一日七度赦す信仰:からし種ほどの小さな信仰で十分な理由

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はじめに

エメ・ジャケ、1998年6月12日、夜11時頃。フランスがサッカーワールドカップで初優勝を果たしたその瞬間です。あるジャーナリストが、何ヶ月もの間メディアから中傷され、非難され、嘲笑され、軽蔑されてきた元監督にマイクを向けました。「さて、彼らに何と言いますか?」ジャケはこう答え、その言葉は有名になりました。「私は彼らを絶対に許さない。」皮肉なことに、彼の名前(エメ)はフランス語で「愛される者」という意味です。

この言葉を聞くと、あなたは居心地の悪さを感じながらも、どこかで理解してしまうのではないでしょうか。あなたの生活の場面、人間関係、状況を思い浮かべてみてください。誰かがあなたを傷つけたとき、本当に、客観的に、深刻な形であなたに対して罪を犯したとき、あなたも同じことを言いたくなったことはありませんか。少なくとも、永遠の罰を望むその気持ちを理解できるのではないでしょうか。

ルカによる福音書17章で、イエス様は弟子の日常生活がどのようなものかを少し垣間見せてくださいます。そこでイエス様は、あなたが心に留めるべき3つの割合を示してくださいます。罪への寛容度0パーセント、必要な信仰はわずか1パーセント、そしてその土台にあるのは100パーセントの恵み(受け取り、生きるもの)です。罪と容赦なく戦いながらも、頼れるのは信仰だけ。それがイエス様の弟子にとって、ただ当たり前のことなのです。

メッセージの構成

1. 罪と容赦なく戦う(ルカ17:1-4)

イエス様は厳しい警告から始められます。「つまずきが起こるのは避けられない。しかし、それをもたらす者は、わざわいである。そういう者は、これらの小さい者のひとりをつまずかせるよりは、むしろ首にひきうすを掛けられて、海に投げ込まれるほうがましである。」(ルカ17:1-2、口語訳)

この言葉には妥協がありません。まず狙われているのは、当時のパリサイ人たちです。彼らは人々をイエス様のもとへ導くどころか、つまずかせていました。罪の重さを軽く見て、自己中心、お金、上座、形式的な安息日の遵守を、憐れみよりも優先していたのです。そして彼らは、イエス様が罪人たちと食事をすることに文句を言っていました。

この警告には二つの働きがあります。まず、あなたを安心させてくれます。もしあなたの周りに、イエス様の信用を落とし、人々を救い主から遠ざけ、罪を軽く扱う人がいるなら、神様はそれを見ておられ、必ず裁かれます。そして次に、この警告はあなた自身にも関わってきます。もしあなたが、自分の生き方や言葉、軽率さや律法主義によって、誰かがイエス様のもとに来るのを妨げているなら、この警告はあなたに向けられたものです。もしあなたが、他者をつまずかせるクリスチャンの態度に腹を立てているなら、神様はあなた以上に、それに心を痛めておられることを知ってください。

続いてイエス様は、話をひっくり返されます。罪と容赦なく戦うということは、いつでも赦す心を持つことでもあるのです。

「あなたがた自身、気をつけていなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めるなら、赦してやりなさい。もし一日に七度あなたに対して罪を犯し、そして七度あなたのところに来て、『悔い改めます』と言うなら、赦してやりなさい。」(ルカ17:3-4、口語訳)

コンコンコン。「ごめん、あなたに対して罪を犯した。」「赦すよ。」コンコンコン。「また罪を犯した。」「赦すよ。」一日に七度です。イエス様は、八回目でドアを閉めるために電卓を取り出せとは言っておられません。もう数えるのはやめなさい、と言っておられるのです。

これは、この世が提示するものとはまったく対照的です。#MeToo運動は、実在する虐待、多くの場合男性から女性への虐待という罪を正当に告発しています。しかし、それはしばしば、西部開拓時代のリンチのようなやり方で行われます。裁判もなく、赦しの可能性もなく、誰かを群衆の前に丸裸にして放り出すのです。夫婦の間でも、家族の間でも、職場でも、ジャケと同じ言葉を耳にすることでしょう。「私は絶対に彼らを許さない。」

しかし、教会の中では、罪には居場所がありません。罪には妥協せずゼロトレランスで臨みながら、悔い改める罪人には数えきれないほどの赦しを与えるのです。まずあなた自身の罪を認め、戒めを受け入れます。あなたは他者の罪に対して無関心ではいられません。なぜなら罪は、あなたの兄弟姉妹を貶め、本来あるべき姿よりも醜くしてしまうからです。神様から受ける赦しこそ、神様の的の中心です。そして私たちの間で生きられる赦しこそ、私たちの目指すべき的の中心なのです。

2. 頼れるのは信仰だけ(ルカ17:5-6)

この要求を前にして、使徒たちは思わず声を上げます。「わたしたちの信仰を増してください。」(ルカ17:5)つまり、こう言っているのです。「主よ、そんなの不可能です。」そして彼らは正しいのです。あなたを深く傷つけた人を一日に七度赦すこと、それは簡単でしょうか。いいえ。あなた自身の力でそれができるでしょうか。それもいいえです。簡単でもなく、可能でもないのです。

イエス様はこう答えられます。

「もしあなたがたに、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言えば、その言葉に従うであろう。」(ルカ17:6、口語訳)

ここで気づいてほしいのは、イエス様が「もっと信仰を持ちなさい」とは言っておられないということです。量の話ではありません。小さくても、正しく置かれた信仰の話をしておられるのです。からし種は、地面に置かれても目に見えないほど小さなものです。一方、桑の木(または「いちじく桑」)は根がとても深く、当時の人々は簡単には抜けないと考えていました。パレスチナで一般的に見られた最も大きな木のひとつでした。

象とアリが力を合わせて、その桑の木を根こそぎにしようとする姿を想像してみてください。二匹で引っ張って、引っ張って、ついに木が倒れます。そしてアリが象にこう言うのです。「やったね、私たち、強かったね!」あるいは、2歳半のあなたの息子が、旅行用の大きなスーツケースを車まで押している姿を想像してください。「パパ、できたよ! ぼく、すごく力持ちでしょ!」まさにそういうことなのです。大切なのは信仰の量ではありません。強く信じれば山を動かせるという能力の話でもありません。たとえほんの小さな信仰であっても、それが正しく置かれているなら、困難を根こそぎにするのはあなたではなく、あなたがその信仰を置いているイエス様だということが分かるのです。

あなたの罪、神様への反抗、あなたが行う悪、そしてあなたが受ける悪という、あの抜けない桑の木を、神様はイエス様の十字架において根こそぎにしてくださいました。では具体的に、それはどう働くのでしょうか。それは、十字架のまばゆい陰の下に、身を隠し続けることによってです。赦しという課題に直面するたびに、それが小さなことであれ大きなことであれ、あなたは十字架を見つめ、神様があなたを赦すためにどれほどの代価を払われたかを思い出します。そしてこう言うのです。「もちろんです。私は、神様が私に与えてくださった赦しに基づいて、それを行うべきです。でも、それは私自身から出てくるものではありません。」わずか1パーセントの信仰で十分なのです。なぜなら、力あるお方は主だからです。

3. それはイエス様の弟子にとって、ただ当たり前のこと(ルカ17:7-10)

そしてイエス様は、小さなたとえ話でさらに念を押されます。

「あなたがたのうち、だれかしもべを持っている人がいて、そのしもべが畑を耕したり羊を飼ったりして帰ってきた場合、そのしもべに、『さあ、すぐここに来て食卓につきなさい』と言う者があるだろうか。かえって、『わたしの夕食の用意をしてくれ。そして、帯をしめて、わたしが飲み食いを終えるまで給仕をしなさい。そのあとで、あなたは飲み食いをするがよい』と言うのではないか。命じられたことをしたからとて、そのしもべに感謝するであろうか。そのように、あなたがたも命じられたことをみな、してしまったら、『わたしたちは無益なしもべです。すべき事をしたにすぎません』と言いなさい。」(ルカ17:7-10、口語訳)

あなたが経理担当者だと想像してください。一日の仕事を始め、エクセルを開いて数式を入力していきます。そして上司に電話をして、「見てください、私がやったことを!」と言ったらどうでしょう。上司はきっとこう答えるはずです。「それをするのは当たり前でしょう。」赦しについても同じです。あなたは誰かを赦し、ドアを閉め、こう祈ります。「主よ、見てくださいましたか? 私、あの人を赦しました。」そしてイエス様はこう答えられます。「それは当たり前のことです。」

「無益な」という言葉は、「価値がない」という意味ではありません。それが意味するのは、あなたはすでに完全に受け取ったものに、何一つ付け加えていないということです。それはまるで、あなたが金貨の巨大な山を受け取っていながら、そこに小さなコインを一枚置いて、まるで状況が変わるかのように思っているようなものです。山はすでにそこにあるのです。あなたが小さく付け加えたところで、贈り物の価値は変わりません。パウロが言うとおりです。「あなたのもっているもので、いただかなかったものが、ひとつでもあるのか。もしいただいたのなら、なぜ、いただかなかったもののように誇るのか。」(コリント人への第一の手紙4:7、口語訳)

これこそ、自己中心、高慢、自己正当化、パリサイ人たちを蝕んだ毒、そして自分ひとりで罪を管理できるという思い上がりに対する、最良の解毒剤です。100パーセントの恵みを受け取ったのです。あなたは無益なしもべです。すべきことをしたにすぎません。そして今、それはあなたのDNAの一部になっているのです。

覚えておきたいポイント

  • 罪への寛容度0パーセント。つまずきが起こるのは避けられませんが、それをもたらす者はわざわいです。あなたの兄弟をつまずかせず、恵みを口実にして罪を軽く扱わないようにしましょう。
  • 生きられる赦しこそ、的の中心です。一日に七度でも、悔い改める兄弟は、赦す兄弟を見出すべきです。電卓を取り出す必要はありません。
  • 正しく置かれた1パーセントの信仰で十分です。大切なのは信仰の量ではなく、それを置いている救い主です。罪という抜けない桑の木を、神様は十字架で根こそぎにしてくださいました。
  • 罪にはゼロトレランス、悔い改める罪人には限りない赦しを。これは、赦しのないこの世のリンチとはまったく対照的に、教会の中で生きられるべきことです。
  • 無益なしもべ。あなたが赦したとき、特別なことをしたわけではありません。100パーセントの恵みを受け取っている者として、弟子としての当たり前の一日を過ごしただけなのです。

個人へのアプリケーション

  1. あなたの周りに、心の中で「絶対に許さない」と思っている人はいませんか。今日、その人を思いながら十字架を見つめたら、何が変わるでしょうか。
  2. あなたは電話やコーヒーの時間を、兄弟の罪について二人、三人の人と話すために使っていますか。それとも、赦された罪人同士という安全な場で、その兄弟本人に直接語りかけるために使っていますか。
  3. あなたの生き方、言葉、模範によって、あなたは人々をイエス様に近づける人ですか、それとも人々をつまずかせる人ですか。
  4. もっと信仰が欲しいと祈るとき、あなたが求めているのは信仰の量ですか。それとも、あなたの小さな信仰を正しい場所に置くことを、神様に改めて教えていただくことですか。
  5. あなたが赦したとき、仕えたとき、耐え忍んだとき、あなたは誰かに褒めてもらいたいと思いますか。それとも、ただこう言えるでしょうか。「当たり前のことです、私はすべきことをしただけです。」

コリー・テン・ブーム:意志による赦しという行為

コリー・テン・ブームは、姉のベッツィーとともに第二次世界大戦中ユダヤ人をかくまったオランダ人クリスチャンです。二人の姉妹は強制収容所に送られました。ベッツィーは収容所で命を落とし、コリーは生き延びました。戦後数年経ったある集会で、コリーは聴衆の中に、かつて自分を苦しめた収容所の看守のひとりを見つけました。その男は、赦しについての彼女のメッセージに感謝しようと、手を差し伸べながら彼女に近づいてきました。

彼女はこう語っています。「私は祈りました。『主よ、私にはこの人を赦すことができません。あまりにもつらすぎます。あなたの赦しを私に与えてください。』そして、十字架を見つめながら、私は手を差し出しました。」コリーは強調しました。この赦しは、自然に湧き上がった感情ではなく、意識的な行為、意志による決断だったのです。赦しとは、意志的で、意図的で、自らの決断による行為です。それは、救い主の歩みに従うことなのです。

引用された聖句

よくある質問

ルカ17:10の「無益なしもべ」とはどういう意味ですか。

このギリシャ語の言葉は、「価値がない」とか「軽蔑すべき」という意味ではありません。それが意味するのは、あなたはすでに受け取ったものに何も付け加えていない、ということです。あなたが赦したり従順であったりしたからといって、神様があなたに何かを負っているわけではありません。あなたはただ、弟子がすることをしたにすぎないのです。これは、本来自然であるべきことに対して報酬を求める宗教的な高慢とは正反対のものです。恵みによって救われた人生の中で、それは自然なことなのです。

何度も同じことを繰り返す相手を、本当に赦す必要があるのですか。

イエス様は「一日に七度」と言われますが、そこにははっきりとした条件があります。「悔い改めるなら」です。赦すということは、罪を見て見ぬふりをすることでも、兄弟をいさめることをやめることでもありません。「悔い改めます」と言って戻ってくる人を受け入れることです。赦しは真実を無効にするのではなく、真実に寄り添うものです。そしてそこに電卓はありません。

「からし種一粒ほどの信仰」とは、量の問題なのでしょうか。

いいえ、この箇所は、文脈から切り離されると最も誤解されやすい聖句のひとつです。イエス様は「もっと信仰を持ちなさい」とは言っておられません。むしろ逆に、たとえ小さな信仰であっても、それが十分であることを強調しておられます。ただし条件があります。それが正しい救い主に置かれていることです。桑の木のような罪を根こそぎにするのは、あなたの能力ではありません。あなたの信仰がつながっているキリストです。正しく置かれた1パーセントの信仰は、100パーセントの人間の意志では決して届かないところにまで及ぶのです。

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