神があなたの神であるゆえに、もはや敵を恐れなくてよい

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はじめに

このメッセージは、出エジプト記のシリーズ前半を締めくくるもので、パリのサン・ラザール教会(モメンタム)で語られました。出エジプト記17章8節から19章6節です。エジプトを出たばかりのイスラエルの民が、「神のものとされる」とはどういうことかを学ぶ、重要な転換点です。この箇所の前で、民は荒野でつぶやき、こう問いました。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」(出エジプト記17章7節)。この問いは、あなたにもきっと覚えがあるはずです。疑い、人生の変化の時期、教会での疲れ、目の前の切実な必要、そうしたものの中に、この問いは何度も現れてきます。ところが、まさにこの箇所で、神はご自分の約束を展開されます。「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」(出エジプト記6章7節)。ここから三つの結論が導かれ、それがこのメッセージの三つの柱になります。神があなたの神であるゆえに、もはやどんな敵をも恐れなくてよいこと。神があなたの神であるゆえに、その救いを宣べ伝えること。そして、神があなたの神であるゆえに、御心にしたがって生きるために神を知ること、です。

メッセージの構成

1. 神があなたの神であるゆえに、もはやどんな敵をも恐れなくてよい(出エジプト記17章8~16節)

  • 民は解放されました。牢獄から出てきた人のように、広々とした自由を味わっているはずです。ところが8節で、一人の敵が現れます。「アマレクがやって来て、レフィディムでイスラエルと戦った。」モーセはヨシュアに、人を選んで出て行き戦うように命じます。モーセ自身はアロンとフルとともに丘の上に登り、手に神の杖を携えます。
  • この物語は二つの弱さを描いています。まず民の弱さです。モーセが手を下ろすたびに、アマレクのほうが強くなります。次にモーセ自身の弱さです。彼の手は重くなり、支えきれなくなります。そこで石を持ってこさせて座らせ、アロンとフルが両側からその手を支え、日が沈むまでそうし続けました。勝利は民の力によるものではありません。モーセの粘り強さによるものでさえありません。それは神による勝利です。まるで神がこう言っておられるかのようです。「あなたは弱い。勝つのはあなたではなく、わたしなのだ」と。
  • 16節ですべてが動きます。「主の御座に向かって手が上げられたので、主は代々アマレクと戦われる。」アマレクはイスラエルを攻撃しただけなのに、主はアマレクがご自分の御座に逆らったと言われます。これこそ神がご自分の民に告げておられることです。「あなたの敵はわたしの敵だ。あなたはわたしのものだ。あなたを攻撃する者は、わたしを攻撃しているのだ」と。これはアブラハムへの祝福の成就です。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う」(創世記12章3節)。
  • 聖書の歴史を通して、神はヨシュアによって、サウルによって、ダビデによって、そしてエステルの時代には、ペルシア帝国の果てにいた外国の王を通してさえも、アマレクを追い続けられます。神の敵であることは恐ろしいことですが、神の民であることは限りない安心をもたらします。とはいえ、それ自体が正しいとは言えない民によって遂行される「主の戦い」という概念は、私たちの感覚には引っかかるものがあります。それを整理する助けとなる点が二つあります。第一に、神はいつも不完全な人間を用いて悪を制してこられましたが、そうした裁きはあくまで限定的なものです。第二に、歴史の中で神は完全に義なる方(ご自身の御子、イエス・キリスト)を立てて世界を裁かせることを定めておられます。神はこの方を復活させることで、その支配を示されました。「主は生ける者と死せる者とを裁くために来られる」のです。
  • しかし良い知らせは、そのイエスが、国や出自にかかわらず、信頼を寄せるすべての者に代わって、まずご自身が裁きを引き受けてくださったということです。預言者イザヤは、完全なダビデの子であるイエスによる新しい出エジプトを、神の「旗印」という、ここで使われているのと同じことば(15節「主はわが旗印」)で告げていました。世界に立てられた勝利の旗です。神の敵はそれを見て震え、信じる者はそれを喜び、救われます。
  • では、剣を取るべきでしょうか。いいえ。イエスの到来は、その枠組みを変えました。戦いのことばは、霊的な戦いへと移っていきます。それは抽象的なものではなく、私たちの決断、人間関係、日々の生活の中に具体的に働くものです。新約聖書の二つの箇所がそれを示しています。ヘブル人への手紙12章3~4節。「あなたがたが疲れ果てて心を失うことのないように、罪人たちのこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」クリスチャンにとっての第一の戦いは、罪に対する戦いです。妥協なく、容赦なく。
  • エペソ人への手紙6章10~13節。「主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配や権威、この暗闇の世界の権力、また天にいる悪の諸霊に対するものだからです。」私たちの最悪の人間的な敵は、実は真の敵ではありません。その背後で彼を操り、彼を奴隷にしている諸々の力こそが、真の敵なのです。約束は出エジプト記17章と同じです。自分の力によってではなく、神が戦ってくださるゆえに勝利する民、という約束です。
  • ではどのように戦うのでしょうか。イエスのうちに身を隠し、イエスに信頼し、イエスにしっかりと結びつき、祈ることによってです。多くの聖書箇所が、サタンが荒れ狂っていること、悪魔はできることなら選ばれた者さえも倒そうとしていること、そして全世界が「空中の権を持つ者」の影響下にあることを告げています。だからこそ、私たちは主の祈りの中でこう祈るのです。「私たちを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と。説教者自身の例。彼は自分の携帯電話に、午後2時38分にアラームを設定しています。マルコによる福音書14章38節を思い起こすためです。「目を覚まして祈っていなさい。誘惑に陥らないためです。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」これは日々の目覚めのための小さな仕掛けです。
  • キリストはすでに、もろもろの支配と権威に対して勝利しておられます(コロサイ人への手紙2章15節)。私たちは勝利を得るために戦っているのではなく、すでに勝ち取られた勝利のただ中から戦っているのです。神の民よ、あなたは神のものです。もはやどんな敵をも恐れる必要はありません。

2. 神があなたの神であるゆえに、その救いを宣べ伝える(出エジプト記18章1~12節)

  • ここでエテロが登場します。モーセのしゅうと、ミディアンの祭司です。これはモーセが親戚に一言挨拶を添えただけのものではありません。この人物は物語の中で戦略的な役割を担っています。エテロは「神がモーセと、ご自分の民イスラエルのためになさったすべてのこと、すなわち主がイスラエルをエジプトから導き出されたこと」を聞きます(出エジプト記18章1節)。彼はモーセの妻ツィポラと、二人の息子ゲルショムとエリエゼルを連れて、宿営にやって来ます。
  • 救いと解放というテーマが、この章全体を貫いています。エリエゼルという名前は「わが神は助け」という意味です。「わが父の神は私を助け、パロの剣から私を救い出してくださった」(4節)。そしてモーセは、しゅうとに「主がパロとエジプトになさったすべてのこと、道中で彼らに降りかかったあらゆる苦難、そして主がそこから彼らを救い出されたこと」を語ります(8節)。
  • この証しは、その場ですぐに実を結びます。エテロは喜び、自ら宣言します。「主はほめたたえられますように。主はあなたがたをエジプト人の手から、パロの手から救い出し、この民をエジプト人の支配から解放された。今、私は主がすべての神々にまさって偉大な方であることを知った」(10~11節)。この人物、それまで異教の礼拝を司っていたミディアンの祭司が、その場で信仰を変えるのです。彼は神に全焼のいけにえと他のいけにえを献げます。アロンとイスラエルの長老たち全員が「神の御前で」その食事に加わります(12節)。それまで別の礼拝の祭司だった一人の異邦人が、証しの扉を通って神の民の中に入って来るのです。
  • ここでもまた、アブラハムへの祝福が成就しています。「あなたを祝福する者をわたしは祝福する……地のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12章3節)。エテロは、イスラエルの証しを通して、生ける神に祝福された他国人の初期の目に見える一例なのです。
  • 説教者はパリでの一例を挙げます。地下鉄やRERの壁、環状道路沿いの標識に、誰かがいたるところに「イエスは救う」と書いています。それは違法な行為であり、落書きとして議論の余地もありますが、そこに投げかけられている問いは正しいものです。誰かが、自分がリスクを負ってでも、そこを通り過ぎるすべての人への絶え間ない呼びかけを残そうとした、ということです。モーセは、しゅうとや家族の周りにいるすべての人がそれを聞くように、自分の息子に「エリエゼル」(「神はわが助け」)という名前をつけました。あなたの人生、あなたのことばの中に、あなたが神のものであることをはっきりと示すしるしはあるでしょうか。
  • 口先だけの話ではありません。「日曜日に礼拝に行きました」で終わり、いつか会話が開けるかもしれないと期待するだけでは足りません。問いは単刀直入です。あなたの周りの人々に、あなたが解放者なる神のものであること、そしてその神のもとに来ることができるということを、はっきりと、大きな声で伝えることばは何でしょうか。私たちの周りにいる人々は、はっきりとした証しを必要としています。かつてのモーセと同じように、いや、イエス・キリストにあってはなおのこと、あなたは神が与えてくださる救いを宣べ伝えるように召されています。それは、他のエテロたちが神の民の中に入って来るためです。
  • もしあなたがこれを聞いていて、まだ神のものとなっていないなら、この招きはあなたに向けられています。エテロのようにしてください。他に神はなく、他に助けもなく、中途半端な立場もありません。イエスのもとに来て、お金、性、様々な所属、快適さ、人類は自然によくなっていくという確信といった、背後にある偶像を手放し、そしてエテロとともにこう言うことです。「今、私は主がすべての神々にまさって偉大な方であることを知った」と。約束は三重です。あなたの過去がどうであれ、他のすべてのクリスチャンと同じ救いを受けること。もはや自分自身にも他の力にも属さず、神のものとなること。そして、他のあらゆる助けを手放して、永遠に続く希望のうちに、神の助けだけによって生きること、です。

3. 神があなたの神であるゆえに、御心にしたがって生きるために神を知る(出エジプト記18章13~27節、19章1~6節)

  • 翌日、モーセは朝から晩まで座って民をさばきます。エテロはそれを見て、正しい問いを投げかけます。「なぜあなたは一人で座っているのですか……あなたは自分自身も、この民も疲れさせてしまいます。この仕事はあなたには重すぎます」(14~18節)。そして彼は、あらゆる時代の神の民が書き記して受け取ってきた助言を与えます。民に代わって神の前に立つこと、彼らに掟と律法を教えること、彼らが歩むべき道を示すこと、そして「有能で、神を恐れ、誠実で、不正な利得を憎む人々」を見極めて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として立てること、です(19~21節)。
  • 注意すべきは、これがまず第一に企業経営や教会運営の講座ではないということです。エテロの中心的な関心は、効率ではありません。「この民全員が無事に自分の場所にたどり着くこと」(23節)、つまり民の一人ひとりが自分の神を知り、御心にしたがって生きられるようになることです。この仕組みの要点を見てください。「民は神に伺いを立てるために私のところに来る……私は彼らに神の掟と律法を教える」(15~16節)。この構造の目的は、民の100パーセントが神を知る知識に到達することなのです。
  • この組織の型を、イエスは新約聖書の中で再び用いられます。イエスは十二人の弟子を選び、続いて七十人を選ばれます。その後、使徒たちは執事たちを選びます。町々には長老たちが立てられ、彼らがまた執事を任命します。その目的は何でしょうか。行政の効率のためではなく、「すべての人が教会の中で自分の神を知り、その道にしたがって歩むことができるため」です。
  • 一つの例えです。あなたが新しい会社に転職したのに、その会社の価値観、使命、戦略について何の情報も与えられなかったとしたらどうでしょうか。喜んで働くことなどできるでしょうか。自分が正しい戦いをしているかどうか、どうやって知るのでしょうか。どうやって希望と救いを生きるのでしょうか。どうやって正しい証しを立てるのでしょうか。どうやって正しい光を放つのでしょうか。もし神があなたの神であるなら、あなたの心は神を知りたいという思いに燃えているはずです。そして、神の律法にしたがって生きるためには、神を知る必要があります。出エジプト記は、権威の移行を告げています。別の王、別の律法、別のいのちへの移行です。
  • サン・ラザール教会では、今、組織再編の過程が進んでいます(ブライアン・コフマンとカーリー・コフマン夫妻の離任がこの見直しのきっかけとなっていますが、これは例外ではありません。どの地域教会もこの責任を負っているのです)。この箇所が求めているのは、古代の組織図をそのまま再現することではありません。長老たち、執事たち、週の集会のリーダー(「十人の長」にあたる存在)、冬期のグループのリーダー、子どものクラブのリーダー、そして一対一の関わりに至るまで、すべてが同じ一つの目標のために整えられているかどうかを見張ることです。それは、民の100パーセントが自分の神を知り、御心にしたがって生きるということです。教会を組織として整えるだけでは十分ではありません。教会全体が神を知り、神に従うために組織を整える必要があるのです。
  • なぜこの助言は、しゅうとと婿の間だけの私的な手紙にとどまらず、聖書に記されているのでしょうか。それは、あらゆる時代の神の民の一人ひとりが、この助言を聞き、それを心から願うようになるためです。神の民の100パーセントが、自分を救ってくださった神を知りたいと願うべきです。なぜなら、その神は自分たちの神だからであり、私たちはイエス・キリストにあってその神のものだからであり、そして私たちはその神にしたがって生きたいと願っているからです。これは、あなたが週の集会にどう参加するか、日々の生活の中でどれだけみことばに親しむか、あなたの家族の計画、あなたが他者とどう関わるかにまで影響を及ぼします。ともに祈りのうちに戦うためだけではなく、私たちを救ってくださった神のことばを共に聞くため、そして世界の中で「祭司の王国」となるためです。
  • モーセの二人の息子の名前が、神の民の召命を要約しています。まずゲルショム。「私は外国にいる寄留者だ」(3節)。私たちが神のものとされるとき、神は私たちをこの世界における異邦人としてくださいます。私たちは別の国に属しており、この世界の他の人々とは違って、永遠に向けて召されているからです。次にエリエゼル。「神はわが助け」(4節)。私たちは、自分たちがそこから区別されているこの世界の中で、救い主イエスの旗印を身に帯び、こう告げるのです。「神は私たちを救ってくださった。神はあなたをも救うことができる」と。
  • だからこそ、19章の冒頭でこう結ばれています。「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19章6節)。神は一部の祭司だけを求めておられるのではありません。民全体が、この世界における祭司の民となることを望んでおられます。それは孤立するためではなく、人々と神との間の橋となり、唯一の仲介者、唯一の救い主であるイエス・キリストへと人々の目を向けさせるためです。ペテロもこれを確認しています。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが広く伝えるためです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民です」(第一ペテロ2章9~10節)。

覚えておきたいポイント

  • 「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」(出エジプト記6章7節)は、抽象的な条文ではありません。それは、あなたの人生に三つの具体的な結果をもたらす土台です。恐れを手放すこと、救いを宣べ伝えること、そして自分の神を知ることです。
  • あなたの敵は神の敵です。勝利は、あなたの力にも、あなたが手を上げ続ける粘り強さにさえもよりません。あなたのために戦ってくださる方によるのです。キリストはすでに勝利しておられます(コロサイ人への手紙2章15節)。あなたは勝利を得るためではなく、すでに勝ち取られた勝利のただ中から戦うのです。
  • 戦いはもはや血肉に対するものではありません。それは罪に対するもの(ヘブル人への手紙12章3~4節)であり、私たちのいのちを操るもろもろの力に対するもの(エペソ人への手紙6章10~13節)です。それは、イエスのうちに身を隠し、祈りと日々の目覚めによって戦われます。
  • エテロは、救いを宣べ伝える声を聞いた心が、信じる神を変えるほどに揺り動かされうることを示しています。エリエゼル(「神はわが助け」)のような、あなたのはっきりとした証しは、単なる選択肢ではありません。それは、他の人々が神の民に入って来る扉を開くものです。
  • よく組織された教会の目的は効率ではなく、民の100パーセントが神を知り、御心にしたがって生きることです。長老、執事、グループのリーダーたちは、そのために存在しており、すべての信徒一人ひとりがこのことに関わっています。
  • あなたの二重のアイデンティティ。ゲルショム(この世における寄留者)とエリエゼル(神に助けられ、その旗印を掲げる者)。聖なる国民、祭司の王国として、神が救ってくださることを他の人々に告げるために遣わされているのです。

個人への適用

  1. 今日、あなたに立ちはだかっている「アマレク」は何でしょうか。試練でしょうか、誘惑でしょうか、人間関係の敵でしょうか、それとも恐れでしょうか。あなたはまだ自分の力でそれと戦おうとしていますか。それとも、勝利は神によるものだと思い起こしながら、丘に登って手を上げていますか。
  2. あなたの手が重くなったとき、それを支えてくれるアロンとフル、つまり兄弟姉妹はどこにいますか。あなたは彼らにその役割を任せていますか。それとも、自分の手に余ることを一人で抱え込もうとしていますか。
  3. 今週、あなたの具体的な霊的な戦いはどのようなものですか。あなたが血を流すまで抵抗することを拒んでいる罪は何でしょうか(ヘブル人への手紙12章4節)。あなたが手放したままにしている神の武具は何でしょうか。祈り、みことば、真理、信仰のうち、どれでしょうか(エペソ人への手紙6章)。
  4. モーセが「神は私を助けてくださった」と周りの人々に聞こえるように息子をエリエゼルと名づけたように、あなたの周りの人々に、あなたが救い主なる神のものであることを聞かせているはっきりとしたしるし(ことば、選択、優先順位)は何でしょうか。あなたがまだ口先だけで済ませてしまっている部分はどこでしょうか。
  5. あなたの人生の中に「エテロ」はいますか。まだ神のものとなっていないけれど、あなたの生き方を見つめている人です。今週、あなたはその人にあなたの何を聞いてほしいでしょうか。
  6. あなたがみことばに、週の集会に、教会の歩みにどれだけ親しんでいるかは、あなたの100パーセントが神を知り、御心にしたがって生きたいと願っていることを反映していますか。奉仕やルーティンが、神を知ることに取って代わってしまっている部分はどこでしょうか。

引用された聖句

よくある質問

「神があなたの神であるゆえに、もはやどんな敵をも恐れなくてよい」とはどういう意味ですか。

出エジプト記17章16節に基づいています。そこでは、人間的にはアマレクがイスラエルを攻撃しただけなのに、主は「アマレクは主の御座に逆らって手を上げた」と言われます。神は、ご自分の敵と、ご自分の民の敵とを同一視しておられるのです。具体的には、これはあなたが自分の敵と一人きりで向き合うことは二度とない、という意味です。キリストはすでにもろもろの権威に対する決定的な勝利を収めておられ(コロサイ人への手紙2章15節)、あなたはその勝利を得るためではなく、その勝利のただ中から戦うように召されています。「もはやどんな敵をも恐れなくてよい」とは、自己肯定のスローガンではありません。イエスのうちに身を隠し、祈りと目覚めと聖さという霊的な戦いを行うようにという招きです(エペソ人への手紙6章10~13節)。

十字軍のような戦いに出ることなく、今日「主の戦い」をどのように行えばよいのですか。

イエスの到来は、その枠組みを変えました。旧約聖書の軍事的なことばは、新約聖書の中でも用いられていますが、それは霊的な戦いへと移し替えられています。とはいえ、それは抽象的なものではなく、あなたの思い、決断、身近な人間関係に働きかけるものです。二つの戦線がはっきりと示されています。一つは、たやすくあなたを取り囲む罪との戦い(ヘブル人への手紙12章3~4節)で、そこには妥協も容赦もありません。もう一つは、人々を操り、とりことしている支配や権威との戦いです(エペソ人への手紙6章10~13節)。方法は、イエスのうちに身を隠し、イエスに結びつき、「私たちを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈ることです。説教者自身、マルコの福音書14章38節を思い起こすために、携帯電話に午後2時38分のアラームを設定していると語っています。

なぜエテロはこの章でこれほど重要なのですか。

エテロは、モーセが挿入した単なる家族に関する補足ではありません。彼は異教の礼拝を司るミディアンの祭司であり、神がイスラエルを救うためになさったことについてのモーセの証しを聞きます。彼の応答は即座で、根本的なものです。「今、私は主がすべての神々にまさって偉大な方であることを知った」(出エジプト記18章11節)。そして彼は全焼のいけにえを献げ、神の前で食事をともにします。彼は自分の宗教、自分の役割、自分の確信を手放すのです。これはアブラハムへの祝福(創世記12章3節)の成就です。「地のすべての民族は、あなたによって祝福される。」エテロは、神の民が救いを宣べ伝えるとき何が起こりうるかを示しています。民の外にいる人々が、生ける神のもとに来るのです。これは、すべての信仰者にとって一つの問いを投げかけます。あなたのはっきりとした証しとは何でしょうか。

エテロの助言(出エジプト記18章13~27節)は、教会組織のためのプランなのですか。

第一義的にはそうではありません。それがこのメッセージが強調している点です。エテロの中心的な関心は、行政上の効率ではなく、「この民全員が無事に自分の場所にたどり着くこと」(23節)です。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長という仕組みは、民の100パーセントが神を知る知識に到達し、その道にしたがって生きられるようになることを目的としています。イエスは新約聖書の中でこの型を再び用いられます(十二人、続いて七十人の弟子)。使徒たちは執事を選び、町々には長老が立てられます。この構造は、神を知ることのために存在するのであって、その逆ではありません。具体的には、地域教会の中で、それぞれの責任者(長老、執事、週の集会のリーダー、子どもの担当者)が、この一つの目標のために召されているということです。そして、すべての信徒一人ひとりが、これに個人的に関わっています。

「祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト記19章6節)であるとはどういう意味ですか。

神は、ご自分の民の中に一部の祭司だけを持つことで満足されるのではなく、民全体が、この世界における祭司の民となることを望んでおられます。世界とは区別されながら(ゲルショムのように寄留者として)、しかし世界へと遣わされて(エリエゼルのように、助けられ、旗印を掲げる者として)です。祭司の使命は、人々と神との間の橋となることです。ペテロは、教会について直接この表現を用いています。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、広く伝えるためです」(第一ペテロ2章9~10節)。イエスを信じる者としてのあなたの召命は、ただ一人の仲介者、ただ一人の救い主が存在すること、そしてその方のもとに来ることができるということを、世界に聞こえるように伝えることです。

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