狭い門と、エルサレムへの叫び:みんな天国に行けるのか

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はじめに

「主よ、救われる者は少ないのですか」。ある人がエルサレムへ向かって歩くイエス様に、この問いを投げかけました(ルカ13:22-23)。私たちの周りを見渡すと、神の民の小ささに戸惑うことがあるかもしれません。私たちは少数派で、教会は目立たない存在に見え、世の中では「みんな天国に行けるさ」という声がよく聞かれます。ルカ13:22-35でのイエス様の答えは、まっすぐで妥協がありません。統計を示すのではなく、あなた自身、あなたの決断、そして狭い門をくぐる緊急性へと話を引き戻されます。そしてイエス様は、集められることを拒んだ町、エルサレムのために涙を流されます。この箇所は二つのことを教えています。「みんな天国に行ける」というのはそう単純な話ではないこと、そして本当に問われているのは、あなたが本気でそこに入りたいと願っているかどうか、ということです。

メッセージの流れ

1. 背景:エルサレムへ上るイエス様と、ある人の気まずい問い

  • ルカ13:22はこう描写します。イエス様は町や村を巡りながら教え、エルサレムへの道を進んでおられました。この「上って行く」歩みこそ、ルカの福音書全体の鍵です。イエス様は、いのちを差し出すために上って行かれるのです。
  • 23節。「主よ、救われる者は少ないのですか」。この人は周りを見渡し、私たちが自分たちの集会や町を見るときと同じ感想を抱きます。「少ないな」と。それは悪い兆しなのでしょうか。
  • その直前(ルカ13:18-21)で、イエス様は神の国をからし種とパン種にたとえられたばかりでした。今は小さく、ほとんど目に見えないものでも、やがて大きく育っていくものです。さらにその前(ルカ13:1-5)では、二度繰り返してこう言われました。「悔い改めなければ、みな同じように滅びます」。
  • イエス様は数字で答えません。問いの方向を変えられます。本当に急を要するのは「何人が救われるか」ではなく、「あなた自身は、今、入ろうとしているか」なのです。

2. 「そう単純ではない」理由その1:門はただ一つ、しかもそれは狭い

  • 24節。「狭い門から入るように努めなさい」。この「努めなさい」という言葉は、アスリートや兵士の訓練を表す言葉です。これは救いが私たちの努力で勝ち取るものだという意味ではありません。神の国に入るのは恵みによってです。むしろ、イエス様を拒否したり、軽く見たりする世界にあって、信仰はすべてを、全力を尽くしてイエス様に結びつくものだ、ということです。
  • 門はただ一つです。ルカの福音書は冒頭からそれを告げています。マリアに対して御使いは、その子がダビデの王座を受け継ぐと告げます(ルカ1:32-33)。イエス様を腕に抱いたシメオンには、御霊がこう語らせます。「私の目は、あなたがすべての民の前に備えられた御救いを見ました」(ルカ2:30-31)。
  • この排他性は、いろいろなカードを集めておきたい宗教的な人には衝撃的です。念のためヒンドゥー教のカード、仏教のカード、キリスト教のカードを持っておこう、というように。それはイエス様の時代のユダヤ人の聴衆にとってもそうでしたし、相対主義が当たり前になった今日のポストキリスト教社会の私たちにとっては、なおさらそうです。
  • すべての道がローマに通じるわけではないように(このことわざは本当ではありません、信じないでください)、すべての道が神に通じるわけでもありません。神が天国の門を開くカードとして与えられたのは、ただ一枚、それがイエス様です。

3. 理由その2:ある日、この門は永遠に閉じられる

  • 25節。「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなたがたが外に立って戸をたたき、『ご主人様、開けてください』と言い始めても、主人は『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう」。
  • これは衝撃的です。イエス様が語りかけているのは、選ばれた民の一員だからです。彼らはこう答えるでしょう(26節)。「私たちは、あなたの前で食べたり飲んだりしましたし、あなたは私たちの通りで教えられました」。つまり、「イエス様、私たちはあなたのそばにいました、あなたは私たちの日常の一部でした」ということです。それでは足りないのです。
  • ポストキリスト教社会に生きる私たちにとって、これは直接自分に当てはまります。「私の村には教会があった」「四つ角ごとに十字架があった」「ミサに行ったことがある」「イエス様について少しは知っている」。イエス様と遠くから付き合うこと、キリスト教的な背景を持っていること、その言葉を知っていること、それだけでは足りません。
  • ルカの福音書で大切な動詞は「迎え入れる」です。マルタとマリアはイエス様を家に迎え入れ、マリアはその足もとに座って耳を傾けます(ルカ10:38-42)。イエス様は弟子たちをこの約束とともに送り出されます。「あなたがたに聞く者は、わたしに聞くのです」(ルカ10:16)。イエス様を迎え入れるとは、あなたの救い主として、あなたの信頼を置くことです。今日、信仰によってイエス様を迎え入れることは、明日、イエス様の栄光のうちにあなたを迎え入れていただくことにつながります。

4. 理由その3:この門は、正反対の二つの永遠の運命を分けて閉じられる

  • 28節。「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブ、また、すべての預言者たちが神の国にいるのに、自分たちだけが外に投げ出されているのを見るとき、そこで泣いて歯ぎしりすることになります」。イエス様は、まったく相反する二つの現実を描いておられます。
  • 一方には御国の宴会があります。永遠の喜び、神との完全な一致、悪と苦しみと死の終わり、あらゆる国々から来た男女とともに同じ食卓を囲む交わり。「そして人々は、東から西から、また北から南から来て、神の国で食卓に着きます」(29節)。
  • もう一方には、門があったこと、それが狭かったこと、そして今はもう閉じられて二度と入れないことを、はっきりと悟らされる意識があります。
  • あなたを救うのは、あなたの経歴ではありません。あなたのアイデンティティでも、実績でも、成績でも、出自でも、宗教でもありません。それは、ただ一つの門であるイエス様に置かれた信仰、アブラハム、イサク、ヤコブが持っていたのと同じ信仰です。「見なさい。今、後の者で先になる者があり、また、先の者で後になる者があります」(30節)。後の者とは、イエス様以外に誇るものが何もないと知っている人たちのことです。

5. 「本当に入りたいと願っているか」:ヘロデ、あの狐、そしてイエス様を見つめようとしない拒絶

  • 31-33節。数人のパリサイ人がイエス様に、ヘロデがあなたを殺そうとしていると警告に来ます。彼らは本気でイエス様を守りたいわけではなく、ただ立ち去ってほしいだけです。脅しを使ってイエス様を遠ざけようとしているのです。イエス様はそれを見抜いて言われます。「行って、あの狐にこう言いなさい。『見よ、わたしは今日も明日も悪霊を追い出し、病を癒やし、三日目にすべてを終える』。しかし、わたしは今日も明日も次の日も、進んで行かなければなりません。預言者はエルサレム以外の場所で死ぬはずはないからです」。
  • イエス様はご自分の受難を思い起こさせています。イエス様は、ご自分を拒む民の真ん中で死ぬために、エルサレムへ上って行かれます。それは、その同じ民が、イエス様を信じることによって滅びることのないためです。それはイエス様の時代の欺瞞であり、私たちの時代の欺瞞でもあります。イエス様を拒む一番効果的な方法は、正面から戦うことではなく、時に、距離を置くこと、イエス様が差し出しているものを軽く扱うこと、狭い門と向き合わずに済むように「みんな天国に行けるさ」と言うことなのです。
  • 根本的な問いは、もはや「何人が救われるのか」ではありません。「あなたは本当に入りたいと願っているか」です。なぜなら、もし本当にそう願うなら、イエス様の教えを都合よくやり過ごすことはできず、それを真剣に受け止めるようになるからです。

6. エルサレムに向けたイエス様の叫び:それはパリのため、そしてあなたのため

  • 34-35節。「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、あなたに遣わされた人たちを石で打ち殺す者よ。めんどりがひなを翼の下に集めるように、わたしは何度あなたの子らを集めようとしたことでしょう。それなのに、あなたがたはそれを望みませんでした。見なさい。あなたがたの家は見捨てられます。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言う時まで、あなたがたは決してわたしを見ることがありません」。
  • ここで先に語っているのは怒りではなく、傷ついた優しさです。めんどりがひなをかばうために翼を広げ、代わりに打たれる覚悟をしている姿。それは、イエス様がご自分を拒む町への愛を表すために選ばれたたとえです。
  • イエス様がエルサレムについて語られたことは、今日、私たちの町々についても語られています。パリよ、パリよ、わたしは何度あなたを集めようとしたことでしょう。私たちの村、私たちの建物、私たちの家族に、神様は何度その声を届けようとされたことでしょうか。
  • そしてイエス様は、ここで呼びかける声をただ一つしかお持ちでないわけではありません。弟子の数だけ、その声をお持ちなのです。イエス様の死は、恵みの年を開きました(ルカ4:19)。私たちは今、門が閉じられる前の恵みの時を生きています。子どもに呼びかける親のように、「戻っておいで、戻っておいで」と、私たちは呼びかけるため、呼びかけ続けるために遣わされているのです。

心に留めたいポイント

  • イエス様は統計的な問い(「何人が救われるのか」)を退け、あなたを個人的で緊急な問いへと引き戻されます。「あなた自身は、今、入ろうとしているか」。
  • 門はただ一つ、しかも狭い門です。それがイエス様です。どんな経歴も、どんな宗教も、どんな功績も、イエス様に結びつく信仰の代わりにはなりません。
  • ある日、門は閉じられます。イエス様と遠くから付き合うこと、「キリスト教的な背景」の中にいたこと、イエス様について何かを知っていること、それだけでは足りません。大切なのは、イエス様を迎え入れることです。
  • 門の向こうには、正反対の二つの運命があります。地の四方から来た人々とともにある御国の宴会か、それとも外に取り残されたことをはっきり悟る意識か。
  • 本当の問いはこうなります。「あなたは本当に入りたいと願っているか」。本気で願うなら、イエス様を都合よく扱うことはできず、その招きを真剣に受け止めるようになるからです。
  • イエス様は今も私たちの町々のために涙を流しておられます。私たちは恵みの年のただ中に生きており、めんどりがひなを思うのと同じ優しさをもって、あなたが愛する人々に呼びかけるよう、イエス様はあなたを遣わしておられます。

あなたへの適用

  1. あなたの教会や集会、あかしの小ささを前にして、数字を数えては落胆したくなりますか。それとも、御国はからし種やパン種のようなもので、必ず成長していくと思い起こしますか。
  2. もしイエス様だけでは足りないときのために、あなたの心はまだどんな「予備のカード」を用意しようとしていますか。人の評価、見せかけの信心深さ、道徳的な行い、家柄でしょうか。
  3. イエス様を「時々訪ねる」こと(礼拝、習慣、キリスト教的な言葉)と、イエス様を本当に「迎え入れる」こと(あなたのいのち、決断、将来をお任せすること)の違いについて、あなたは今どこに立っていますか。今週、何を変える必要があるでしょうか。
  4. あなたの口から、あるいは心の中から、「みんな天国に行ける」という言葉が出て、狭い門についてあなた自身が真剣に考えることを避けさせていないでしょうか。
  5. 今週、誰のために祈りたいですか。あなたが愛していて、「アブラハム、イサク、ヤコブとともに食卓につく」姿を見たいと願う三人の名前を挙げ、めんどりがひなを思うような優しさをもって、どのようにイエス様について語りかけるか考えてみましょう。

引用された聖句

よくある質問

「狭い門から入るように努めなさい」とありますが、それでは努力によって救われるということでしょうか。

いいえ、そうではありません。この点は説教者自身が強調しています。私たちが御国に入るのは恵みによって、ただ一つの開かれた門であるイエス様を通してです。「努めなさい」(24節)という言葉は、アスリートや兵士の訓練を思わせる言葉です。イエス様を拒んだり軽んじたりする世界の中で、信仰は受け身なものではなく、心のすべて、力のすべて、忠実さと忍耐のすべてを傾けて、イエス様につながり続け、神に通じない他の門へと引き寄せる声に惑わされないためのものだ、ということです。

「私たちは、あなたの前で食べたり飲んだりしました」と言い、イエス様に「あなたがたがどこの者か、私は知らない」と言われる人たちとは、誰のことでしょうか。

文脈から見て、これはイエス様のそばにいながら、信仰をもってご自身をお任せしなかったイスラエルの民の一部を指しています。今日で言えば、それはまさにポストキリスト教社会に当てはまります。「キリスト教的な背景」の中にいる人たち、四つ角の十字架、教理を習った記憶、いくつかの宗教的な習慣、多少のキリスト教用語は知っていても、イエス様に自分の信頼を置いたことがない人たちです。メッセージははっきりしています。イエス様について何かを知っているだけでは足りません。イエス様を迎え入れる必要があるのです。

イエス様は人を怖がらせるために地獄を語っているのでしょうか、それとも別の理由があるのでしょうか。

それは人を脅して従わせるためのものではなく、愛から出た警告です。イエス様は正反対の二つの現実(御国の永遠の宴会と、外に取り残されたと悟る意識)を描かれます。それは、門がまだ開いていて、あなたにその中に入ってほしいと願っておられるからです。エルサレムに向けた叫びがそれを物語っています。「めんどりがひなを翼の下に集めるように、わたしは何度あなたの子らを集めようとしたことでしょう。それなのに、あなたがたはそれを望みませんでした」(34節)。そこに響いているのは何よりも怒りではなく、愛する者たちのために涙を流す神の、傷ついた優しさなのです。

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