はじめに
あなたの靴は、今どんな状態でしょうか。日曜日の朝に履いていく靴のことではありません。パウロがエペソの信徒への手紙で語っている靴、「平和の福音の備えを足に履」く、あの熱心の靴のことです(エペソ 6:15)。ギリシャ語のこの「熱心」という言葉は、「備え」「いつでも動ける状態」とも訳せます。だとすると、問いはこう突き刺さってきます。あなたは、イエス様のことを語る備えが、今どれくらいできているでしょうか。
ティモテ・セラによるこのメッセージは、使徒 12:25から使徒 13:13を通して、アンティオキアの教会、パウロとバルナバの第一次伝道旅行の道、そして魔術師エリマスとの対決へとあなたを連れていきます。祈りと断食を続けていた一つの教会全体が、聖霊が最も優れた二人の働き人を送り出そうとしているのを聞き取ります。さて、あなたの靴は、今どんな状態でしょうか。
メッセージの構成
1. アンティオキア:聖霊が語るままにさせる教会
使徒の働き11章と12章で、それまでにない出来事がアンティオキアで起こります。ユダヤ人出身のクリスチャンたちが、初めて本当の異邦人にイエス様を伝えるのです。コルネリオとその仲間たちのような「ユダヤ教に親しんでいた人々」だけではありません。実はこの場所で、弟子たちは初めて「クリスティアノス」、すなわちクリスチャンという名で呼ばれるようになります。
ルカは、この教会にいた人々を数え上げています。預言者、教師、伝道者たちです。後にパウロがエペソの信徒たちに書いた言葉(「ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師とされたのです」エペソ 4:11)と照らし合わせると、アンティオキアには二つの要素が欠けていたことに気づきます。使徒がいません(彼らはエルサレムにいました)。そして長老もまだいません。「ポイメーン」(牧者)も、「エピスコポス」も、「プレスビュテロス」もいないのです。統治の体制はまだ整っていませんでした。
おそらくそれゆえに、エルサレムはバルナバを派遣し、バルナバはタルソスへパウロを迎えに行きます。しかし、本質は組織図にはありません。この熱気に満ちた教会では、人々が聖霊に満たされ、祈り、神様の御心を見極め、それに従っていました。その土台こそが、すべての中心だったのです。
2. あなたの生き方は、聖霊に何を語っているでしょうか
ティモテ・セラは、心に刺さる問いを投げかけます。「私たちの教会組織は、聖霊に何を語っているでしょうか」。組織が、神様の臨在や聖霊の賜物の不足を埋め合わせるために使われている教会があります。表面上はうまく回っています。戦略を立て、人を集めようとし、お金を管理する。しかし、いちばん大切なもの、心の中にある神様の臨在が欠けているのです。
この問いは、私たちの教会にも当てはまりますし、あなた自身にも当てはまります。あなたの生き方は聖霊に「助けてください、来てください、あなたが必要です」と語っているでしょうか。それとも「大丈夫です、ありがとうございます、自分でやっていますから、また日曜の朝に」と語っているでしょうか。
3. パウロとバルナバの派遣:共同体としての識別
祈り、断食し、神様に耳を傾けるうちに、アンティオキアの教会はある確信を受け取ります。「さあ、バルナバとサウロを、わたしが召した働きのために、わたしのために聖別しなさい。」これは直感に反するようなことでした。バルナバは、この教会を見守るために使徒たちから派遣された人物でした。パウロは補佐役として招かれた立場でした。それなのに、統治もまだ整っていないこの小さな教会が、使徒たちの派遣した人物とその右腕を、今度は自分たちが送り出そうとしているのです。
あなたは、心の中で聖霊の召しを感じたことがあるでしょうか。誰かほかの人のためにそれを感じたことはあるでしょうか。印象的なのは、この確信が一人だけに与えられたのではなく、教会全体に与えられたことです。誰かほかの人に関わることであるとき、神様は普通、この確信を複数の人に同時に与えてくださいます。
ティモテはこう証しします。「私はもう十年近く、牧師になるために神学を学んできました。週4日勤務に切り替える機会がありました。祈った結果、一日を神様のために取り分けることが神様の御心だという確信を受け取りました。経済的には不安がありました。でも、神様は備えてくださいました。神様が召してくださるとき、それがどんなに奇妙に思えても、その背後で神様は必ず備えてくださるのです。」
4. エリマスとの対決:緊張の中の福音
キプロスで、パウロとバルナバは総督セルギウス・パウルスに招かれます。「賢明な人」でした。ところがこの総督のそばには、魔術師エリマス・バル・イエスがいて、自分の影響力を使ってセルギウスを信仰から遠ざけようとしていました。聖霊に満たされたパウロは、彼にこう立ち向かいます。「ああ、あらゆる欺きとあらゆる悪巧みに満ちた者、悪魔の子よ、すべての義の敵よ……主の御手がお前の上にある。お前は盲目になる。」たちまち暗闇が彼を包みます。総督は、主の教えに驚き、信じるようになります。
あなたは、この場面に自分の姿を重ねられるでしょうか。ティモテは、恥じらいながらこう打ち明けます。「私の戦いは月曜の朝です。同僚が『週末どうだった?』と聞いてくるとき。私の戦いは、『いつも通り、良かったよ』と答えないことです。そうではなく、『実は昨日礼拝でこんなことがあって、神様が私の中の何かに触れてくださったんだ』と言うことです。」パウロとエリマスの場面ほどのスケールではありません。私たちの周りでは、福音はもはやそれほど熱狂も、それほど反発も引き起こしません。むしろ大きな無関心を引き起こしています。そして私たちの危険は、まさにその同じ生ぬるさに感染してしまうことなのです。
5. 生ぬるさから抜け出すための四つの具体的な道
この生ぬるさから立ち直るには、どうすればよいでしょうか。ティモテは、自らの歩みとアンティオキアの教会から学んだ、四つの支えを提案します。
1. 神様との関係に立ち返ること。 アンティオキアの教会がそうしたように、祈り、断食し、耳を傾けることです。あなたが次に神様と質の高い時間を過ごすのは、いつでしょうか。
2. その生ぬるさそのものを悔い改めること。 音もなく根づいてしまったこの習慣、週末に起こったすべてを語るのに、神様がしてくださったことだけは語らずにいる、その習慣です。
3. 賛美と感謝に立ち返ること。 レザレクシオン教会では、どの礼拝も「この一週間、あなたが神様に感謝していることは何ですか」という問いから始まります。この七日間で神様が自分の中でしてくださったことがわからなければ、どうやって伝えるべき良い知らせを持つことができるでしょうか。
4. 伝道する前に、自分が伝道されること。 私たちは、自分自身がどれだけ福音を受け取っているか、その分だけしか福音を伝えられません。ティモテは、依存症からの解放についての説教のあと、ある男性が小声で近づいてきて言った言葉を語ります。「十年前、私は薬物依存でした。ある日突然、やめられたんです。あれは神様が助けてくださったのだと確信しています。」ティモテは言います。「あの日、私が彼を伝道したというより、彼が私を伝道してくれたんです。」
6. 裁きにも、生ぬるい愛にも陥らずに伝道する
伝道するとは、人類の罪のためにイエス様において与えられた神様の赦しの力を示すことです。そこには二つの落とし穴があります。
一方には、裁きに傾きすぎる教会があります。「きちんと悔い改めて、きちんとへりくだって、きちんと告白したら、そのときようやく……」というような姿勢です。もう一方には、愛に傾きすぎるあまり、罪を名指すことを忘れてしまう教会があります。目指すべきは、イエス様が立っておられる、その正確な一点です。
パウロがエリマスに対してしたように、罪と向き合うことを恐れてはいけません。しかし、それは救いのためであって、断罪のためではありません。パウロはコリントの信徒たちにこう書いています。「神のみこころに添った悲しみは、後悔することのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(第二コリント 7:10)。そして注目すべきことに、パウロがエリマスに与えた一時的な盲目という出来事は、パウロ自身がダマスコへの道で経験し、そのことによっていのちへと導かれた、まさにあの出来事でもあるのです。
もう一方で、罪人を愛することは、その人の罪を愛することではありません。イエス様は、社会の片隅にいる人々、逸脱していると見なされていた人々のもとに足を運ばれました。イエス様は彼らを余すところなく愛されましたが、その罪を愛されたことは一度もありません。慣れてしまうことも、冷酷になることもない、この二重の誠実さこそが、伝道を可能にするのです。
7. 思い切って踏み出す:創意工夫と備え
ティモテは、20世紀半ばに伝道を布教活動と混同し、それを手放してしまった教会の家系の出身です。ゼロからやり直すとき、伝道に「アレルギー」のある教会共同体で、どうすればよいのでしょうか。思い切って踏み出すのです。2024年6月21日、小さなチームは教会の庭を開放し、バーベキューを用意し、二人のミュージシャンを招いて、音楽祭に参加しているふりをしました。近所の人たちがやって来ました。
教会の人々が一歩を踏み出せるように、彼らは「スピードデーティング」のようなカードゲームを用いました。「あなたにとって良い死とはどんなものですか」「お金についてどう考えていますか」といった問いです。伝道を恐れていたクリスチャンたちが、通りすがりの隣人と霊的な会話を始め、それを心から楽しんでいる自分に気づいたのです。
結局のところ、大切なのは心の状態です。あなたは、隣人を愛しているでしょうか。パウロはテモテにこう語りかけます。「神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊です」(第二テモテ 1:7)。パウロがエリマスに立ち向かったような、力。神様が愛されるように愛する、愛。そして、イエス様御自身が人となって私たちの間で見分けられる者となられたように、隣人に合わせていく、慎み(知恵)です。
覚えておきたいポイント
- 「熱心」の靴は、ギリシャ語では「備え」とも読めます。問われているのは、まず何ができるかではなく、歩き出す備えができているかどうかです。
- アンティオキアは、統治の体制は完全ではなくても熱気に満ちた教会のモデルです。それを支えていたのは、祈りと断食と聖霊への従順でした。
- 宣教の識別は共同体で行われます。神様は、一人の召しを複数の人の分かち合われた確信によって確かめてくださいます。
- あなたの周りで、福音はおもに無関心を引き起こしています。あなたの最大の危険は、その同じ生ぬるさに感染してしまうことです。
- あなたは、自分自身がどれだけ福音を受け取っているか、その分だけしか伝道できません。宣教に出る前に、賛美と感謝に立ち返りましょう。
- 伝道するとは、罪に対する神様の裁きと、救いをもたらす神様の愛を、ともに保ち続けることです。断罪でもなく、甘やかしでもありません。
あなたへの適用
- 月曜の朝、同僚が週末について尋ねてきたら、あなたは神様があなたの人生でしてくださったことを口にする勇気を持てるでしょうか。
- あなたが次に神様と質の高い時間を過ごすのは、いつでしょうか。今週のスケジュールに、それを書き込めますか。
- この七日間で、あなたが具体的に神様に感謝していることは何でしょうか。少し時間をかけてでも、書き出してみましょう。
- あなたが召しの確信を抱いている人はいますか。それを兄弟姉妹に話して、ともに識別してみませんか。
- あなたの周りで、まだイエス様を知らない人は誰でしょうか。今週、その人のために何ができるでしょうか。食事に誘う、一つの問いを投げかける、招待する――。
引用された聖句
- 使徒 12:25~13:13 ― 主要テキスト、パウロとバルナバの派遣とエリマスとの対決
- エペソ 6:15 ― 平和の福音の備えを足に履く
- エペソ 4:11~13 ― 使徒、預言者、伝道者、牧師と教師
- 第一コリント 9:16 ― 「福音を宣べ伝えないなら、私は不幸なのです」
- 第二コリント 7:10 ― 神のみこころに添った悲しみと、世の悲しみ
- 第二テモテ 1:7 ― 力と愛と慎みの霊
よくある質問
「福音のための熱心の靴」とは何ですか
エペソ 6:15から取られたイメージで、パウロがクリスチャンの武具について語っている箇所です。この靴は、良い知らせを伝える備えができていることを表しています。「熱心」と訳されているギリシャ語は、「備え」や「準備」とも読めます。それは、イエス様を伝えるために歩み出す備えができている、クリスチャンの心の状態のことです。
伝道における生ぬるさから抜け出すには、どうすればよいですか
ティモテ・セラが提案する四つの支えがあります。神様との関係に立ち返ること(祈りと断食)、その生ぬるさを悔い改めること、日々の賛美と感謝を学び直すこと、そして伝道する前に自分自身が伝道されるままになることです。あなたは、自分が受け取っている分だけを伝えるのです。
裁くことなく、しかし甘くもせずに伝道するには、どうすればよいですか
伝道するとは、罪に対する神様の裁きと、救いをもたらす神様の愛を、同時に示すことです。基準はシンプルです。罪を名指すのは、パウロがエリマスにしたように、いのちへと導くためであって、決して断罪したり排除したりするためではありません。イエス様は罪人を余すところなく愛されましたが、その罪を愛されたことは一度もありませんでした。
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