赦す:十字架がついに心を軽くするとき

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ある地方新聞が、いつか二つの記事の間にこんな小さな詩を載せたことがありました。「私の罪は、神様が赦してくださった。しかし妻は、まだ赦してくれていない」。この一文を紹介した牧師は、母の日を迎えたこの日曜日の朝、この話をしながら笑っていました。それが笑いを誘うのは、真実を突いているからです。信仰生活の中で、赦すことと赦されることほど難しいものはないかもしれません。私たちは告白し、涙を流し、神様に自分を洗い清めてくださいと願います。それでも、傷そのものは、私たちの周りで生々しく残り続けているのです。

2026年5月17日のこの日曜日は、特別な日曜日でした。母の日であると同時に、私たちが普段は避けて通りたがる現実、すなわち自分の中の恨み、沈黙、古い傷と向き合うようにという招きの日でもありました。説教者は、ユーモアあふれる小さな出来事から始まり、イエス様が天に上げられる前に、弟子たちに、まだ疑いを抱いていた者たちにさえ、ともにいると約束された山の頂きへと私たちを導いてくれました。ここに、あなたが心に留めておけることをまとめます。

メッセージの構成

1. なぜ赦しはこれほど難しいのか

2. 三浦綾子が十字架の前で理解したこと

3. 「あなたは私の目に尊い」:あなたに寄り添う声

4. 契約の箱から、キリストにある自由な近づきへ

5. 「私はあなたがたとともにいる、あなたが疑うときでさえも」

1. なぜ赦しはこれほど難しいのか

私たちには感情があります。男性であれ女性であれ、子どもであれ年配の方であれ、何気なく発せられた一言に深く傷つけられることがあります。そして時には、私たちの方が知らずに誰かを傷つけていることもあります。何年もかけて赦しを求め続けても、決してそれが得られないことがあります。あるいはその逆に、誰かに傷つけられ、福音を知っていて、赦さなければならないと分かっていても、その人に出会うたび、あるいはあの場面を思い出すたびに、すべてがまたよみがえってくることもあります。

説教者ははっきりとこう語りました。赦すこと、そして赦されること、これは人生において最も重いことの一つだと。私たちの感情は、私たちの思いどおりにはなりません。キリストによって贖われ、自分が神様の子どもであると知っていても、自分の内側に、なお相手を裁き続ける小さな声を見出すことがあります。「どうしてあの人は赦さないのだろう」と。そうして私たちは、自分を裁く人を、今度は自分が裁くようになってしまいます。心は軽くなるどころか、かえって重くなっていくのです。

2. 三浦綾子が十字架の前で理解したこと

説教者は、日本の有名なクリスチャン作家、三浦綾子のエッセイの一節を紹介しました。信仰を持つようになり、『氷点』という作品で知られる彼女は、まだ若い作家だった頃、ある別のクリスチャンが彼女について悪く言い始めたときのことを語っています。「今でこそ皆から尊敬されているけれど、イエス様に出会う前は、あなたが思っている以上にひどい人だったのよ」。中には本当のこともありましたが、それ以外は誇張され、歪められ、ほとんど悪意に満ちたものでした。

三浦綾子は、この重荷を何か月も背負い続けました。よく眠れない日々が続きました。彼女はこう思っていました。「私は赦しているのに、どうしてあの人は赦さないのだろう」。そしてその思いが、彼女を裁く相手を、今度は彼女自身が裁くことへと導いていきました。堂々巡りだったのです。

ある朝、祈りながら聖書を読んでいたとき、十字架が彼女に示されました。彼女はこう悟りました。「私のために死んでくださったイエス様は、あの友人が指摘したよりもずっと深い闇を、私の内側にご存じでいらっしゃる。私の心の一番醜い部分までご存じでありながら、それでも死んでくださった。イエス様は、すでに私のすべてを赦してくださっているのだ」。その瞬間、彼女は自分の心が軽くなるのを感じました。重荷が取り去られたのです。

彼女は、不当な扱いに対して無感覚になったと言ったのではありません。キリストが自分に向けてくださるまなざしが、ついに、他人のまなざしを覆い隠すほどになったのだと語ったのです。

3. 「あなたは私の目に尊い」:あなたに寄り添う声

説教者は、そこでイザヤ書43章を引用しました。神様はご自分の民にこう宣言されます。「あなたはわたしの目に尊く、重んじられており、わたしはあなたを愛している……」。今日、神様はこれをあなたに語っておられるのです。

これが具体的に何を意味するか見てみましょう。父なる神様の愛は、あなたという存在の全体、過去も、現在も、未来も、余すところなく抱きしめています。あなたが今も後悔している過ち。あなた自身まだ気づいていない過ち。来週、知らないうちに犯してしまう過ちさえも。そのすべてが、すでにイエス様の血によって覆われているのです。

ヨハネの第一の手紙は、これをはっきりと書き記しています。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます」(ヨハネ第一1:9)。「すべて」の不義です。あなたがはっきりと自覚している罪だけではありません。神様が見ておられ、あなた自身まだ気づいていない罪もまた含まれているのです。

4. 契約の箱から、キリストにある自由な近づきへ

説教者は続いて、私たちを旧約聖書へと連れ戻しました。出エジプト記25章で、神様はモーセに契約の箱の建造を命じられます。それは長さ約1.1メートル、幅と高さがそれぞれ約66センチメートルの小さな箱で、金で覆われ、その上には「贖いのふた」と呼ばれる贖罪蓋が据えられていました。中には、律法の二枚の石の板が納められていました。

この箱はあまりに聖なるものだったため、聖所の垂れ幕の奥、至聖所に置かれていました。近づくことができたのはただ一人、大祭司だけであり、しかも年にただ一度、贖罪の日に、犠牲の血を携えてのみでした。一人の人が、一年にただ一度。それ以外の民は皆、神様の臨在から遠く離れたところにとどまっていました。

そしてイエス様が来られました。イエス様は十字架へと上られました。垂れ幕は真っ二つに裂けました。イエス様が流された血は、父なる神様への永続的な道を開いたのです。かつて大祭司が年に一度しかできなかったことを、あなたは今、毎日、祈るたびに、息をするたびに、生きることができるのです。

赦しは、もはやまれで遠い儀式ではありません。それは、あなたの目の前に開かれた扉なのです。

5. 「私はあなたがたとともにいる、あなたが疑うときでさえも」

説教はマタイ28:16-20で頂点に達します。復活し、四十日間弟子たちの前に現れられたイエス様は、オリーブ山から天に上げられる直前、彼らをガリラヤの山へと連れて行かれます。そしてこう宣言されます。「わたしには天においても地においても、いっさいの権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい……見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」。

説教者は、聖書が隠さなかったある一つの細部を強調しました。17節にはこうあります。「彼らはイエスに会って礼拝した。しかし、疑う者たちもいた」。復活されたイエス様を目の前にし、礼拝をしていたその最中にも、なお疑っている者たちがいたのです。聖書は、証しをより「きれい」に見せるために、この一文を削ることもできたはずです。しかしそうはしませんでした。聖書は正直だったのです。

そして、ここにこそ奇跡があります。信仰と疑いが入り混じったこの集団にこそ、イエス様は語りかけられるのです。それはあなたにも向けられています。ためらい、いつも信じ切れているわけではなく、赦すことにも、自分が赦されていると信じることにも、なお苦しんでいるあなたに、イエス様はこう言われます。「わたしはあなたとともにいる。いつも。世の終わりまで」と。

人間の愛は計算をします。あなたが私を疑うなら、私は離れていく。あなたが私を傷つけたなら、私もあなたを傷つける。しかしキリストの愛は、そうではありません。それは条件つきではありません。あなたの信仰の出来映えに合わせて調整されることもありません。キリストの愛は、とどまり続けるのです。

覚えておきたいポイント

  • 赦しが難しいのは、私たちの感情が本物だからです。それは霊的な未熟さの証拠ではなく、十字架に深く働いていただくための招きなのです。
  • キリストは、あなたを責める人たちが指摘した以上のことをあなたについてご存じであり、すでにあなたのすべてを赦してくださっています。
  • あなたの名前は、イザヤ書43章の宣言の中に書き記されています。あなたは神様の目に尊い存在なのです。
  • 大祭司が年に一度しか行えなかったことを、あなたはイエス様にあって、いつでも生きることができます。
  • あなたが疑うときでさえ、イエス様はあなたとともにいてくださいます。あなたの弱さが、イエス様を去らせることはありません。

あなた自身への適用

  • 今日、赦せていない傷のせいで、あなたの心の中であまりに大きな場所を占めている人はいませんか。その人を、静かに、無理に感情を作り出すことなく、十字架の前に置くことができますか。
  • 何年も前に、深く考えずに口にしてしまい、誰かを傷つけた言葉はありませんか。今週、イエス様はあなたに何をするようにと招いておられますか。
  • あなたが疑うとき、最初の反応はどんなものですか。隠れることですか。平気なふりをすることですか。それとも、あえてイエス様の前にとどまり、「主よ、私は信じます。私の不信仰を助けてください」と言うことですか。
  • 「私はいつもあなたとともにいる」という約束は、具体的に、明日のあなたの一日をどのように変えるでしょうか。
  • 三浦綾子のように、あまりにも長い間背負い続けてきた重荷で、今朝、十字架に委ねることができるものはありますか。

引用された聖句

FAQ

傷がまだ生々しいとき、どうすれば赦すことができますか。
赦しは、自分で作り出す感情ではありません。それは、多くの場合、心がついてくる前に、神様の前で下す決断です。三浦綾子のように、まず十字架を見つめることから始めましょう。すなわち、キリストがあなたの内側ですでに赦してくださったことをです。心は、そのあとでついてきます。ある朝、突然のこともあれば、何年もかかることもあります。

疑うことは罪なのですか。
マタイ28章の箇所は、イエス様が疑う者たちを退けるのではなく、むしろ彼らに使命を委ねられたことを示しています。疑いは信仰の敵ではなく、むしろしばしば信仰に寄り添う道連れなのです。大切なのは、逃げ出すのではなく、イエス様の前にとどまり続けることです。

相手が赦しを求めていなくても、赦さなければならないのですか。
神様の前で赦すこと、それは常に必要です。なぜなら、恨みが蝕むのは、ほかでもないあなた自身だからです。一方、相手との和解は、相手の側の姿勢にもかかっています。この二つは同じことではありません。そのどちらも、主の御手に、主のペースで委ねましょう。

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