はじめに
「実話は好きですか?」というこの問いかけから、このメッセージは始まります。モンペリエ・リシテール神の教会(Assemblée de Dieu de Montpellier Richter、EMR)で開かれた「福音の発見(Découverte de l'Évangile)」の夕べでのメッセージです。語り手は、ドキュメンタリーや映画を観るとき、それが実際にあった出来事に基づいているかどうかをいつも知りたくなると打ち明けます。そうした話は、本当に起こったことだからこそ、より心に響くのです。そして聖書も、実際に起こった出来事でできている、と語ります。
そこで、みことばを開く前に、ひとつの実話を語ります。逃げた奴隷、イエスのことを語ってくれた囚人、そして「ありったけの愛」を込めて書かれた手紙の話です。その手紙は見つかっていて、あなたも持っています。あなたの聖書の中にあるのです。それは、新約聖書の終わりのほうにある、一章だけの書、パウロがピレモンに宛てた手紙で、読み飛ばされることもあります。
語り手はまず祈ります。神がひとつの言葉、ひとつの文を用いて、ある心に触れてくださいますように。人を回心させるのは人の声ではなく、聖霊がしもべを用いて心を刺し貫いてくださるからです。この夜、語り手は特定のひとりに語りかけます。解決策を求めてあちこち駆け回り、神がその状況を解決してくださるとは思っていない人です。語り手は、それは可能だと信じています。
メッセージの構成
1. 実話:奴隷と囚人と手紙
- ひとりの男が奴隷でした。なぜ主人の家を出たのかは、はっきりとはわかりません。逃げ出したのか、追い出されたのか。その「ちょっとした逃避行」の中で、彼はひとりの囚人と顔を合わせます。
- この囚人は、彼にイエスのことを語ります。牢獄でイエスの話をするのは奇妙に思えるかもしれませんが、奴隷は心を開き、福音の真理を受け入れます。
- そこで囚人は、主人のもとに戻って事を正すよう彼を励まします。時は紀元60年ごろです。戻ってきた奴隷は、「誕生日のように風船で」迎えられたわけではありません。その結果は、死に至ることさえありました。
- しかし、囚人は主人を知っています。そこで、恵みを示してくださるよう願う手紙を書きます。奴隷が犯したかもしれないあらゆる悪について、自分が保証人となります。「それを私の勘定にしてください。」そして、もう奴隷としてではなく、キリストにある兄弟として迎えてほしいと願います。
- 物語はそこで終わります。奴隷が手紙を届けたのか、信頼したのか、それとも面倒を避けたのかは、わかりません。囚人は使徒パウロ、奴隷はオネシモ、主人はピレモンです。テモテもパウロとともにいます。
2. 自由に、しかし愛をもって語る
- 8節で、パウロは、キリストにあって、ふさわしいことをピレモンに命じる自由が十分にあると述べます。しかし9節では、「愛のゆえに」、つまり愛をもって願うほうを選びます。
- 語り手も同じ均衡を求めています。福音が語るべきこと、主が心に置かれたことを語りつつ、誠実に、裁くことなく語るのです。だれにでも、自分と神との間にある事柄があります。
- 「ときどき、私たちは笑顔で教会に来て、すべて順調に見えても、心の奥底ではそうでないことがあります。」神はそれをご覧になり、ご存じです。神は、私たちをこよなく愛してくださる父です。
- 語り手が示すイメージはこうです。神は天から一通の手紙、愛のメッセージを送られました。そのメッセージこそ、イエス・キリストです。神は、パウロがピレモンにそうしたように、ご自身の愛を人間という封筒に入れて、私たちに届けてくださいました。
3. 新しく生まれたオネシモ:やり直すことができる
- 10節で、パウロはオネシモを、鎖につながれている間にもうけた自分の子と呼びます。パウロはおそらく彼に強制はしませんでしたが、イエス・キリストのことを語りました。「私はここで商売をしたり、何かを売ったりするために来たのではありません」と語り手は明言します。私たちの役目は、イエスとともにあれば人生が変わりうると告げ知らせることです。
- 「新しく生まれる」という言葉は、初めて読んだときにはわかりません。しかしイエスは、過去を後ろに置いて、やり直すことができると語ってくださいます。「そう、私はこういう人間でした。でも、別の人になれるのです。」
- 私たちはもう昔のような奴隷制の中には生きていません。しかし、「自分ではどうにもならなかった」と言うとき、何かが私たちを支配しているということです。そのとき私たちは、自分を支配するものの奴隷になっています。
- 語り手はこのことを証ししています。長い年月、さまざまなものの奴隷でしたが、神が解放してくださいました。人々は、医者のほかにも解決策があると聞く必要があります。神は、あらゆる依存から解放することがおできになります。
4. 役に立たない者から、役に立つ者へ
- 11節で、パウロは言葉遊びをしています。オネシモは以前はピレモンにとって役に立たない者でしたが、今は役に立つ者です。そして、オネシモという名前は、まさに「役に立つ」「有益な」という意味です。
- あなたはこう思っているかもしれません。「あれも失敗した、これも失敗した、自分は何の役にも立たない。なんとか持ちこたえて、仕事には行くけれど、人生に意味がない。」語り手は、キリストとともにあればすべてが変わりうると信じているだけでなく、それを知っていると語ります。
- 彼はクリスチャンの家庭に生まれましたが、区別をつけています。自分はクリスチャンではなく、「クリスチャンの子ども」でした。自分の問題も重荷もすべて含めて、人生のすべてを主に捧げた日、すべてが変わりました。朝起きると生きる理由があり、それは今も彼を離れていません。
- 彼は優等生ではなく、何をやってもだめだろうとほのめかされていました。その行いからすれば、それが待っている道だったのかもしれません。「しかし、神は私を役に立つ者にしてくださいました。」いつか福音を宣べ伝えることになるなど、想像もしませんでした。
- クリスチャンの究極の目標は、神にとって役に立つ者になることです。彼がいつかイエスの口から聞きたいと願う言葉は、「わが子よ、そう、あなたは私の役に立ってくれた」です。
5. もう奴隷ではなく子:自由な選択
- 12節で、パウロはオネシモを「わたしの心そのもの」として送り返します。語り手はここに力強い真理を見ます。私たちは神の子どもとなることができるのです。神は私たちを造られましたが、初めから私たちが神の子どもであるわけではありません。
- ガラテヤ4:7:「このように、あなたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。」この節は、メッセージの準備中に彼の心を深く打ちました。自分は世界でいちばん自由だと思っていた彼が、実はそれほどまでに縛られていたのです。
- ガラテヤ3:26:「あなたがたはすべて、信仰によりキリスト・イエスにあって、神の子である。」それは信仰によって、ただ信仰によって与えられるもので、すべての人に開かれています。福音を初めて聞くのであっても、何度目に聞くのであっても、機会は今もあります。
- 14節で、パウロは自分の利益を脇に置きます。ピレモンの同意なしには何もしたくないのです。その善い行いが強いられたものではなく、自発的なものとなるためです。同じように、神はだれも強制しません。ひとりひとりの選択を尊重されます。「神が私たちに強制するなら、もはやラブレターという考えはなくなります。義務からするのなら、それは愛ではありません。」
6. 離れていた時
- 15節は、オネシモがしばらくの間ピレモンから離れていたのは、ピレモンが彼を永久に取り戻すためだったと述べています。語り手はこの節でつまずいたことを打ち明け、主はエペソ2章へと導かれました。
- エペソ2:3-5:私たちは生まれながらの怒りの子でしたが、「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし(あなたがたの救われたのは、恵みによるのである)」。
- 本当にキリストを受け入れるまでは、クリスチャンの家庭にいても、彼自身はキリストから離れていました。その離れていた時が、彼を探し求めさせ、皆が「あの方は私の人生を変えてくださった」と語るその方を見つけさせたのです。
- キリストから離れていることは霊的な死であり、神は私たちがみな死から永遠のいのちへと移ることを望んでおられます。けれども、その時がいつまで続くのかはだれにもわかりません。「あとで考えよう、病院のベッドの上ででも」と言う人もいます。しかし、明日何が起こるのかはだれにもわかりません。この選択は、できるだけ早くしてください。
- 神から離れているとき、私たちはある仕方で反応します。キリストにあっては、もう自分の思いのままには歩まず、ささいなことに至るまで神のみこころを求めます。
7. 「それを私の勘定にしてください」:イエスは私たちの身代わりになられた
- 16節で、パウロはピレモンに、オネシモをもう奴隷としてではなく、愛する兄弟として迎えるよう求めます。イエスに従うとき、私たちはふさわしい価値で見られ、オネシモのように、私たちもキリストのしもべ、福音の大使となることができます。
- 17節と18節で、パウロはオネシモのあらゆる問題について、彼の身代わりになります。イエスがしてくださったのはまさにそれです。イエスは私たちの身代わりとなり、私たちの負債はすべて支払われました。神はもはや私たちの古い性質ではなく、新しい性質をご覧になります。
- よく「イエスのほうから最初の一歩を踏み出してくださった」と言います。語り手は、この表現を「少し軽い」と感じています。イエスはご自分を無にし、天の栄光を離れて地上に来られました。それは一歩どころではありません。私たちが心を差し出すよりも前に、イエスは、ご自分を拒む人々のためにさえ、ご自身を差し出すと決めておられたのです。
- 20節で、パウロは「キリストにあって、わたしの心を安らかにしてもらいたい」と書きます。語り手はこの言葉を自分のものとします。この夜、彼は失われるかもしれないひとつの魂のために重荷を負っているからです。あなたを造り、あなたのために死なれた方に向きを変えて、私の心を安らかにしてください。
- 神の前で、私たちは有罪です。しかし、イエスが私たちの心におられるなら、イエスは私たちの弁護者であり、私たちは自分の功績ではなく、信仰によって義とされます。その日、彼は言います。「私はこの手紙を取り出すことができる」。私はキリストを受け入れました、十字架で流された御血が私の罪を覆っています、と。
- 「あなたの名前は、いのちの書に記されていますか?」イエスはルカ10:20でこう言われます。「むしろ、あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」この確信があるなら、「あなたはすべてを得たのです」。
8. この手紙をどうしますか?
- 福音は告げ知らされました。これからは、ひとりひとりに責任があります。あなたはこのラブレターを受け取り、心の中に携えています。その奥底に何があるのかは、だれにも見えません。決めるのはあなたです。
- この手紙を、イエス・キリストを、隠しますか、それとも喜びますか?魂の奥にしまっておきますか、それともどこかに置きっぱなしにしますか?
- 回心しないままある部屋に入り、キリストに人生を捧げて出ていくことができます。そこで人はクリスチャンになります。もしかすると、あなたはオネシモのように、遠くへ行ってしまったのかもしれません。そう、私たちは罪人です。しかし、神は赦してくださいます。
- ローマ10:9:「すなわち、もしあなたの口で、イエスは主であると告白し、あなたの心で、神が死人の中から彼をよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」
- すべては成し遂げられました。神はすでに、最も美しい行いをなさいました。愛する御子イエスを地上に遣わし、へりくだらせて、私たちを救ってくださったのです。
心に留めたいこと
- イエスは、神が天から送られたラブレターです。神の愛が人間という封筒に入れられたのです。
- オネシモのように、あなたも新しく生まれ、過去を後ろに置き、神の手の中で役に立たない者から役に立つ者へと変えられることができます。
- イエス・キリストを信じる信仰によって、あなたはもう奴隷ではなく子であり、神の恵みによる相続人です。神はだれも強制されません。愛は押しつけることができないのです。
- イエスは、パウロがオネシモにしたことをしてくださいました。あなたの身代わりとなり、あなたの負債はすべて十字架で支払われました。
- 離れている時がいつまで続くのか、だれにもわかりません。応答するときは、今日です。
個人的な適用
- あなたの人生に、「自分ではどうにもならない」と言ってしまうものはありますか?あらゆる依存から解放してくださる神に、それを委ねる準備はできていますか?
- あなたはクリスチャンですか、それとも、クリスチャンの子どもにすぎませんか?あなた自身がイエスに心を開きましたか?
- あなたの名前は、いのちの書に記されていますか?あなたの確信は何に基づいていますか。自分の功績ですか、それともイエスがあなたのためにしてくださったことですか?
- あなたの人生は、完全にキリストのものですか?主とともに歩む中で、役に立っていますか?
- 主に近づくために、何を実行すべきでしょうか。そして、あなたが受け取ったこのラブレターを、どうしますか?
引用された聖句
- ピレモンへの手紙 1-22節
- ガラテヤ人への手紙 4:7
- ガラテヤ人への手紙 3:26
- エペソ人への手紙 2:3-5
- ヨハネによる福音書 3:3
- ピリピ人への手紙 2:7
- ルカによる福音書 10:20
- ローマ人への手紙 10:9
よくある質問
パウロがピレモンに宛てた手紙には、何が書かれていますか?
主人ピレモンの家を出ていた奴隷オネシモは、獄中で使徒パウロに出会い、イエス・キリストを受け入れます。パウロは愛を込めて書いた手紙を持たせ、彼を主人のもとへ送り返します。ピレモンに対して、オネシモをもう奴隷としてではなく愛する兄弟として迎えること、そしてオネシモが負っているかもしれないものはすべて自分の勘定にするよう求めています。
なぜイエスを「天から届いたラブレター」と呼ぶのですか?
語り手はひとつの霊的なイメージを示します。パウロがピレモンにラブレターを送ったように、神は天から愛のメッセージを送られました。そのメッセージとは、人間という封筒に入れられた神の愛、イエス・キリストです。パウロがオネシモにしたように、イエスは私たちの身代わりとなり、私たちの負債はすべて支払われました。
オネシモという名前はどんな意味ですか?
オネシモは「役に立つ」「有益な」という意味です。パウロは11節でこの意味を用いて言葉遊びをしています。以前はピレモンにとって役に立たなかったオネシモが、今はピレモンにとってもパウロにとっても役に立つ者となっています。語り手によれば、自分は役に立たないと感じている人も、キリストにあって人生の意味を見いだし、主の役に立つ者となることができます。