バプテスマのヨハネが答える――あなたの悔い改めはどんな実を結んでいますか

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聖書全体を貫く一つの問い

「私たちはどうすればよいのですか?」「私は何をすればよいのですか?」――これは新約聖書の中で何度も繰り返される問いです。バプテスマのヨハネに、イエス様に、ペンテコステの日のペテロに、そしてエチオピアの高官がピリポに、この問いを投げかけました。集団で尋ねられることもあれば、個人で尋ねられることもありました。そして、そのほとんどが――すべてではありませんが――救いと永遠のいのちに関わる問いでした。

出発点となる箇所はルカ3:2-14です。その年、神様はザカリヤの子ヨハネに、荒野でみことばをお委ねになりました。ヨハネはヨルダン川周辺の地域一帯を巡り歩きました。彼は人々に、罪の赦しを得るために生き方を変える証しとしてバプテスマを受けるよう呼びかけました。そして、そのヨルダン川のほとりで、まったく異なる三つのグループが、まさに同じ問いをヨハネに投げかけたのです。

興味深いのは、その答えが必ずしも同じではないということです。どの答えも霊的な決断を求めるものであると同時に、実践的なものでもあります。バプテスマのヨハネの答えは、後のイエス様の答えと同じように、問いかけた相手に合わせて調整されています。すべての人に対して一律の答えではないのです。

お話の流れ

1. ヨルダン川のほとりの群衆――持たない人と分かち合う

最初の問いは10節で群衆から投げかけられます。バプテスマのヨハネはこう答えます。「下着を二枚持っている者は、持っていない者に分けてあげなさい。食べ物を持っている者も同じようにしなさい。」

この答えは、すべての人に当てはまる一般的な原則として理解できます。ここでは、社会の中での分かち合い、隣人愛が語られています。実は、バプテスマのヨハネは旧約聖書の教えを受け継いでいるのです。

申命記15:11にはこうあります。「貧しい人はいつまでもいなくなることはないから、それであなたに命じて言う。あなたの国のうちにいるあなたの兄弟、あなたの貧しい者、乏しい者に、必ず手を大きく開かなければならない。」ある説教者は、ある政治家がこの節を引用して、それは「同胞」だけに向けられたものだと主張するのを聞いたことがあると語っています。その人には、ぜひレビ記19:33-34も読んでほしいものです。「もし在留異国人があなたがたの国に一緒に住むなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたと共にいる在留異国人を、あなたがたのうちの本国人と同様にみなし、あなた自身のように彼を愛さなければならない。あなたがたもエジプトの地で在留異国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。」

私たちは政教分離の国に生きていますが、こうした聖書のことばがラジオやテレビでもっと語られないのは残念なことです。しかし、聖書を読むあなたにとって、原則ははっきりしています。必要なもの――食べ物、衣服、生活の基本となるもの――を分かち合うこと、これが基本なのです。バプテスマのヨハネは、あなたを遠い理想へ招いているのではありません。神様が昔から求めてこられたこと、すなわち、何も持たない人に手を差し伸べることへと、あなたを立ち返らせているのです。

2. 取税人たち――定められた以上のものを取り立てない

バプテスマのヨハネのもとに来た二番目のグループは、取税人、つまり税金を集める人たちでした。ローマ帝国では、彼らは税金や通行料――ある地域から別の地域へ運ばれる品物にかかる税――を徴収する立場にありました。中には、納税者に本来支払うべき額以上を要求する者もいました。

これはルカ19章のザアカイの話からもうかがえます。ザアカイはイエス様の前に立ってこう言います。「主よ。ご覧ください。私は今から、私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だまし取った物は、四倍にして返します。」

これが、取税人が嫌われていた理由の一つです。まず、彼らはローマ人に協力していました。そのうえ、多少なりとも人のものをかすめ取っていたのです。バプテスマのヨハネが彼らに与えた答えからも、それがうかがえます。「規定以上のものを取り立ててはいけません。」

この答えは群衆への答えとは異なります。それは彼らの職業と、そこに潜む固有の誘惑に向けられたものです。もしあなたが、経理や商売、交渉ごとなど、他人のお金があなたの手を通っていくような立場にいるなら、バプテスマのヨハネはあなたに、このとてもシンプルな要求を思い起こさせます。正しい範囲にとどまり、自分のものでないものは取らないこと、それです。

3. 兵士たち――だれからも金を巻き上げず、給料で満足しなさい

14節に登場する三番目のグループは兵士たちです。彼らも尋ねます。「私たちは何をすればよいのでしょうか。」答えはこうです。「だれからも金をゆすったり、だまし取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」

説教者は、ここで語られているのはローマ兵ではなく、ヘロデの兵士たちだろうと考えています。バプテスマのヨハネは彼らに、自分の力や権力を使って隣人を苦しめてはならないと語りかけています。給料に満足するということは、恐喝や略奪への戒めを含んでいます。力があるからといって、奪えるものを奪ってはいけない、ということです。

ここでもやはり、答えは相手に合わせて変えられています。群衆には、持たない人と分かち合うこと。取税人には、途中で懐に入れずに正直に仕事をすること。兵士には、恐喝せず、乱用せずに仕事をすること。問いかけてくる人や立場によって、答えは変わってくるのです。

4. 共通する糸――行いに表れる悔い改め

それでも、これら三つの答えには共通する一本の糸が通っています。それは、自分が罪人であることを認めること、悔い改めであり、そこから生まれてくる目に見える結果です。ヨハネはその手紙の中でこう述べています。「子どもたちよ。私たちは口先や言葉だけで愛するのではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(ヨハネ第一 3:18)

バプテスマのヨハネの働きの中には、神様がだれをも退けられないということも見えてきます。悔い改めと罪の赦しは、すべての人に開かれています。どのような立場であっても、どのような状態にあっても、扉は開かれたままなのです。ルカ7:29-30はそれを裏づけています。「(取税人を含めて)この話を聞いた人たちはみな、神は正しいお方であると認めました。人々はみな、ヨハネからバプテスマを受けていたからです。ところが、パリサイ人や律法の専門家たちはヨハネからバプテスマを受けていなかったので、神のご計画を拒み、退けてしまったのです。」

この箇所で印象的なのは、イエス様に心を閉ざしたままだったのは、宗教的な人々だったということです。そして、バプテスマのヨハネは決して「私のように生きなさい」とは言いません。問いかけてくる人に、自分の外面的な生活スタイルをまねるようにとは求めていないのです。彼が見ているのは内面です。律法主義に基づく教えとは、そこがまったく違います。

5. パリサイ人と取税人――何によって自分を高めているか

「私たちは何をすればよいのですか。」ある人はこう答えるかもしれません。少なくとも一日二時間は祈りなさい、週に一、二回は断食しなさい、毎日一節ずつ聖句を暗唱しなさい、収入の十分の一をささげなさい、と。これらのこと自体が悪いわけではありません。しかしルカ18:11-14を読んでみてください。

パリサイ人は立って、心の中でこう祈りました。「神様。私はほかの人々のような、貪欲な者、不正な者、姦淫する者ではなく、殊にこの取税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一をささげております。」一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、ただ胸をたたいて言いました。「神様。罪人の私をあわれんでください。」「あなたがたに言いますが、あの取税人が、義と認められて家に帰りました。あのパリサイ人ではありません。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高くされるのです。」

もしあなたが、自分では良いと思っていることを、人と比べる材料として利用しているなら、それは間違った道を進んでいることになります。神様がまず見ておられるのは、宗教的な実績ではありません。恵みを必要としていると認める心なのです。

6. 富める青年――同じ問いに、より心を揺さぶる答え

マルコ10章でも、この問いは再び登場します。今度はイエス様が、戒めについて語る興味深い答えを返されます。19節から、イエス様はこう言われます。「あなたは戒めを知っているはずです。人を殺してはいけません。姦淫してはいけません。盗んではいけません。うそをついてはいけません。人をだましてはいけません。父と母を敬いなさい。」

なぜイエス様はこのように戒めを並べられたのでしょうか。それは、この人物のことをよくご存じだったからです。この人がこれまで何をしてきたかを、イエス様はよくわかっておられました。その人はこう答えます。「先生。そのようなことは、みな子どものころから守っております。」

21節にはこうあります。「イエスは彼を見つめ、その心をいとおしく思われました。『あなたには、たった一つだけ欠けたものがあります。今すぐ帰って、財産を全部売り払い、その代金を貧しい人たちに施しなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。それから、わたしについて来なさい。』このイエスのことばに、彼は顔を曇らせ、悲しそうに帰って行きました。たいへんな金持ちだったからです。」

一つの問いを投げかけることが、心を揺さぶる答えにつながることがあります。「あなたには、たった一つだけ欠けたものがあります。」――すべてを持っている人がこれを聞くとき、それはかなり重く響きます。そしてこれは、私たち自身にも問いかけてきます。自分に欠けているものは何だろうか。手放すべきものは何だろうか。それは救われるためではなく、イエス様により近く歩むためです。

この富める青年の話は、一見すると悲しい結末に思えるかもしれません。彼は悲しみながら立ち去ったのですから。それでも、この話は希望に満ちています。23節から、イエス様は弟子たちを見回して、財産を持っている者が神の国に入るのはなんと難しいことか、と語られます。この言葉に弟子たちは驚きます。イエス様はさらに続けます。「子どもたちよ。神の国に入るのは、なんとむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがまだ簡単です。」弟子たちは互いに尋ね合います。「それでは、いったいだれが救われるのだろう。」イエス様は彼らを見つめて言われます。「人にはできないことも、神にはできます。神には、どんなことでもできるのです。」

興味深いのは、この後どうなったのか、私たちには分からないということです。放蕩息子のたとえで、兄が怒って家に入ろうとしないままそこで話が終わるのと少し似ています。父親は兄を招き入れますが、彼がどう応じたのかは記されていません。彼には三つの道がありました。父を喜ばせるために家に入るか、怒りにとどまってそのまま去るか、あるいは、家に戻ってきた弟をもう一度見つけ直すことに気づくか、です。聖書がこうしていくつもの可能性について私たちに考えさせてくれるのは、これもまた恵み深いことです。

確かなことが一つあります。それは、イエス様がこの青年を愛しておられたということです。もしかすると、あなたも時々、神様が何か心をかき乱すようなこと、あなたがしたくないようなことを求めておられると感じるかもしれません。それでも一つだけ確かなことがあります。イエス様はあなたを愛しておられ、あなたにとって最善のものを望んでおられるのです。

7. ヨハネ6章とミカ6章――答えの核心

ヨハネ6:28-29で、群衆はイエス様にこう尋ねます。「神のわざを行うには、何をしたらよいのでしょうか。」イエス様はこう答えられます。「神が遣わした者を信じること、それが神の行うわざです。」

この答えは、福音の核心を言い表しています。神様がまず求めておられるのは、御子への信仰です。そして、この信仰から、変えられた人生が生まれてきます。これは、バプテスマのヨハネも、ペテロも、パウロも、ほかのすべての使徒たちも語っていることです。「私は何をすればよいのですか」という問いには、いつも、信仰とその実を結ぶ生き方とを結びつける答えが返ってきます。

最後に、ミカ6:6-8を見てみましょう。「私は何を持って、主の前に出、いと高き神の前にひれ伏せばよいのだろう。私は一歳の子牛の全焼のいけにえを持って、御前に出るべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油の川を喜ばれるだろうか。私のそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私の胎の実をささげるべきだろうか。」そして、その答えが続きます。「主は人よ、何が良いかをあなたに告げられた。主が、あなたに求めておられることは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」

この箇所は、バプテスマのヨハネ、イエス様、そして使徒たちがこれから教えることを、すでに先取りして告げているという点で、実に印象的です。神とともにへりくだって歩むこと、公義を行うこと、誠実を愛すること。新約聖書は、ミカが示した道徳的な要求を取り消すのではありません。その要求が実を結ぶ源は、イエス・キリストへの信仰と、聖霊の働きの中にあるのです。

こうして、聖書全体を貫く一つの問いに行き着きます。どうすれば神様に応えることができるのか。新約聖書が示す答えは、それがイエス・キリストにあって成就するということです。アーメン。

心に留めておきたいポイント

  • 同じ問いに、異なる答え。バプテスマのヨハネは、群衆、取税人、兵士に、それぞれ違う答えを返しています。具体的な悔い改めは、あなたの立場や仕事、誘惑によって異なる形を取ります。
  • 悔い改めは行いに表れます。口先だけで愛することでは十分ではありません。バプテスマのヨハネは、ヨハネ第一3:18と同じように、目に見える実――分かち合うこと、公正であること、力を乱用しないこと――を求めています。
  • だれもあらかじめ退けられてはいません。赦しは、群衆にも、取税人にも、兵士にも、富める青年にも、すべての人に差し出されています。心を閉ざしてしまうのは、自分はすでに正しいと思い込んでいる人たちだけです。
  • ルカ18章のパリサイ人は、あなたへの警告です。自分の「良い行い」を人と比べる材料にすることは、間違った道を歩むことになります。
  • 答えの核心はヨハネ6:29にあります。父が遣わされた方を信じること。この信仰から実が生まれてきます。それはミカ6:8にあるとおり、公義を行い、誠実を愛し、へりくだって神とともに歩むことです。

あなたへの適用

  • もしバプテスマのヨハネがあなたに「あなたは何をすればよいのですか」と尋ねたら、あなたの仕事や今の状況に合った答えは何でしょうか。
  • あなたの人生の中に、「もう一枚の下着」――衣服や食べ物、時間、あるいは能力――として、何も持たないだれかと、今週分かち合えるものはありますか。
  • あなたは、仕事や権威、家族の中での立場を利用して、「定められた以上のもの」を得ようとしていることはないでしょうか。どこで、もう一度、公正であることに立ち返れるでしょうか。
  • ここのところ、あなたはパリサイ人の祈り(「ほかの人のようでないことを感謝します」)と、取税人の祈り(「罪人の私をあわれんでください」)、どちらに近いでしょうか。
  • 富める青年のように、イエス様が愛のまなざしをもって、あなたに手放すよう求めておられる、たった一つのことがあるとしたら、それは何でしょうか。

引用聖句

よくある質問

なぜバプテスマのヨハネは、それぞれのグループに違う答えを与えたのですか。

それは、悔い改めが画一的な宗教のひな型ではなく、あなたの具体的な生活の中に形を取るものだからです。群衆には分かち合いを思い起こさせ、取税人には彼ら固有の誘惑――正当な額以上を取ること――に向き合わせ、兵士には力の乱用に向き合わせています。共通する原則は、自分が罪人であることを認めることであり、その適用の仕方は、あなたの立場によって変わってくるのです。

良い行いを積むだけで、神様との関係は正しくなるのですか。

いいえ。ルカ18章がそれを示しています。パリサイ人は、断食も十分の一献金も祈りも「正しく」行っていましたが、それを人と比べる材料にしてしまい、義と認められないまま家に帰りました。一方、取税人は自分が罪人であると認め、義と認められて帰って行きました。ヨハネ6:29もそれを裏づけています。最初に求められているわざは、イエス様を信じることです。実はその信仰の結果として、後からついてくるのです。

富める青年のように、イエス様に従うためにはすべてを売り払わなければならないのですか。

イエス様の答えは、この特定の人物の中で、神様だけが占めるべき場所を奪っていたものに向けられています。この人にとって、それは富でした。あなたにとっては、それは別のものかもしれません。問われているのは「すべてを売るべきかどうか」ではなく、「あなたがイエス様に完全に従うことを妨げているものは何か」ということです。それは、イエス様が愛のまなざしをもって尋ねられた問いであり、今もなお、あなたに問いかけておられる問いなのです。

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