はじめに
ゴドフロワ・ド・ブイヨンのある言葉に、思わずはっとさせられます。エルサレムの王冠を差し出されたとき、彼はこう答えたのです。キリストがいばらの冠を被られた場所で、自分が金の冠を被るわけにはいかない、と。この答えには名前があります。それが謙遜です。正直なところ、自分自身のことを考えるとき、これが一番先に浮かぶ性質だとは限らないのではないでしょうか。
けれども、神に近づこうとする者にとって、謙遜は選択肢の一つではありません。それは祈りの中心であり、礼拝が根を下ろす土台です。イエス様はこのことを、とても短いたとえ話で語られました。二人の男と二つの祈り、一人はパリサイ人、もう一人は取税人です。最後に、義とされて家に帰るのはただ一人だけでした。しかもそれは、私たちが思うような人物ではありません。
たとえ話の展開
1. 祈るために上って行った二人
ルカ 18:9-14を開いてみてください。イエス様は、自分を正しい者と思い込んで他人を見下していた人たちに向けて、この話をされました。二人の男が神殿へ祈りに上って行きます。一人はパリサイ人、もう一人は取税人です。
パリサイ人は、いわば非常に霊的で信仰熱心な人物です。神に従うこと、すべてを正しく行うことが彼の情熱でした。聖書を隅々まで知り尽くしています。外から見れば、なんと立派な人だろうと思うでしょう。
一方、取税人はその正反対です。当時のイスラエルはローマに支配された国でした。一部のユダヤ人たちは、その支配者のために税を取り立てることで、抑圧者に加担していたのです。彼らは気の弱いだけの人物ではありません。自分の民と自分の神を裏切った者たちでした。いわば、占領下で敵国に協力した者たちのようなものです。
2. パリサイ人の見せかけの謙遜
彼の祈りを見てみましょう(11〜12節)。彼はまず神に感謝することから始めます。悪くない出だしです。他の人たちのようでないことを、神に栄光を帰す形で語ってさえいます。よく祈る人だな、と思うかもしれません。ところが、その先を読むとすべてが明らかになります。
彼の祈りの中の「私」を数えてみてください。「私は感謝します、私は他の人のようではありません、私は断食しています、私は献げています」。私、私、私。見せかけの謙遜はここにあります。それは感謝という装いをまとっていますが、その重心は神ではなく、自分自身にあるのです。
神に近づきながら、祈りの中で自分自身が主役であり続けるとき、あなたは見せかけの謙遜に陥っています。賛美の中であなたを魅了するものが、神がどなたであるかよりも、自分が何を感じるかであるとき。イエス様に感謝する理由が、その方ご自身よりも、感謝することで得られるちょっとした高揚感であるとき。見せかけの感謝は、謙遜とはまさに正反対のものなのです。
3. 取税人の叫び
取税人の祈りは、たった一文に収まります。「神様、罪人の私をあわれんでください。」彼は遠くに立ったままです。目を天に上げることさえせず、胸を打ちたたきます。
この人は、自分がそこにいるにふさわしくないことを知っています。自分は無であり、神がすべてであることを知っているのです。これこそが、態度としての謙遜の核心です。すなわち、自分がふさわしくないという自覚です。それは陰気な悲しみではなく、「取るに足りない人間である私が、どうして偉大な神に語りかけることができるのか」と言わせる感覚なのです。
あなたはしばしば、こうして集まり、ただ神に語りかけることができるという特権を忘れてしまいます。神があなたに耳を傾け、答え、喜びと恐れなく礼拝させてくださること。それがどれほどの恵みであるかを。あなたは時に、神をまるでノックもせずに入り、テーブルに足を乗せ、冷蔵庫から勝手に何かをつまむような、そんな友人のように扱ってしまいます。しかし、あなたが語りかけている方は、天上の最も力ある存在たちさえひれ伏すほどに、偉大なお方なのです。
4. 義とされて帰った者
イエス様の結論ははっきりしています(14節)。義とされて家に帰ったのはパリサイ人ではなく、取税人でした。「おおよそ自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」
二人の男、同じ神殿への上り、同じように見える意図。しかし、神と和解して帰って行けたのはただ一人でした。その違いは、道徳的な行いにも、聖書の知識にも、宗教的な熱心さにもありません。神に語りかけるその瞬間の、心のありようにあるのです。
心に留めておきたいこと
- 謙遜は霊的なおまけではありません。あなたの祈りが神に届くための条件です。
- 見せかけの謙遜は感謝という姿を借りますが、中心には常に「私」があります。
- 神の前で安心するために他人と自分を比べること、それ自体がすでに高慢です。
- 取税人には差し出せるものが何もありませんでした。ただ、自分がふさわしくないという自覚だけです。しかし、それこそが彼を救ったのです。
- 神の前で、あなたに残された唯一のよりどころは、神の恵みです。あなたの実績ではありません。
自分自身への適用
- あなたが祈るとき、その言葉の主役はあなた自身ですか、それとも神ですか。
- 神の前で少しでも「まし」だと感じるために、密かに他のクリスチャンと自分を比べてしまうことはありませんか。
- ただ神に語りかけることができるという特権に、今もなお心動かされていますか。
- あなたの生活の中で、神が取税人の叫びを求めておられるのに、パリサイ人を演じてしまっている領域はありませんか。
- 今週、もっと短く、もっと飾らず、もっと正直な祈りとはどんなものでしょうか。
引用された聖句
- ルカ 18:9-14 ・ パリサイ人と取税人のたとえ
よくある質問
なぜ取税人は、パリサイ人よりもひどい罪人として描かれているのですか。
当時のユダヤ社会の目には、実際にそう映っていました。取税人はローマの占領者と結託し、しばしば自分の同胞から搾取していたのです。一方、パリサイ人は宗教的な理想そのものを体現していました。ですから、イエス様がここでもたらした逆転は衝撃的です。「善い人」が失われたまま帰り、「悪い人」が赦されて帰る。神の前で大切なのは、社会的な肩書きではなく、心の真実だからです。
謙遜であるためには、常に罪悪感を抱いていなければならないのですか。
いいえ、違います。聖書的な謙遜とは、自分を責め続ける罪悪感ではありません。それは「神は偉大で、私は小さい。神は聖なる方で、私には神の恵みが必要だ」と認める明晰さです。この自覚は喜びと礼拝を締めつけるのではなく、むしろそれらを解き放つのです。
自分の感謝が本物か、それとも高慢が装われたものかを、どう見分ければよいですか。
一つの良い基準があります。神に感謝するとき、その文章は神で終わっていますか、それともあなたで終わっていますか。「主よ、こうしてくださって感謝します」なのか、それとも「主よ、私があの人のようでないことを感謝します」なのか。文の向かう先は、心の向かう先を多くのことを物語っています。
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