いていないでしょうか。
  4. 聖霊に識別を求める備えはできていますか。「主よ、この人は本当に自分が何をしているか分かっていたのでしょうか」と尋ね、第二段階に進む前にその答えに耳を傾けてみましょう。
  5. 今週、祝福できる敵はいますか。その人を神様に委ね、変えられるようにと願う、たった一度の祈りで十分、始めることができます。

引用聖句

よくある質問

一度も謝ってこない相手を赦すことはできますか。

はい、できます。そしてまさにそこにこそ、赦しの力が最も強く働くのです。赦しはあなた自身を自由にするものです。それは相手が求めてくるかどうかに左右されません。一方で和解は、相手の求めが前提となるので、相手が自分のしたことを認めない限り実現しません。ですが、関係を取り戻すことなく赦すことは、いつでもできます。神様ご自身も、赦し(すべての人に開かれているもの)と、和解(告白とご自分への立ち返りを前提とするもの)とをはっきり区別しておられます。相手が決して謝らなくても、あなたにはその負債から自分を解く権利があるのです。

赦したとしても、訴えを起こしたり関係を断ち切ったりしてよいのですか。

はい、よいのです。赦すことは地上の正義を無効にするものではありません。内面的な復讐心、つまり自分の心の中で自ら仕返しをすることを諦めることは神様に委ねながら、同時に人間の法律にその働きをさせることもできます。これはむしろ必要なことも多く、特に他の被害を防ぐという意味でも大切です。有害なままの関係を断ち切ると決めることもできます。赦しはあなたを内面の重荷から解き放つものであって、再び悪にさらされることを義務づけるものではありません。

実際には分かっていた人もいたはずなのに、なぜイエス様は「彼らをお赦しください、彼らは何をしているか分かっていないのです」とおっしゃったのですか。

十字架のもとには、二種類の人々がいました。一方には、預言を知り尽くしていながら、自分たちの権力を守るために意図的にイエス様を死に追いやった宗教指導者たちがいました。もう一方には、深く理解しないまま群れに従っていた群衆がいました。イエス様の祈りは、この後者の人々に向けられたものです。今日のあなたに当てはめるなら、こう識別できるということです。あなたを傷つけた人たちの中にも、自分が何をしているか自覚していなかった人がいて、そのような人たちについては、父なる神様に赦してくださるよう願うことができます。反対に、完全に分かっていた人たちについては、この祈りは当てはまりません。その人たちは神様の正義に委ねればよく、あとは神様だけが決められることです。それぞれの傷について、今どの段階にあるのか、聖霊に一人ひとり示してくださるよう求めてみましょう。

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